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長沙・零陵・桂陽の三郡についての徒然

孫堅~孫策の頃の呉に詳しくなかったので、 『資治通鑑』 を見て時系列の確認をしながらまとめたりしていました。 そこでちょっと引っかかったのが、タイトルの荊州三郡について。この三郡というと、215年に孫権の命令で呂蒙が劉備側から奪取した三郡、というイメージが強いんですが、この三郡セットを孫堅~孫策の代の記事もチラチラ見かけたのです。 まずは孫堅が長沙太守となった頃。『通鑑』だと初平元(190)年あたり。 孫堅は長沙の区星の乱を平定して長沙太守となった後、零陵・桂陽の賊も討伐したとあります。例の三郡で反乱が起きて、孫堅がそれを鎮圧したっちうことになります。 孫堅はその後、なんやかんやあって荊州刺史の王叡を討ち(この王叡、孝子として有名な晋の王祥の伯父らしい…!)、董卓討伐に向かいます。で、王叡に代わって荊州刺史になった劉表が、董卓討伐をスルーして荊州に乗り込んできて、孫堅が平定した三郡を含む荊州を我がものとしたらしい。孫堅からすれば、自分が董卓討伐に行っているスキに、自分が平定した三郡を劉表に取られたようなものなのかも。 もう一か所が、『通鑑』建安3(198)年の記事。 長沙郡の人である桓階(魏志巻22に伝がある)が、劉表と仲が悪い長沙太守・張羨に対して「長沙・零陵・桂陽の三郡の力で劉表を撃退し、曹操と結ぶのがよい」的なことを進言してます。ここでも例の三郡がセットで出てきます。この三郡には孫堅の遺徳があり、だからこそ劉表に抵抗するにはこの三郡が相応しいのかなあ?などと妄想してしまいます。 なお、桓階は孫堅によって孝廉に推挙されたことがあり、孫堅が劉表の部将・黄祖により戦死した時は、その遺骸を引き取っています。彼のように、この三郡には孫堅に恩義を感じている人物が少なからずいたかもしれない…。 215年に孫権が、荊州の中でも特に長沙・零陵・桂陽の三郡を奪取させたのは、このように孫家と縁の深い地だったからなのかなあ?などとも思ってしまいます。呂蒙が戦うまでもなく長沙・桂陽を降すことができたのも、もともと孫家にゆかりのある地だったから…なんて考えるのはナシでしょうかのう。 …などと、まあいろいろと妄想してしまいましたが(笑)、『資治通鑑』の184年~200年のあたりしか見てないので、後でこの考えが覆る可能性はあります。しかし、あの三郡が劉表が荊州を統治する前から孫堅と縁があった

