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晋の赤狄白狄キラーまとめ

『春秋大事表』巻39「春秋四裔表」より、狄(赤狄・白狄)のまとめ。ちうか、晋の赤狄白狄キラーの皆さんのまとめです。例によって自分用めも。 大事表曰く、狄には 赤狄・白狄・長狄 の三大部族がいるらしいのですが、その中で晋との関わりが深い赤狄・白狄の記述をまとめてみます。(なお、今回スルーした長狄は、魯の叔孫得臣に捕らえられた長狄僑如なんかの部族っす。) ■赤狄 左伝には荘公32年(BC662)に登場。狄の源流?で、単に「狄」という場合だいたい赤狄。閔公・僖公の頃(BC661~BC627)の間は赤狄・白狄の区別がなかったが、僖公32年(BC628)に狄に内乱が起きた際に分裂したらしい。6氏族に分けられる。成公3年(BC588)に滅亡。 ①東山皐落氏 閔公2年(BC660)、(献公に邪険にされた) 太子申生 が討伐した(させられた)。 ②ショウ咎如 成公3年(BC588)、 郤克と衛の孫良夫 が討伐。杜預注曰く、荀林父にやられた潞氏の残党がこちらと合流していたために郤克達が討伐した、とのこと。これで赤狄は全て滅ぼされた、と大事表さんは考えているようです。 ③潞氏 宣公15年(BC594)、 荀林父 が滅ぼす。杜預注(宣11)によれば、赤狄の中では最強の氏族。それゆえに白狄と間隙が生じたらしく、それを察知した郤缺が白狄と同盟を結ぶことで赤狄を弱体化させる(=BC598)。この郤缺の布石もあり、長年晋や他の国々を苦しめてきた赤狄潞氏を荀林父が討滅するに至る。邲の戦い(BC597)で敗戦の責任を負って自害まで考えた荀林父が、見事に赤狄最強の潞氏を滅ぼすという大功を立てた。 雪辱を果たして安堵したのか、その直後に荀林父は死去したようで、潞氏滅亡の翌年には士会が荀林父に代わって執政になってます。 ④甲氏 ⑤留吁 ⑥鐸辰 宣公16年(BC593)、まとめて 士会 が滅ぼす。荀林父さんの遺志を継いで赤狄を倒した感もある…。最強の潞氏がいなくなったとはいえ、三氏族を一掃する士会はすごいな…1年くらいしか執政やってないのに仕事しすぎや…。 (郤缺→)荀林父→士会→郤克の執政リレーで赤狄を滅ぼしたんですなー。郤缺→荀林父間が少し空いたのは、間に邲の戦い(BC597)があったせいで、士会→郤克間が少し空いたのは、間に鞍の戦い(BC589)があって郤克が斉を叩き潰す方にご執心だったからですかね。

『中国姓氏考』めも

王泉根(著)、林雅子(訳)『中国姓氏考』(第一書房)のめも。気になったところを箇条書きで。主に春秋関連のこと。[ ]内は自分の勝手な補足~。例によって自分用めもです。 ●夏・殷・周の姓 『白虎通義』姓名篇・『論衡』怪奇篇に記載がある。 夏(禹)は「姒」姓、殷(契)は「子(好)」姓、周(后稷)は「姫」姓。禹の母は薏苡(よくい:ハトムギのこと)に、契(せつ)の母は燕の卵に、后稷の母は巨人の足跡に感じてそれぞれ子を身ごもった。 ●舜・神農の姓 『説文解字』(姚字)に記載あり。舜(虞舜)の姓は「姚」だが、これはその一族がいた土地である「姚虚」から取った。また、『説文解字』(姜字)によれば、神農(炎帝)は「姜水」の近くにいたことから「姜」を姓としたらしい。 ●「姓」と「氏」について 姓=血統を表し、女系を示す。 氏=勲功(周による分封)を表し、男系を示す。 …といえる様子。『説文解字』(氏字)の段.玉.裁注などにそう書いてあるっぽい。 ●「氏」の決め方 漢の応.劭の『風俗通義』姓氏篇によれば、周代の命氏のパターンは9種類。 ①号による氏 ②居による氏 ③事による氏 ④諡による氏 ⑤爵による氏 ⑥国による氏 ⑦官による氏 ⑧字による氏 ⑨職による氏 宋の鄭.樵の『通志』氏族略はさらに細かくて、32種類に分類している。 『通志』から主な例を挙げると以下の通り。 ①国名を氏とするパターン:周の文王の第三子で「管」国に封じられた「管」叔鮮など。晋に封じられた唐叔虞は「晋」氏の祖らしい。 ②採邑名を氏とするパターン:[この本では例に挙がってないけど、晋の卿によくあるパターンだよな…魏氏、韓氏、范氏とか。温邑をもらった郤至が「温」季と呼ばれるのもこれだよなー。] ③郷名を氏とするパターン、④亭名を氏とするパターン:③④は①に準ずるパターンかな…郷も亭も、与えられた爵位によって与えられる土地のことらしいので。(※「宗法封建制」なる周の制度に基づくと、郷=子爵の者に与えられる封土、亭=男爵の者に与えられる封土らしい。) ⑤地名(居住地の名)を氏とするパターン:封土を受ける資格がない人はこのパターンで氏を決めるらしい。傅岩という土地の人が「傅」氏を名乗り、橋山黄帝陵を守る人が「橋」氏を名乗るなど。 ⑥姓を氏とするパターン:姚、姜、姫、子とかとか。 ⑦字(あざな)を氏とするパターン:王父(祖父)

楚材晋用

タイトルは、楚の人材が晋に亡命して、晋がその人材を利用してかえって楚をやっつけちゃうんだぜ!という四字熟語。 この四字熟語の典拠が、左伝と国語にあります。蔡の声子(公孫帰生)という人が楚の子木(屈建)に対して、楚から亡命して晋に貢献した四人の話をしてるのです。 ただ、左伝と国語とで、声子が挙げた四人というのが違ってるので、そいつをメモっておきたいのです。 左伝(襄公26年) だと、以下の四人。 ①析公 ・文公14(BC613)年、子儀の乱(カリスマ荘王様が即位早々拉致られたアレ)の際に晋に亡命 ・成公6(BC585)年、繞角の戦いで献策し、楚を破る (↑勢いに乗った晋軍が追撃しようとしたら荀首・士燮・韓厥に止められた、あの戦い) ②雍子 ・父兄に讒言されて晋に亡命 ・成公18(BC573)年、靡角で楚軍に遭遇した際に献策し、楚を退ける ③巫臣 ・夏姫をめぐって子反とモメて晋に亡命 ・呉と通交して射御の術を教え、呉に楚を攻めさせる ④苗賁皇 (子越の子) ・宣公4(BC605)年、若敖の乱(子越の反乱)の際に晋に亡命 ・成公16(BC575)年、鄢陵の戦いで献策し、楚を破る 国語(楚語上) だと、この四人。 ①王孫啓 (子元の子) ・荘公30(BC664)年、子元(当時の楚の令尹)の乱の際に晋に亡命 ・僖公28(BC632)年、城濮の戦いで先軫に献策し、楚を破る ②析公 ・子儀の乱に際し晋に亡命 ・具体的な活躍は不明だが、楚を破ったらしい (↑韋昭は、左伝と同じく繞角の戦いで活躍したと注している) ③雍子 ・父兄が共王に対して彼を讒言したため、晋に亡命 ・鄢陵の戦いで欒書に献策し、楚を破る ④巫臣 ・夏姫をめぐって子反とモメて晋に亡命 ・呉と通交して射御の術を教え、呉に楚を攻めさせる だいたい同じですが、左伝と国語で違うのは、要は ・析公・雍子・巫臣の三人は共通だが、左伝は苗賁皇、国語は王孫啓を挙げる ・雍子が関与した戦いが、左伝では靡角の戦い、国語では鄢陵の戦いになっている ・析公の活躍が、国語では曖昧 …という三点ということになるでしょうか。 鄢陵の戦いの軍師というと苗賁皇!というイメージがあるのですが、国語だと、鄢陵の戦いの軍師は雍子!なんですね。国語の晋語の方にも鄢陵の戦いの描写はありますが、士燮さんが喋り倒してるのがメインで(エッ)、晋がどんな策で楚を破った

