三国関連未処理めも
気づいたことなどのメモ。未処理・未調査・未分類の記事の集積所。 ■呉の石陽攻め 朱然伝には黄武6(227)年の事とあるが、呉主伝・明帝紀では226年、曹丕が没したのに乗じて石陽(あるいは江夏)を攻めたとある。どうも朱然伝が間違っている。 ちなみに呉軍を防いだ魏の将は江夏太守の文聘。 ■全琮の没年 全琮伝によれば赤烏12(249)年だが、呉主伝によると赤烏10(247)年の春正月。 ■関羽、解池の蛟(=蚩尤)を退治@大宋宣和遺事 雑劇にもなっているこの話、大宋宣和遺事(前集上)にある (2008.09.09) ■唐代、武成王(=太公望)に陪祀された名将たち 『新唐書』巻15(志5・礼楽5)に詳しい。 上元元年、文宣王(孔子)廟の孔門十哲に擬して武成王に陪祀されたのは、白起・韓信・諸葛亮・李靖・李勣(以上左列)・張良・田穣苴・孫武・呉起・楽毅(以上右列)。 建中三年には、歴代の名将64人の肖像を武成王廟に飾った。そこに選ばれた三国の人物は、 魏:張遼(征東将軍晋陽侯) 鄧艾(太尉) 呉:周瑜(偏将軍南郡太守) 陸遜(丞相婁侯) 呂蒙(武威将軍南郡太守孱陵侯) 陸抗(大司馬荊州牧) 蜀:関羽(前将軍漢寿亭侯) 張飛(車騎将軍西郷侯) 肩書は『新唐書』のもの。陸遜は荊州牧・右都護も兼務してそうだけど…。呂蒙の「武威将軍」は、『三国志』だと「虎威将軍」になっていて、たぶん「虎威将軍」が正しい。けど、『文選』の(陸機「弁亡論」の)注釈(李善注)でも「武威将軍」になってた気がするなあ。 おまけで、~司馬晋までの陪祀された人物はこんな感じ。(司馬晋以降の人があんま分からぬ;<オイ) 斉(姜斉・田斉):管仲・孫臏・田単 越:范蠡 趙:廉頗・趙奢・李牧(藺相如はいないんか…) 秦:王翦 前漢:曹参・彭越・周勃・周亜夫・李広・衛青・霍去病・趙充國 後漢:鄧禹・呉漢・賈復・馮異・寇恂・耿弇・馬援・段熲・皇甫嵩 司馬晋:羊祜・杜預・陶侃・王濬・謝玄 上記の三国の皆さんが、管仲だの范蠡だの廉頗だのの錚々たる英傑と同列に扱われてる…と思うとテンション上がるな…!(で、諸葛亮はそのさらに上ってことか…) ■清の頃の正史三国志注釈書 『清史稿』巻146(志121、芸文2)(維基文庫)にあったやつ…写し間違いがあるかも;; ・『三国志挙正』(4巻) 陳景雲 ・『三国志考証』(8巻