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最近の私事

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もおおお先週は一日に二回もオニヤンマに体当たりされたんですがこんにちは(何)。しかも仕事場の廊下で…田舎で窓も扉も開けっ払ってるから虫さんが入り放題なんですが、何故ぶつかられるんや…。 一回目は接近に気づいてたので「うおっ」と思っただけで済んだんですが、二回目はボケーっとしててオニヤンマの接近に気づかず、右腕にすごいスピードで黒いものがぶつかってきたように感じたのでガチでびびってしまって(笑)…その後ビビりすぎたのか右肩が痛くなりました。ホラゲの実況動画とかでビビり倒した人が「肩痛い…」って言ってるのを見て「そんなことあるん?」と思ったりもしてたんですが、そんなことあるんやね…。今は治ってます。 しょーもない私事ですが、この後もただの私事です(笑)。 最近こたつを買い替えました。今までは普通の一人用こたつを使ってたのですが、最近は地べたに座っていると膝が痛くてたまらなくなってしまって…(いい年)。なので、椅子に座って使えるデスクタイプのこたつを買いました。前のこたつは長らく使っていて時々電源が入らなかったりもしましたし、最近は家具がどんどん値上がりしていってたので(泣)、思い切って買いました。 椅子もリクライニングのやつなので割と快適です。これで快適なひきこもりライフができる…。ただ、調べ物をするときに本を周りに並べられなくなったのがちょっと面倒かなーという感じです。調べ物をするとたいがい獺祭魚状態になるので、そこだけどうにかしたい。春秋のことを調べるときなんかも、左氏会箋や岩波左伝訳や国語集解や春秋大事表や十三経注疏などなどいろいろ広げたくなるのです。要工夫。 最後に、ついったに上げたうちの子紹介絵もいくつか上げておきまする。 郤至くん。お調子者でちょいちょいやらかしてるけど最期は潔いんですよね…その点なんとなく楚の司馬子反とイメージが重なったりもする…。 苗賁皇さん。要所要所でいいとこを搔っ攫っていくお方。でも『国語』でししょーさんが戈を持って息子を追い掛け回してるのを見て冷静にコメントしてるのはちょっと笑う。 士匄くん。ついったの企画でうちの士匄のデザインが分かるような絵が必要なのにいいのがないわー!と思って慌てて描いたやつです。そのうち詳細版を描くかもしれない。ところでクリスタ君は士匄の「匄」の字が出てくれないのでいろいろめんどうくさい(笑)。 士匄について

近頃喪礼が旬な理由(3)

 ということで、今度はししょーさん視点でいろいろ考えてみる。いつも以上に妄想強め。 叔孫シャクのように、祈って間もなく亡くなってしまうと、何かあった頃には小祥が終わってしまうので、士匄が誘いを断るのが難しくなります。だから早すぎはダメ。遅すぎると当然自分自身が難に巻き込まれるのでダメ。タイミング(というのも変な気はしますが;)を選ばないといけないと思われます。 士匄を難に巻き込まないためには、葬が終わるまでの死後3か月間を国難に重ねるのが確実。葬を終えるまではまだ遺体が家にあり、士匄はそこから離れることはできないので。さすがに葬を終えていない人を弑逆に誘うことはできないはず。卒哭を終えるまでの5か月間も、『礼記』の雰囲気だと、葬の前ほどではないが誘うことはかなり困難だと思う。 ただ実際に士匄が欒書らに誘われるのは、確実に断る機会を過ぎた8ヶ月目。100%断れるタイミングは過ぎてます。違う言い方をすれば、そこに士匄の意思が介在する余地が出てくる…。 なので、誘いを断る口実を士匄に与えつつも、最終的な判断は士匄に委ねるようなタイミングになってるのでは?と思ったりするのです。 ししょーさん的には、鄢陵の戦いの時は出過ぎた息子にブチ切れてたりしましたが(笑)、なんやかんやで息子の判断を信じてるのかな…と。そもそも士匄には、弑逆に加担するデメリットはあってもメリットはない訳で、結局断るという判断にはなりそうですが。 …さらにそもそもな話をすると、死のタイミングなんてそうそううまく図れないと思うので、そこまで狙いすますことができるのか?という問題はあるのですが…。晋の難がいつ起こるかも分かったものではないですし(ししょーさんなら察してそうな気もしなくもないが;;)。結果論にしかなりませんが、でも、それが士匄に断る口実を与えつつ判断の余地を残すという絶妙?なタイミングになっている気がします。それにより、弑逆を「喪に服するために断った」のではなく、「士匄が自らの意志で断った」ことにもなり、士匄くんの株もちょっと上がるんではと思います。 晋の人で、戦死や誅殺みたいな場合を除くと、いつ亡くなったかわかってる人ってそう多くないんですよね…気づいたらフェードアウトしてる。その中で、士燮は亡くなった日付まで分かるレアな人です(ちなみに荀偃も病死した日が明確)。つまり、息子(士匄)が服喪のどの

近頃喪礼が旬な理由(2)