春秋時代の暦法

数ヶ月前に『天地明察』に嵌っていた時に、杜預が『左伝』に基づいて作った暦についての論文をみてメモを取っておいたのですが、それをアップし忘れていたので…。だいぶゆるいまとめです(>_<); 「杜預の春秋長暦について」という渡邉よしひろ先生の論文のまとめです。 杜預の長暦の概略と、杜預が認識していた暦法の基礎についてのまとめをば。 ■『春秋長暦』のこと 長暦は、杜預が、『左伝』の「隠公元年より始まる各月の一日の干支を示し、『春秋』と左伝に記載された干支が何月何日に当たるかを計算したもの」。ご存じの方にとっては当り前の事なのですが…『春秋』や『左伝』では、日付(や年)を十干(甲乙丙丁…)と十二支(子丑寅卯…)の組み合わせで表してます。例えば、邲の戦いがあったのは「六月乙卯」の日、と『春秋』に記してあります。杜預は、この六月の一日の干支を示し、そして六月乙卯の日が何日だったのかを計算した、ということになるでしょうか。 『春秋長暦』は明の頃には既に散逸しており、現在見られるものは『永楽大典』などに基づいて作られた輯本『春秋釈例』に収められているらしいです。 ■昔の暦について 戦国時代の四分暦に始まる中国の暦は、どれも「太陰太陽暦」。これは、地球が太陽の周りを一周する周期(一太陽年≒365.2422日)と、月が地球の周りを一周する周期(一朔望月≒29.5305日(平均))とを組み合わせたもの。1朔望月で1年の長さを計算すると、1年≒354.4308日にしかならず、一太陽年と較べると10.8114日短く、だいたい三年経つとそのズレが一朔望月分に達し、季節がズレていってしまうので、季節とのズレを解消するために閏月を入れて調節していたらしい。 ※上記の数字は今の天文学が算出したもので、昔の中国ではそこまで正確な値は出てなくて、もすこしアバウトな数で計算してたと思われます。 ■閏月のルール 戦国時代の頃から、「十九年七閏法」という閏月の置き方が確立していたらしい。19年を一章として、その間に7回の閏月を設けるのが「十九年七閏法」。 閏月を設けるタイミングは、太陽年に基づいて定められた「二十四節気」という季節の区分によって決まるらしいです。「二十四節気」は、一太陽年を24等分して設定したもので、冬至・夏至、春分・秋分…とかです。二十四節気には、「中気」と「節気」との別があり、

巫について

 ※妄想要素強めです 巫って何なんやーと思って、白川先生の『古代中国の文化』を引っ張り出して少し見てました。ざっと見ただけなので把握し切れてないのですが、要は鬼神・自然神を対象とする呪術者で、歌舞を以て祈るのが 巫 …らしい(一方、霊魂(特に祖霊?)を対象とし、言葉を以て祈るのが「 祝 」らしい)。「巫」という字も、袖を持って舞う形らしい。 あと、左伝の中の巫も少しチェックしてみたのですが、巫というのは人の死を予言してばかりいるなぁ…。 桑田の巫 (晋景公の死を予言した人)・ 梗陽の巫 (荀偃の死を予言した人)もそうだし、楚に范の巫の 矞似 という人もいたんだけど(『左伝』文10)、彼も楚の成王・子玉・子西の横死を予言してた。 巫臣 も、もしかして人の死が見える人だったのかなー…というか、そういう設定もアリかなーと思ってます。 夏姫が楚に来た後、荘王や子反に対しては夏姫を娶るのはおよしなさいと言ってるのに、夏姫が連尹襄老に嫁ぐ時には別段止めてないんですよね。そしてそれから一年も経たないうちに襄老は邲の戦いで戦死。楚が晋から歴史的大勝を得た戦いでまさかの戦死…。襄老がすぐ死ぬ(=夏姫の配偶者がいなくなる)のが分かってたから、夏姫が襄老に嫁ぐことには口を挟まなかったのかもー…とかなんとなく考えてます。夏姫を連尹襄老に嫁がせたのは荘王ですが、裏には巫臣の口添えがあったりして。 あと、巫臣が夏姫と駆け落ち(…)するために動き出したのも、たぶん荘王の死(宣18=BC591年7月)の一年前くらいからじゃないかなーと思います。 巫臣があれこれ工作して夏姫を鄭に寄こすよう鄭から楚に申し入れをさせた際、荘王の下問を受けた巫臣が答えた中に「荀首が新たに中軍の佐となった」という言葉があるのです。荀首が中軍の佐となったのは、郤克が中軍の将に昇格し中軍の佐の座が空いた後と考えるのが妥当なので、つまり中軍の将だった士会が引退して郤克がその座に座った後、すなわち宣17=BC592年8月以降と考えるべきだろうと思われます。つまり巫臣が荘王の質問に答えたのは、BC592年8月以降だと思われます。工作を行ったのはその少し前。自分の意見によく耳を傾けてくれた荘王が間もなく亡くなるのが分かっていたから、荘王への忠を尽くした後に楚を離れようとした…とmousouするのもアリかしら…。次の王の共王さまは幼くて

晋厲公・秦康公めも

■厲公の名は「州蒲」じゃなくてもともと「州満」? 会箋を見てたらそんな説があったのでエエッと思ったのですが、自分が見られる範囲の諸説を見るに、 「州満」 推しの説を唱える人がかなりいる。左伝は厲公の名を「州蒲」と記し、一方史記では厲公の名が「寿曼」となっており、左伝と史記で厲公の名が全く異なっているのです。そこで昔の学者(例:唐の陸徳明)は、左伝の伝える厲公の名はもともと「州満」だが、、周の穆王の諱の「満」を忌んで「州蒲」としたのではないかと推理しておるようです。「州満」ならば「寿曼」とも音が近く相通じるようなのです。 ■秦の康公について …お恥ずかしい話ですが自分は左伝を最初から通して読んだことがなく、僖公33年から成公年間くらいしかまともに読んだことがありません…。。。僖公33年以前の記事には必要でない限り目を通していないのです…; 故に、僖公15年に、秦の康公(太子罃)が出てくることをつい先日まで知らなかったのです…。しかも オカンが穆姫 、すなわち晋の献公の娘であることもその時知った始末です…。つまり秦の康公って晋の献公(重耳のオヤジですな)の孫に当たるんですね…。康公は晋の外孫だと杜預が注で言っていたのは見たことがあり気になってはいたのですが、根拠となる記事がどこにあるか分からんかったので放置してたんですよね…そうか、そういうことだったのか…。 (2012.02.03)