呂蒙殿がらみの地名@読史方輿紀要

『読史方輿紀要』 を見てたら呂蒙殿がらみの地名をけっこう見つけたのでまとめてみる! 以前見つけた呂蒙殿がらみの地名も『読史~』にあったものなのですが(青木定雄が作成した索引で調べた)、それ以外にもいくつかありました! 【丹陽付近】→駆け出しの頃、このあたりの反乱鎮圧に従事 ●呂城 (『読史~』巻25、鎮江府ー丹陽県ー呂城) 呂蒙が築いたと言われ、(『読史~』が著された清の時点で)城壁も残っている様子。水運の要衝。 【廬江(皖城)付近】→皖城の戦いで魏の朱光を破り、その後廬江太守になっている ●呂蒙城 (巻26、安慶府ー懐寧県ー皖城) 『城邑考』なる文献によれば、呂蒙が皖城に駐屯した時に築いたという。 ●呂蒙城 (巻26、安慶府ー桐城県ー陰安城) 桐城県東南にあり、呂蒙が築いたと言われている。 ※なお、桐城県の南の方には、魯粛が駐屯したといわれる「魯鎮城」という場所もあるらしい! 魯粛さんも実は皖城攻略に従軍していて、その後で横江将軍に任命されている(魯粛伝)。 ●呂亭 (巻26、安慶府ー桐城県ー呂亭) 桐城県の北の方にある。呂蒙がかつてここに軍を駐留させたといわれている。 ●呉塘陂 (巻26、安慶府ー潜山県ー呉塘陂) 呉陂堰ともいわれる。「魏志」にある、揚州刺史の劉馥が開いた「呉陂」がこれに当たるらしい。 魏の朱光と呉の呂蒙が争った場所がまさにここで、塘は朱光が造ったともいわれる。 あるいは、呂蒙がこの地に水を通し、300頃の稲田に水を注いだともいわれる。 ※皖城のあたりにはやたらと呂蒙殿がらみの地名がありますな。呂蒙殿が築いたとされる城も複数あります。皖攻めの時の呂蒙殿は、土塁とか築かずに速攻!を主張してるので、皖を攻略して廬江太守になった後に、城を築いたり水田を開いたりしてるんでしょうね。 【沙羡付近】 →赤壁に近い。陸口や夏口にもちょっと近い ●呂蒙城 (巻76、武昌府―嘉魚県―沙陽城) 嘉魚県=漢の沙羡県らしい。 嘉魚県の南西80里のとこにある。孫権が呂蒙を零陵に派遣した時、呂蒙がここに築いたものらしい。 『郡県志』なる文献によれば、呂蒙が荊州を平定した後に(215年の三郡奪取の方かな)ここを守ったらしい。 ※この頃呂蒙殿は廬江太守なんだけど、廬江から長江を遡って荊州方面に行くなら、確かにこのあたりを通る。それ以外に沙羡と呂蒙殿の接点ってあるのかな…。 【公

けんこう実録

たまたまネットで見つけた『建康実録』が面白かったので。 今まで目を通していないあたり呉好きとしてアカンような気もするのですが(汗)、無双界隈だと練師の名前の出所だということで話題になっていたという印象が強い文献です。 『建康実録』 は唐の 許嵩 という人物が編纂したもので、建康に都を置いた六朝の歴史を記したものらしい。 呂蒙殿の名前がちらっと見えたところを拾い読みしただけなので(…)全体的な信憑性の有無とかはよく分からんのですが(ネットで調べる分には信憑性がなさげなんだが…笑)、正史と違うことが書いてあって面白い。 たとえば、 ・甘寧が濡須で曹操の陣営に夜襲を仕掛けたのは212年。(正史にははっきり書いてない。演義だと216-217年の濡須口の戦いでの出来事になってる。『資治通鑑』は213年のこととみなしている様子) ・甘寧が没したのは215年の冬。(正史を見る限り没年は特定できない) ・凌統が没したのは217年で、享年29。(正史だと享年49歳=237年没。ただしこれは正史の方が間違いだと思われる。『太平御覧』でも凌統の享年は29歳だと書いてあった) ・魯粛が没したのは218年秋。(正史だと217年) ・呂蒙の享年が40歳。(正史だと42歳) ・呂蒙殿が「南昌太守」なるものになってる(正史だと南郡太守。南郡太守と漢昌太守が混じって南昌太守になった???) とかでしょうか。甘寧の没年がこうもハッキリ書いてあるのが衝撃だった…ちうか、没年が思いのほか早くてびっくりした…。 個人的に一番ツボに入ったのが合肥の戦いの記事ですかね…。 『実録』だと、合肥の戦いは216年の出来事ってことになってます(正史では215年)。 孫権が合肥から撤退を始め、1000人程度の兵とともに残っていたところを張遼に襲われるという筋は同じなんですが、張遼に襲われる前にのんきに将軍たちと宴会を開いてたって書いてあって…ま、まじか(笑)。のんきな宴会のせいで、凌統が手塩にかけて育てた兵が全滅したとか、そんなん嫌や…。正史だと、孫権以外に凌統・呂蒙・甘寧・蒋欽といった錚々たる呉の将も一緒にいることになってるんだけど、その連中ものんきに宴会やってたとか嫌や…(『実録』に従うならば甘寧は不在っちうことになるけど)。呂蒙殿の戦歴で唯一の手痛い敗戦の原因がのんきな宴会とかマジで嫌や…(笑)。張遼のかっこよさも