 では、士匄くんが三年の喪に服することを、誰かの誘いを断る理由にすることもできるししないことにもできる、と考えた理由について。 三年の喪の流れについては以前簡単にまとめたことがあるので、まずは そちらをご覧ください …。そちらで使った言葉を割と説明なしに使いますのでご了承くらさい…。 士匄くんにあてはめてみると、弑逆に加担するよう欒書らに声をかけられたのはBC574年閏12月くらいのことだと思われます。で、父(士燮)が没したのは同年6月9日なので、6月を服喪1ヶ月目とすると、閏12月(=2回目の12月)は服喪が始まって8ヶ月目に当たるかと思われます。 三年の喪の段階でいえば8ヶ月目というのは、 卒哭・祔祭(=卿大夫は死後5か月目に行う)を終えた後、小祥(練祭に同じ。死後13ヶ月目)の前 になります。三郤が誅殺されたり欒書らが弑逆を考えたりしている時点で、士匄くんが置かれている状況がこんな感じ。 『中国古代喪服の基礎的研究』によれば、この時期はまだ斬衰(ざんさい:三年の喪に服する時に着る麻の喪服)を着ています。殯(ひん:死後3日目の仮埋葬)の後、葬(卿大夫は死後3か月後)を終えるまで着ている服よりは少し布の密度が高い(質がマシな)喪服(受服というっぽい)を着ていますが、服喪の真っ最中の時期ではあります。 では、この時期に出仕したりしていいものか? ということですが、それに関係ありげな『礼記』の記事を以下に挙げられるだけ挙げてみます…見落としとかがいっぱいありそうなんですが; ・三年の喪に服する者は、大祥(死後25ヶ月目の除喪の儀)が終われば政に従事する(『礼記』雑記下) →基本的なルールは多分これ。が、『左伝』などを見るに父の死後1年程度で仕事をしてることが多いっぽいので、実際は2年以上も仕事をしないことはないと思われる。 ・子夏が孔子に「卒哭が終わったら軍事を避けないのが礼でしょうか?」と尋ねると、孔子は「魯の伯禽は、卒哭を終えてから戦に出たと聞いている…」云々(『礼記』曾子問) →卒哭の後は、軍事のようなやむを得ない事情があれば、それに従事してもいいっぽい ・大夫や士は、葬(死後3ヶ月目)の後に公命があれば、卒哭(卿大夫は死後5か月目、士は3ヶ月目)を終えれば絰(てつ:喪を示すもの)を身に着けて従事し、軍事も避けない(『礼記』喪大記) →公の命令があれば、卒哭の後

近頃喪礼が旬な理由(1)

 喪服や喪礼についていろいろ調べてますが、そもそもの原因はししょーさんな気がします。話すと長くなりますが、ちょっとメモっておきたい…。 こちらにお越しの方には耳タコ(目タコ?)ですが(笑)、鄢陵の戦いの後、勝利が原因で国難が起こると予見した士燮は、その難を避けるために自らの死を祈り、鄢陵の戦いから約一年後に卒しています。 自らの死を祈ったのは士燮だけではなく、『左伝』にはもう一人、魯の叔孫シャク(叔孫昭子)がいます。彼については自分の守備範囲外で詳しいことは分からないのですが(コラ)、左氏会箋の注なんかによれば、季孫意如が魯の昭公を追っ払ったのに、執政としてそれをどうにかできなかったのを悔いて死を祈ったらしいです(『左伝』昭公25年)。ちなみに士燮も叔孫シャクも、ともに戊辰の日に亡くなるという謎の共通点があります…。 叔孫シャクは、祈ってから七日後に亡くなってるのですが、士燮の方は一年近く経過してるんですよね…(鄢陵の戦い:魯成公16年6月29日→卒:魯成公17年年6月9日)。叔孫さんと比べるとだいぶ遅くないか…? と思ったりしたのです。死を願ってる割には遅いんじゃないかと。 となると、遅いのには何か理由があるのでは? なんて考えたりする訳です。ししょーさん的には、自分自身は死によって難に巻き込まれずに済みますが、息子の士匄はそういう訳にはいかないんですよね…実際、厲公を弑するにあたって欒書・荀偃に誘われてますし。「范氏之福」(成公17年)のためには、士匄を巻き込んでもいけない…。遅い理由はそこにありそうな気がしたのです。 士匄を難に巻き込ませないようにするためには、誰に「手を貸せ」と誘われても、士匄が断れるように、その口実を与えておかなければならない。韓厥のように実績がいろいろあれば断れるんでしょうが(ちうか『国語』では韓厥すら荀偃がやっちまおうとしてるからな…;)、実績がない士匄が偉そうに断ることは難しい。何かしら、断るための理由が必要となるはず。 その理由として使えるのが「三年之喪」、即ち父の喪に服することなのでは。つまり士燮は自らの死を用いて士匄に三年の喪に服させ、それを理由に難を回避させようとしたんでは?とか考えてみたりしたのです。 …で、この考えが成立するのか???と疑問に思い、『礼記』を読んでみたり、いちまんえん超えの論文集を買ってみたりして、三年の喪