荀林父と狄についての私見

左伝文公13年に、晋の六卿が狄の賈季か秦の士会を戻って来させっぺーって相談してた時、 荀林父 さんは賈季を推して結局却下されてるのですが、何故荀林父さんが賈季を推したのか…を少し妄想してみた。 そもそもこの晋六卿会議は秦への対策を講ずるために開かれたものだと思われます。士会が秦に亡命してからというもの、晋はたびたび秦の侵攻に悩まされ、前年に河曲の戦いがあったばかり。文13の春にも詹嘉なる人物を瑕という邑に派して桃林塞なる場所を守らせているが、これは秦への対策であるらしい。つまり当時の晋にとっての悩みの種は秦であって、当時狄は特に晋を困らせていない様子。 だから六卿会議の議題は秦対策すなわち秦にいる士会をどうすっぺという事柄であって、狄はオマケにすぎないと思われます。にも拘らず、狄の賈季を連れ戻しましょうと発言した荀林父さんはぶっちゃけ空気が読めてないのである…(ある意味それが荀林父さんっぽいんですけど…;)。 後の行動を見てみるに、荀林父さんて 赤狄 対策に人並み以上に力を入れてる人のように見えるのですよね…宣15年に赤狄潞氏を滅ぼしてるのはもちろん、宣6年にも赤狄への対策を講じているし…。文13年の六卿会議で荀林父さんが賈季を晋に戻そうと言ってるのも、彼個人は秦よりも狄を意識してるからのような気がするのです。目下の問題である秦をスルーしてしまうくらいに狄が気になって仕方ない感じ。賈季を晋に戻そうと言ってるのは、賈季その人自身の力を欲しているのではなく、晋の内情を知りる賈季を赤狄から除くことによって赤狄を弱めようとしているように見えるのです。 後々晋は郤缺も士会も郤克も赤狄を討つなり外交的に攻めたりしているので、そんな赤狄に早くから目をつけているのはある意味先見の明があるとも言えると思うのですが、この時にあってはただ空気読めてない感じになってしまってるのですよね~。 (2012.01.14)

繞朝さんメモ

『左伝』では、士会に策を渡した後の 繞朝 のその後は記されていないのですが、『韓非子』の説難篇にある話によると、繞朝はあの後秦で殺されているらしい(原文短いので挙げる(岩波韓非)>(則非知之難也、処知則難也、故)繞朝之言当矣、其為聖人於晋、而為戮於秦也(、此不可不察))。殺された経緯については『韓非子』に明記がないけれど、たぶん『春秋事後』というやつにある繞朝の話と同根ですよね…。 『春秋事後』については私は読んだことがなくて、H丸さま宅で紹介なさっているのを見ただけなのですが、それによると士会が晋に連れ戻された後、繞朝の賢さを危険とみなして秦に偽りの情報を流し、結果康公が繞朝を疑って殺したらしく…。つまり繞朝が殺された原因は士会が作ったものだということで…士会がすげいえげつない…こんな士会斬新すぎる…! うち設定は左伝準拠で進めていくつもりなので、『韓非子』乃至『事後』のように康公が繞朝を殺すという話はスルーして参ります。ただ、すごくインパクトがあったのでここにメモっておきます。 (2012.01.12)

君無道・2

では、前の左伝杜預注の「君無道」話の続きです! 半分自分用メモです。 ぶっちゃけ面白さはミジンコほどもありません…予めご了承ください。 さて、弑殺事件のうち君主が悪いという「称君」の例は、春秋左氏伝の中に七例あると『儒教と中国』に書いてあります。具体例は本文中で挙げてありませんが、そこを勝手に掘り下げます。 有難いことに、『春秋大事表』(春秋乱賊表/巻45)に弑逆事件のリストがございまして、ここにその七例が挙げてありました。『左氏会箋』にもその七例が挙げてありましたが。 では、その七例をここに杜預注(以下「杜注」)つきで挙げてみたいと思います。『大事表』は七例をさらに二つに分けてますので、『大事表』に従って経文をリストアップしてみまする。 【称国以弑者】 ■文公18年:「莒弑其君庶其。」(紀公)   杜注「称君、 君無道 也。」 ■成公18年:「晋弑其君州蒲。」(厲公)   杜注「不称臣、 君無道 。」 ■昭公27年:「呉弑其君僚。」   杜注「僚亟戦、民罷。(略)称国以弑、 罪在僚 。」 ■定公13年:「薛弑其君比。」   杜注「称君、 君無道 也。」 【称人以弑者】 ■文公16年:「宋人弑其君杵臼。」(昭公)   杜注「称君、 君無道 也。例在宣四年也。」 ■文公18年:「斉人弑其君商人。」(懿公)   杜注「不称盗、 罪商人 。」 ■襄公31年:「莒人弑其君密州。」   杜注「不称弑者主名、 君無道 也。」 以上が「君無道」の七例です。訓読は所々自信がないのでつけてませんが(コラ)杜預が「君無道」と注をつけまくってることがお分かりいただければよいです。杜預は必ずしも「君無道」の三字は使ってませんが、その場合でも「君主に罪がある」と一言添えてるんですなー。 ちなみにうちで扱ってる晋の厲公周辺をあらためて見てみると、杜預が無道を連呼してて微笑してしまう…。 成16の鄢陵の戦いの前に士燮が「諸侯が晋から背けばいいのに」と言ってるとこでは「 晋厲公無道 、三郤驕」と注し(どうして士燮がそんな主張をしてるのかの説明なのですが、ここでは厲公は士燮の言葉を聞いてるだけ)、成17で鄢陵の戦いの後に士燮が死を祈って卒したとこでは「伝言 厲公無道 、故賢臣憂懼、因祷自裁」と注し、同年に厲公が狩りに行ったときに獲物をまず婦人にふるまって大臣どもを後回しにしたとこでは「伝言 厲公無道

君無道・1

さて、わたなべよしひろ先生の『儒教と中国』の左伝杜預注についてのまとめ的なものを。 この本で杜預の左伝注の特徴の一つとして挙げているのは、君主弑殺を正当化する 「君無道」 という凡例でございます。 そもそも 「凡例」 というのは、杜預が開発(?)したもので、左伝の文を三種類に分類したものの一つ。その三種類とは、周公が規範を示したという最も重要な 「旧例」(「凡そ」で始まるので「凡例」とも) 、二つ目は孔子が規範を改めた 「変例」 、あとは史官が記したとするただの記事 「非例」 、でございまする。 杜預が必ず従うべきであるとする「凡例」の一つに、「君無道」がありまする(宣公4年の伝文、鄭霊公弑殺のくだり)。その凡例は、経文に弑殺した臣の名がない場合(例:晋弑其君州蒲/成18)は君主が悪い(称君)、臣の名が経文にある場合(例:晋趙盾弑其君夷皐/宣2)は臣が悪い(称臣)、というもの(原文: 凡弑君、称君、君無道也。称臣、臣之罪也 )。この前者が「君無道」、つまり君主が悪いことしたから殺されたのであって臣は悪くないんですよ、という凡例で、これに当てはまる七例の記事について、杜預は「君無道」といちいち注をつけているらしい。 つまり杜預の言う通りに解釈するなら、趙盾は経文に名があるので有罪、欒書・荀偃は無罪放免ちうことになります!(上で君主に罪がある「称君」の例として挙げた「晋弑其君州蒲」は、欒書荀偃が厲公を弑した事件の経文なのです) ちなみに杜預がこの凡例を生みだしたのは、司馬昭の曹ボウ(魏の皇帝)弑殺事件を正当化するためだというのが、この本の説。この凡例を利用すれば、不孝でチャラい(<と司馬さんちが主張する)無道君主の曹ボウを司馬昭が殺しても何も悪くないということになり、司馬氏にとってはとっても都合がいい説となるのです。 さて、自分はこの「君無道」の凡例について、自分なりに掘ってみたい訳なのです…! ということで、長くなったしちょっと調べ物もしないといけないので、続きは次の記事へ~(おま;;) さらに無駄に持って回ってしまってすみません; 自分用メモも兼ねるので、次の記事は少し煩雑になると思われます。 (2011.12.12)

春秋人物表

 …というのが、『春秋大事表』にある。わりとおもろいのでいっちょご紹介しまする。以下春秋な方向け。 作った人(清の学者の顧棟高)曰く、『漢書』に「古今人表」という古今の人物ランキング(上の上~下の下までの9ランク)があるのだが、その分類とかが雑で気に食わないらしい。そこで、13のランク(というかカテゴリ)を設定し、それに基づいて春秋人物をランク付けしてみたぜ!…という感じらしいです(超あばうと)。 13のカテゴリは、 「賢聖」「純臣」「忠臣」「功臣」「独行」「文学」「辞令」「佞臣」「讒臣」「賊臣」「乱臣」「侠勇」「方伎」 。基本的にある人物を一つのカテゴリに振り分けるのですが、時々二つのカテゴリに名前が見える人もいます。この表、自分が知らない人もいっぱいおるし(…)「乱臣」カテゴリには有名無名の人物が84人もいて全員の名を挙げることはめんどいので(コラ;)、晋人中心に私の知ってる有名人のみこっちに書いていこうと思いまする。有名でも私がよく知らんかったら書かないです…超すみません; 左伝の文公~襄公年間以外はあまりフォローできませぬ;; なお、下に名を挙げた人物についても、どうしてこの人がこのカテゴリなん?と聞かれても詳しい説明はできませぬ…; 顧さんになった気分(どんなだ;)で考えてみてくだされ…。 【賢聖】:(儒教的に)聖人クラスの人が入ってるくさい。あと孔子門下の人。晋の偉い人はゼロ。 柳下恵・蘧伯玉・季札・孔子・子路・子貢 とか、計15人。 【純臣】:メンツを見てどう「純」なのか判断してくだされ…。賢臣クラスが多い気が。 晋の人は二人。 祁奚・士燮 。 他には「大義親を滅す」の衛の 石碏 、斉の 鮑叔・晏嬰 、鄭の 子皮・子産・子罕 、魯の 臧孫達・叔孫シャク・仲孫蔑 など13人。 【忠臣】:「純臣」とのボーダーが分かりづらいが、こちらは主君の為に命を懸けた(捨てた)、という人が多いか。孝子5人もここに含む。 晋人は3人ですかね… 荀息・董孤 、あと孝子のカテゴリで 申生 (重耳の兄さん)。 宋の 蕩意諸 、魯の 叔仲恵伯 、あと楚の 伍奢・伍尚・伍子胥 の親子兄弟3人ともここに入ってます(伍子胥は呉の臣として。伍尚は孝子のカテゴリ)。鞍の戦いで斉の頃公の身代わりになった 逢丑父 も入ってます。おまけで虞の 宮之奇 なんかもいますね(この人の言う事を聞かなかっ

邲の戦い雑感

ちまちま春秋メモを取っていて、昨日今日は邲の戦いのあたりを見てましたが…士会かっこよすぎるやろ…。あと楚の荘王様がカリスマすぎて眩しい。左伝の宣公年間って、楚荘王年間って感じやー、荘王が中原をゆさぶりまくっている…。 今更気づいたことなのですが、邲の戦いの前の年(BC598)の秋まで郤缺が出てきてるので、BC598の秋から邲の戦いがあったBC597の夏の間に郤缺が亡くなってるということですよね。執政だった郤缺が亡くなったから、郤缺に代わって荀林父が執政になって邲の戦いを迎えた、と。郤缺の子である郤克は、父が亡くなってから1年も経たないうちに上軍の佐になって、士会と一緒に軍を率いてるってことなんですよね…。ちょっとけなげやん…と思って、郤克にきゅーんとなりました。鞍の戦いの前後は滅茶苦茶だけど(笑)、邲の郤克ってけっこう切れ者な発言をしてますよねー、やっぱりホントはできる子なんだよ~。 しっかし、もし郤缺がもう少し長生きしてて、執政が郤缺のままこの状況を迎えていたらどうなったんだろう…。郤缺なら先コクなんかのアホに勝手をさせることもなく、楚と戦わずにきれいに引いて、無様な敗北を喫しなかったんだろうか…。 でもなー、荀林父さんがここで大負けして、士渥濁のお蔭で命拾いして、その後狄と戦って、狄の中でも一番鬱陶しそうな潞氏を滅ぼして宰相の鄷舒をも死に至らしめて名誉挽回してるのも好きなんだよなぁ…。荀林父さんがすごい頑張ってる感じがして…。邲での苦過ぎる思い出と、狄相手に果たした雪辱がなければ、本当に押しの弱い地味ーな人で終わっていた気がする…。たぶん、荀林父の雪辱話がなければ、私はこの人を大いにスルーしてると思う。息子の荀庚と同じレベルでスルーしてると思う。荀庚はマジで地味だよなぁ…長らく士燮の上司をやってたのに(けっこう長い間上軍でコンビだった)、表に出てくるのは士燮ばっかりや…(涙)。…ちうか、そもそもこのサイトでもほとんど荀林父は出てこないんですけどね…(汗); その、周りが派手すぎるんですよ…! 趙盾や郤缺や士会に全部持って行かれてしまうのですよ…。 (2011.09.16)

晋の卿の昇進について

先日、『国語』(という名の歴史書)を見てた時に気になったのですが… 郤至が周に行って、エン陵の戦いでの自慢話を繰り広げて、「俺ってば優秀だから、今は第8位の新軍の佐だけど、もう執政になってもいいんじゃねー?」(←お前はホントにもう…笑)的なことを言ってる場面があるのです。左伝などを追ってると、上位の卿が欠けた場合、下位の卿がひとつずつ上にシフトするのが晋の普通のパターンのようなので、郤至が第8位のポジからいきなりトップになることは、よほどのことがない限りありえんのですが、「いや、そんな順番とか関係ないよ~」と言って、3人の例外を提示するのです。 その例外として挙げられているのが、 1.下軍の佐から執政になった 「荀伯」 2.軍を率いたこともない(つまり将にも佐にもなったことがない)のにいきなり執政になった 趙盾 3.下軍(の将)から執政になった 欒書 なのです。2と3は左伝を見てもそう書いてあるから分かるとして、1の 「荀伯」って誰なんだ…?  韋昭の注では、これを荀林父だと言ってるのですが、荀林父は中軍の佐(第二位)となっていることが左伝文公12年に明記してあって、下軍の佐から一気に執政に上った訳ではないんですよね…韋昭も時々左伝を引用する癖に、どうしてここで左伝の記事をまるっとスルーするんだ…。むしろ、荀林父は第一位の趙盾がいなくなった後は執政になるはずの位置なのに、趙盾がいなくなった後に執政になったのは第三位の上軍の将のポジだった郤缺なんですよね…。だから、荀林父を例に挙げるのはおかしいと思うのです。 では、この「荀伯」が荀林父でないとすれば誰なんだ、という話なのですが…うーむ、思い当らない(笑)。郤至より前の時代の人で、下軍からいきなり執政になった荀さんなんて見覚えが全くないよ…。 「荀伯」と呼ばれたことはないが、氏が「荀」で下軍(もしくはそれ以下)から特進した人といえば、荀林父の弟の荀首がいるんですよねー…ヒツの戦い(BC597)の頃は卿でもない下軍大夫だったのが、士会執政期(BC593)には第三位の上軍の将になっている(春秋左伝正義の成公2年の孔穎達の疏によると)。執政にはなっていないが、これは特別な昇進と言わざるを得ない。欒書様と較べると分かるよ…ヒツでは欒書様は第6位の下軍の佐、つまり下軍大夫の荀首の上官なのに、士会執政期の欒書様は、趙朔が死去してい

郤至がお調子者すぎる件

ふと気になったことがあって『国語』(という名の歴史書)の周語を見てたら、郤至の発言が凄まじい威力で爆笑してしまった…。 エン陵の戦いの後、周に行ってエン陵での自慢話を延々としてるんですけど(もうこれだけで笑える)、その中で郤至が「晋には5つの勝てる要素があって、楚には5つの負ける要素があったんですから、楚を避けるなんて奴は人間じゃないっすよ!(←原文「非人」) 戦うしかないでしょ? なのに欒范の二人(欒書・士燮)ったら戦おうとしないで…」云々と言ってる箇所があって噴き出してしまったよ! 人に非ずって!「平家に非ずんば」以来だよそのフレーズを聞いたの! しかもその後欒書と士燮を名指しだし! らんしょとししょーは人じゃないって言ってるんだよ! お前好き放題言いすぎだろ(笑)!!! その後も郤至節が炸裂しまくっていました。 もーー郤至…あんたのそういうとこってダメなんだけど、そこまでボロクソに言っちゃうなんて、いっそすがすがしいよ…(笑)。郤至はかわいいですねー、もう公式でアホの子なんじゃないだろうか。好漢なんだけどアホの子。 (2011.08.26)

士燮が朝廷で謎解きした件についてのmousou

※とても妄想です。mousouが突っ走っています。 さて、前回の春秋話で、秦のあたりと晋のあたりって言葉が違う感じがするーという話をしたのですが、それを踏まえて、士燮が士会に怒られた例の件について思ったことをちらちら書きたいと思います。こちらは完全に妄想です(笑)。 士燮が士会の激怒を買ってしばき倒された件については、既に何度も何度も言及してる気がしますが…くどいようですが繰り返すと、士燮が朝廷から帰ってきたのが遅いので、家に居た士会がどうして遅れたのかと尋ねると(ここに親馬鹿の一端を感じるのは私だけっすか…笑)、士燮は「秦の使者がやってきて、何やらなぞなぞを出したのですが、他の方々がお答えにならないので、私がその謎をみっつ解いたのです」と説明します。聞くや士会は激怒して、「大夫の方々は分からなかったのではなく、目上の人に譲っておられたのに、お前は小僧っ子のくせに三度も人の功を奪ったのだ」的な事を言って、手にしていた杖で士燮を殴り、士燮がかぶっていた委貌冠という冠を留めていたかんざしが折れた…という、『国語』にある話でございます。 で、以下はししょーさん弁護っぽくなりますが(笑)… 士燮は一時士会とともに、秦に亡命していた時期があり(おそらく子供~少年の頃)、秦の言葉を他の人よりよく知っていると思われるのです。だから、朝廷に来た秦の使者が出したなぞなぞに秦の言葉が混じっていたとすると、ししょーさんなら純粋な晋人以上に理解できた可能性が高いし、士燮が秦にいたことを知る人は、「お前なら分かるだろ」的な目線を送ってたかもなーとか思ったのです。 秦といえば魏氏ですが、この件があったと思われる士会執政期前後の時期(たぶん士会引退直後ですが)って、魏氏の中にはそれほど有力な人って見当たらないので、朝廷には魏氏はいなかったのかもしれない。(一番有力なのは魏錡でしょうか…彼はヒツの戦いの時、公族大夫になれなくてやっちまった奴なので、もしかするとこの頃になっても大夫になれてないかもしれない。)それこそ秦との最前線で備えてたのかも。そうなると、士燮は朝廷にある大夫たちの中で、最も秦の言葉に通じていたと考えることができそうだと思いまする。 なので、「ここは自分が答えるべき?」と士燮が思うような事態になり、謎を三つ解いたのかもなーと思ったのです。士会は「大夫の方々は分からない訳じゃないのに

秦と魏氏についての妄想

※タイトル通り妄想です 秦 が出てくると、晋側では 魏氏 がよく顔を出しますよね。ちゃんと調べてないので明言はできませんが、領地が代々秦のお隣なのでしょうね。 左伝宣公15年(BC594)、秦が晋に攻め込んできた際、これを迎撃して杜回という勇士を捕らえたのは 魏顆 。この話は『蒙求』にもあるためか(「魏顆結草」)、けっこう有名な気がする…水滸でも見かけた気がするなぁ…。 成公13年(BC578)、晋が秦を破った麻隧の戦いのときも、秦との絶交をしたのが 魏相(呂相) 。絶交の文言がものすごく長い。 時代は遡って、文公13年(BC614)、秦に亡命している士会を誘拐(にしか見えない…笑)するため、晋から逃げてきた体を装って士会を連れ戻したのは、これまた魏氏の 魏寿余 なのですよね…。魏寿余は、自分の邑を秦に献上する、と言ってきてるので、自分の領地が(黄河を挟んで)秦に隣接してるのでしょうね。 …とりあえず、自分の目についたのはそんなところです。 で、これはちょっとした前置きで、最後の魏寿余の話をちょっと引っ張りたいのです…。 魏寿余が自分の土地を秦に引き渡す段になって、「もともと東(晋)の人で、こっちの役人と話のできる奴と先に行きたい」と言うと、秦の康公が士会を指名するのです。康公は「なんで晋の人じゃないといけないの?」と尋ねるどころか、「晋の人間は信用できませんよ」と士会に忠告された後ですら、士会を行かせるのですよね…(そして士会は拉致同然に晋に戻される…;)。つまり康公さまは、魏氏の役人と話をするには晋人が適切だ、と思っている節があるのですよね…。では、何故晋人が適切なのか。その要因の一つとして考えられるのが、言葉の問題ではあるまいか。つまり方言。細かなやりとりを正確にする為には、秦人では不安があったのではあるまいか…と思うのです。 さきほど挙げた魏相の絶交にも、それがあてはまると思うのです。当時魏相は卿でもないのに、国と国との交わりを断つという大役を任されているのは、秦と隣接するが故に秦の言語にも通じていて、晋の意図をより正確に伝達できる人物だったからではないかと…。 …これを立証することは、私程度の能力ではとても無理ですので(汗)、あくまで根拠の薄い推測ということになりますが、メモとして書きとめておきます。漢の揚雄に『方言』という著作があって、その名の通り各地の

『左氏会箋』での郤至の扱い…

郤至といえば、『左氏会箋』での扱いが面白かったなぁ…なんか、ちょっと扱いがヒドイ気がする(笑)。 成公12年(BC579)、晋と楚の二大国間の同盟が成り、郤至が楚に使いしたときのこと。楚側は盟なんて守る気がほとんどなくて、楚の共王様の補佐をしていた司馬子反なんかはその態度を言葉の端に出していたのですが、それを察した郤至が、子反に対して理路整然と、礼を用い詩経の一節を引いて堂々と反論するという、郤至的にはかなりの名場面があるのです…この前年に、周王室と田土の件でもめていたとは思えないくらいの、堂々たる立派な台詞です(笑)。 で、その場面の最後の方につけてあった箋(日本の学者さんがつけた注みたいなもの)が面白くて…。 郤至はその台詞の中で、享礼・宴礼について触れているのですが、実は、執政となったばかりの士会が周に行ったとき(BC593)、周の定王からやはり享礼・宴礼についての話を聞き、それをきっかけに晋の典礼を整えた、という話があるのです…。 箋はそれを引き合いに出して、「郤至はもともと礼なんて知らん奴なのに、これだけのことが言えたのは、士会が典礼を整えたおかげ」的なことを言っているのです…。つまり、郤至のこの堂々たる台詞でもって、郤至ではなく士会を褒めているのですよ…えええ! やっと郤至のカッコいい場面が出てきた~と思ったら、みんな士会に持って行かれてるやん…(笑)。ここは素直に郤至を褒めてもいいと思うんですけど…。 郤至も好きですけどね~好漢ちっくで。かっこよかったりアホだったりして(笑)面白い。周王室と揉めるなよ…厲公に止められてどうすんねん…。 (2010.02.22)

士燮さんが邑を貰った話

『国語』(晋語8の、士カイ(宣子)が田土についてもめてるところ/笑)をちらちら見ていてびっくりしたのですが… 士燮さんて、何気に二つの邑を貰ってるんですね…。清貧イメージだから、欒書様みたいにろくに田土を持ってないと思っていた…おとんから引き継いだ(であろう)范しか持ってなかったんじゃ…と思っとった…。 『国語』によれば、士燮がもらったという邑は、 郇(ジュン) と 櫟(レキ) 。 このうちのジュンの方って、もしかするとめっさ豊かなところかもしれない…。『左伝』の成公6年の記事で、晋が遷都しようぜーという話になった時、諸大夫が「ジュンや瑕(カ)の地が豊かでいいですよー」と言っている(そして韓厥がそれはアカンと反論して結局新田に遷都した)という記事があるのですが…もしやそのジュンと同じ場所だろうか…。韓厥曰く、「ジュンや瑕は豊か過ぎたりしてダメです」(超意訳)らしいのだが…。そのジュンと同じだとすると、めっさいい邑を貰ったということになるんじゃ…。 しかも、士燮の弟の士魴は士魴で、彘(テイ)という地を貰ってるわけで…この一族、どんだけ田土を持ってるのかと…。そして、これだけ田土を貰ってるのに、まだ田土を欲しがる士カイってどうなのよと…。おとん(士燮)やじーさま(士会)が貰った田土をそっくりそのまま引き継いでいる訳ではなかろうが、まあ…強欲ですよな…時代的にみんな田土を欲しがる時期(どんなだ;)に入ってきてるのかもだけど…。斉からは儀礼用の羽毛を借りて返さないし…何やねんもうこの人…本当に士会の孫なのかー士燮の子なのかーと疑いたくなるくらい、祖父とも父とも似つかない…! でもなんかおもろいんですよねー士カイって。濃くて。好きじゃないけどおもろい。近くに居て欲しくないけど。この人の近くにいると、ろくなことがない気がする…<ヒドイ。 (2010.02.08)

士カイの字

左伝と国語をちらちら見ていた分には、士カイの字って見つからなかったのです。が、史記の注にそれらしいことが書いてあった…史記の趙世家のとこに、唐の司馬貞さんという人がつけた注(索隠)に書いてあるのですが…曰く、 (范氏についての説明箇所)缺生武子会、会生文叔燮、燮生 宣叔カイ 、カイ生献子鞅、鞅生吉射。 士カイのことを「宣叔」と言ってるのですよね…ということは、士カイの字は叔ってこと…? この索隠の拠った文献がなんか胡散臭い所があって(ほぼ同じところに中行さんちについても説明があるのですが、中行という氏は、荀偃が中軍の将になったのが始まりやーみたいなことが書いてある…けど、荀偃じゃないですよね…荀偃の祖父の荀林父さんが、中行という歩兵の一軍を統括するようになったからだったと思うんですけど…)信憑性が微妙な気もします…。 うーん、とりあえず暫定で、拙宅では士カイの字は叔ってことにしておこう…。また別の資料でも見つけたら、暫定から決定に移行したり、暫定から却下になったりするかもしれません。この索隠が言ってることが信用に足るのかどうか、ちょっと不安なのです…。 ししょーさんを「文叔」って言うのも初めて見たなぁ…なんか新鮮だなぁ…。士燮さんは、諡号が「文」で、字が「叔」なので、そう言うのもアリではあるのですが、見たことがなかったからなぁ…。「文子」の方しか見たことがない。 しかし、趙盾(<諡号は「宣」で字が「孟」)なんかは「宣子」と言ったり「宣孟」と言ったりするしなぁ…諡号の後に、「子」をつけるのか、生前の字をつけるのか、のボーダーラインって何なのだろう…あるのかないのかも分からんけど、趙盾はどちらの呼び方も左伝に出てくるのに、士燮とかは諡号+「子」の方しかないんだよなぁ…どうでもいいけど気になるなぁ…。 (2010.02.09)

超アバウトな司馬氏の由来

『元和姓纂』という本で司馬氏の解説を見てみて、ちょっと調べてみると、司馬氏情報の大元は『史記』の太史公自序(巻130)のようです。ここで司馬遷が司馬氏の由来を語ってるのです。 それによると、司馬氏の遠いご先祖は 重黎 で(というか、重さんと黎さんが別人らしく、司馬氏は黎さんの方の子孫らしい…けどよく分からん<コラ)、尭・舜の頃や夏・商(殷)の頃は、重黎の子孫ってことでいろいろやってたらしい(よく分からんのでアバウト;)。 周の頃は、その子孫の 程伯休甫 という人が周王室に仕えていて、宣王の頃にそのご本人だか子孫だかが司馬氏になったらしい。恵王・襄王の頃の乱の際に周から逃げて晋に来た。そんで、晋に来てから…士会(隨会)と一緒に秦に亡命して、少梁の地に入ったって書いてあるんですけ…ど…! ここで士会が出てくるなんて思わなかったんですけど…!! 司馬遷のご先祖は士会ファンで、士会と一緒に亡命までしちゃったってことですか! …うおぉ。 ちなみに少梁という地はもともと秦の地でしたが、士会の秦亡命中に秦が何度も晋と戦った際、(左伝の記録上)唯一晋に取られた地であります…つまり、少梁が晋に取られた時、司馬氏はその地と一緒に晋に戻ったんでしょうかのう…。少梁の地がその後どうなったのか分からんので、気になる方はご自分でお調べください…(お前;)。 で、周から晋に行った後の司馬氏は、その後衛とか趙とか秦に分散していったらしいです。今書けるのはそこまでです; とりあえず、司馬氏が晋の司馬である韓厥とか魏絳の子孫ではないことは分かった…。あと、士会ファンの一族だということも分かった…(ファン…なのか?/笑)。それだけでも十分おなかいっぱいです、ありがとうございます。 (2009.12.31)

親馬鹿つながり?

宋の 蘇洵 の 「名二子説」 (二子に名づくる説)という文章を見つけて読んでました(漢文大系の『唐宋八家文』に入ってた。明治書院の『唐宋八大家文読本』にも入ってると思われる)。 「二子」 というのは、 蘇軾と蘇轍 。この親子は「三蘇」と呼ばれる名文家ですよね…親父の蘇洵が「老蘇」、兄貴の蘇軾が「大蘇」、弟の蘇轍が「小蘇」。蘇軾は、三国好きさんならばおなじみの、東坡志林や赤壁の賦を作った人。蘇東坡と言った方が通りがいいかも? 蘇轍は水滸の方にちらっと出てきてましたね…小蘇学士。高俅を厄介払いした人(笑)。 で、「名二子説」というのは、蘇洵が二人の子に「軾」「轍」と名付けた理由を説いた、100字にも満たない短い文章です。でも、これがすごく親心に溢れててですね…読んでてすごく和むのです…。大意は、軾(挨拶するときに手を掛ける前木らしい)は車には不要そうだがこれがない車はなく、轍は車の役には立たないが、車が壊れ馬が倒れようともその禍にはかからない(…そんなふうに生きて欲しいという願望を込めたんだ)的なことが書いてあります(*ほんとに超大雑把です;)。 それで、この締めの文がですね… 「轍乎、吾知免矣」 という文になっててですね…。こ、これ…鞍の戦いから帰った士燮に対して、士会が話しかけた言葉を思い出さざるを得ない…! 左伝より国語の方が対応度が高いので、国語の方の士会の台詞を引いてみるに、 「 燮乎 、女亦知吾望爾也乎」(燮や、女(なんじ)も亦た吾が爾(なんじ)を望むことを知れるや) 「 吾知免矣 」(吾 免れんことを知れり) ですよ…に、似てると思うんですけど…! 誰が「(禍を)免れる」かがちょっと違うかもですが…。 しかも蘇洵が言ってることも、いかにも士会士燮親子が好きそうな内容ですしね!(<どんなだ) 蘇洵がこれを踏まえてるのかどうかは知りませんが、とりあえずメモメモ。しかしなんかニヤニヤが止まらなかった…(重症)。 (2009.11.29)

「士燮」という呼び方

 『左氏.会箋』という本があったので、借りてきて見てますー。とりあえずエン陵のあたりをざっと。『会箋』には、左伝本文と杜預の注、日本人(明治頃の竹添.光鴻という方)がつけた箋がついておる。返り点つきなので、頑張ればなんとか読めます。杜預の注は別の本に載ってたのを見たことがあるのですが、この箋を見るのが初めてなんですよね~。 …この方、士燮のふぁんなのではあるまいか?と思うくらい、ものすごい士燮を褒めあげていらっしゃる(笑)。「道理に外れたことは一言も言ったことがない」とか、とにかく褒めていらっしゃる。箋の中で、欒書や郤至、韓厥あたりはたいがいそのまま名で呼び捨てることが多いのに、士燮を呼ぶ場合は、9割方「(范)文子」というおくり名を使い、いみなを避けているほどである…。 確かに、「士燮」ちう呼び方は、少々面倒くさかったりするのである…前にも書いたことがある気がしますが、後漢末に同じ「士燮」という名の有名人がいらっしゃるから。『三国志』で、太史慈と同じ巻に立伝されているあの人。彼との区別もあるので、「士燮」という呼び方は少々ややこしいのである。 だから、西晋の杜預の左伝注や、呉の韋昭の国語注なんかでは、春秋の士燮を指す場合「范燮」という呼び方を使っておることがけっこうある(中央研究院の検索を使ってみると分かりまする)。裴松之の三国志注でも春秋の士燮が出てくるが、「范燮」の方で呼んでいる。「范燮」という呼び方は、『左伝』や『史記』、『国語』の本文中でも使われてないようなので、やっぱり三国時代以降、後漢末の士燮と区別するために「范燮」と呼ばれるようになったのかなぁ。確かに『左伝』には、父は范会、息子も范カイと呼ばれている箇所があるので、「范燮」という呼び方も可なのですよね。 なので、会箋の箋でも「士燮」という呼び方は極力避けてるのかもしれませぬ…それともやはり箋をつけた方の贔屓もあるのだろうか…(笑)。ちなみに、後漢末の士燮さんは左伝の研究家で、『春秋経』という著作もあるそうですよ(隋書経籍志)! 『士燮集』なんてのもあるそうですよ(隋書礼儀志七や旧唐書経籍志)! 士燮が左伝研究家って面白いなぁ…残ってたらなお面白いのに…(さすがに残ってないですよね;)。自分と同じ名の人物の記事をどう解釈していたのか、かなり気になる。 (2009.09.20)

加冠の時期について

 まず、以下に出てくる人名の簡略な補足です… ・杜預=左伝に注をつけた司馬晋の人 ・孔穎達=左伝と杜預の注にさらに注(疏)をつけた唐の人。五経正義でおなじみ(?)のあの人 ・韋昭=国語に注をつけた三国呉の人 ご存じの方にとっては当り前すぎかもですが;    *   *   * 加冠について今のところ私の持ってる情報は以下ような感じです… 加冠(成人式)といってまず真っ先に引かれるのは、 『礼記』 の曲礼篇の 「二十曰弱、冠」 の一文でしょうね…。つまり、 20歳で成人 。私もこれを崇め奉っておりました…。。。 それと違うことを言ってるのが、 春秋左伝正義の孔穎達疏 (襄公9年)。晋の悼公が魯の襄公と会い、襄公が12歳だと分かると、悼公が「諸侯は15歳で子をもうけますから、その前に冠礼を終えるのが礼に合します。もう冠礼を行うには十分なお年頃でしょう」云々と言ってる場面に、孔穎達が以下のように書いてます。 「晋語柯陵之会趙武冠見范文子冠時年十六七 則大夫十六冠也 士庶則二十而冠故曲礼云二十曰弱冠是也」 (返り点どころか句読点などない…) 素人による読み(私はこう解釈しましたーということで…) :晋語に、「柯陵の会に、趙武 冠して范文子に見(まみ)ゆ。冠する時、年十六七なり」と。 則ち大夫は十六にして冠するなり 。士庶は則ち二十にして冠するが故に、曲礼に「二十を弱と曰い、冠す」と云ふは、是れなり。 (「晋語」からの引用部分がどこまでか怪しい。最後の一文も怪しい…「是」は、「これ」ってことかな、「是(ぜ)なり」(=正しい)ってことかな…;) 要は孔穎達は、曲礼篇にあるように20歳で冠かぶって成人するのは士や庶人といった低い身分の人で、 大夫はその例から外れることがある(もっと若くして冠をかぶって成人する) 、ということを言いたい様子です。 その例(16歳くらいでの加冠)として挙げてるのが趙武だったりするのですが…孔穎達が引いてきたこの話の出所が分からんのです;; 「晋語」と言ってるけど、現存の『国語』の晋語にそんな話はない! どこでそんな話を見たんや孔穎達は…今には残ってない文章でも引いてるのかな? それとも、孔穎達が目にすることができた唐の頃の『国語』は、今の『国語』と違ってたりしたのかな?? 現行の『国語』晋語には、趙武が士燮(を含む晋の八卿)に会った話はあるけれど、「

趙武の生年について

趙武の生年っていつなん?…と、いろんな記事を見てて不思議になったのです。矛盾する記事があることに気づいた…(今更)。ということで、突っ込んだ春秋話。 春秋の人の生年や年齢ってあんまり分からん気がするですが(少なくとも晋を見てる限り…)、趙武は生年を知る手がかりが複数ある人物なのです。 一番手っ取り早いのが 『史記』の趙世家 。BC597に、趙武の父である趙朔がいいがかりをつけられて誅殺された時、趙武は母親の胎内におり、その後間もなく生まれたとあるので、『史記』趙世家に従えば、趙武の誕生は BC597 と特定できる。 さらに、これを後押ししうる記述が 『国語』晋語 にあるのである…。 趙武が成人の挨拶回りのために卿たちを尋ねるエピがあるのですが、その卿のメンツを見ると、趙武が成人した年、つまり 二十歳になった時期 を絞れます。 趙武が挨拶に行ったのは、欒書・荀庚・士燮・郤錡・韓厥・荀罃・郤犨・郤至の8人。で、『左伝』の記事をさらに参照すると、この8人が卿であったと考え得るのは、 BC578~BC575 に絞れる。 http://hachi.watson.jp/cn/cn-intro2.html ↑『左伝』から作ったこの表が参考になるかと思いますが(自作資料ですみません;)、この8人が卿であったのは、BC578の麻隧の戦いの後に趙旃が死亡した後(→その空位に郤犨が入る→上記の8人が卿となる)から、荀庚が死去する(=子である荀偃が後を継ぐ:BC575以前のいつか)までの期間となります。趙旃死亡年・荀庚死亡年が不明なので、年号の特定はできないのですが、『国語』+『左伝』から想定できるのは、最大でBC578~BC575。その間に趙武が成人して、件の8人に挨拶回りをしたと思われるのです。 で、『国語』+『左伝』から導き出せる趙武が成年したと推定できる期間と、『史記』趙世家の、趙武BC597誕生説を重ねると、BC578年でちょうど重なるのです(当時は数え年で年齢を数えると思うので、数えだとBC578年でちょうど二十歳)。 つまり、『史記』趙世家と『国語』+『左伝』の八卿在位期を重ねると、 BC597(あるいはその後2,3年の間)趙武誕生説 が導き出せるのです。『史記』趙世家の話は、後に生まれた説話と思われるので、史実的な信憑性は薄め。ただし、『国語』から推定できる生誕時期と重複す

共王の怪我@東周列国志

楚の共王 は、鄢陵の戦いで目を射られたんですが、左伝ではどっちの目か分からんのですよね…。明末の小説の 『東周列国志』 を見てみたら 左目 って書いてあったので、うちでは左目負傷ということにしようと思う。夏侯惇と一緒だ…。しかし、矢を喰らっても、敵の郤至に使者を遣わしたり、翌日も戦う気だったり、かなり逞しいですよね共王様…。さすがカリスマ荘王の子(?)。 ちなみに『東周列国志』では、左目を射られた共王は、矢を引き抜いて(惇と同じく目玉ごと…うおお;)、目玉ごと地に投げ捨ててしまうのですが(これもある意味すごいぞ;)、部下に「これは龍の目、軽々しく捨ててはいけません!」と言われて、えびらの中につっこんだ、と書いてある…。すみません苦手な方; で、さすがに激昂した共王は弓の名手の養由基に矢を二本与え、「私を射たものをそれで射よ」と命令。で、養由基は一本目の矢で共王を射た将(魏錡)を射殺し、残った一本の矢を持って共王に報告するんですよね…かっこいいわぁ。 (2008.07.26)

欒書の墓のはなし

『捜神記』 (巻15)に 欒書の墓 の話が載ってるらしいですよ! 漢の広川王(去疾)は墓荒らしが趣味(…)で、あるとき欒書の墓を掘り返した。棺や明器の類は全部腐ってたり壊れたりしていた。と、中から一匹の真っ白な狐が飛び出してきたので、取り巻きが追いかけてその左足に切りつけた。するとその晩、広川王の夢の中に、眉も髪も真っ白の男が現れて、「何故私の左足を傷つけたのだ!」と言って、王の左足を杖でぶった。目が覚めると、ぶたれた場所にはれものだか何かができて傷ができ、まもなく亡くなったらしい。あの狐が欒書だったのかな…? この話は 『西京雑記』 にもほぼ同じものがあるようです。『西京雑記』だと、広川王は他にもいくつもの墓を暴いているのですが(袁盎や晋霊公も被害者)、欒書の墓を暴いた後に欒書様に祟られて亡くなったもよう。らんしょさまつよい。 (2008.07.17)