虞翻が于禁に掛けた台詞の件

三国&春秋好きな方向けの雑感。 棒茄子が出るので、前々から欲しかったさんごくし集解を手に入れました。句読点を切ってあるのが欲しかったのですが見つからなかったので、影印本のやつをゲットしました。 で、ぺらぺらめくって虞翻伝あたりを見ていたら、自分的に衝撃的な注を発見してしまった! 虞翻伝で引かれていた『呉書』に対する注に士会の名前があって、何かと思って読んでみたら…于禁が魏に送還される際に虞翻が于禁に掛けた言葉が、繞朝が士会に掛けた言葉(@左伝)の引用だったらしい!!まじか! 試しに較べてみる↓ (左伝文公13年伝、繞朝→士会) 「無謂秦無人、吾謀適不用也。」 (呉書、虞翻→于禁) 「卿勿謂呉無人、吾謀適不用耳。」 これは…繞朝の台詞を踏まえてますわ…。 …でも、これって于禁に対してすごく優しい言葉をかけてるようにも見える…。繞朝が士会に掛けた言葉を引用して、虞翻が于禁に話しかけたってことは、于禁を士会になぞらえてるってことっすよね? 于禁と士会が置かれてる状況も何気に似てる…士会は思いがけない事情(趙盾の裏切り的決断)で祖国の晋から秦に逃れていたし、于禁も思いがけない大雨で関羽に敗れて捕虜になって呉にいた訳で…本人というよりはそれ以外の要因で自国を離れるはめになったあたりが似てる。 また、左伝文公13年の繞朝の台詞の少し前のところでは、郤缺が士会について「(秦に逃れたことについて)罪無し」と言ってる。しかも士会は、晋に帰国した後は最終的に晋のトップの執政になってる…。 つまり、于禁を士会になぞらえてるってことは、于禁に罪はないし、将来は国に戻って立派に出世することを期待している…という意味が込められてるようにも見えるってことです。そう考えると、虞翻は于禁に対してすごく優しいせりふを掛けたように見えるのです。 …でもなー、その言葉の前後の内容を見るに、やっぱり虞翻は于禁に対して冷たいので(笑)、そこまでの意味はないのかなあ? 繞朝の台詞を引く前のとこで、虞翻は孫権に「于禁を処刑した方がいい」って言ってますし。でも魏に帰った後の于禁のことを考えると、そちらの方が于禁の尊厳を損なわないような気もする…。于禁の死を単に望んでるようにも見えるし、国に帰って非業の死を遂げることを見越して于禁の尊厳を保とうとしてるようにも見える…どっちなんだろう。普段の虞翻の言動からすると前者な

呉の歩氏について

歩騭伝の注に、歩騭の祖先は 晋の大夫の揚 という人で、歩という地を邑として賜った的なことが書いてあるのですが、これって郤至の祖父(かつ郤シュウの父)に当たる 歩揚 じゃないのかい…? 晋の大夫だし、揚ちう名だし、歩邑を賜ってるから歩揚という訳だし…。つまり歩騭の歩氏って、郤氏から分かれたんじゃないのかい…? 郤氏は晋で滅ぼされてるので、その子孫がいるのかどうか分からんけど(これが問題だ…;)、郤至の弟の郤毅(歩毅と書かれてる箇所もあったよな)が殺されたとは左伝なんかには書いてないし、もしかすると彼の子孫が歩騭…なんて、妄想したらダメでしょうかっ!? ちなみに朱然はもともと施氏ですが、施氏っていうと魯にいたよなー。郤シュウ(に要請された声伯)に嫁さんを取られた(…)施孝叔なんていたなー。 (2014.01.29)

呂蒙の発言中の「穣公の主張」とは

正史三国志(呂蒙伝)で、呂蒙殿が魯粛と論議している時、魯粛の意見を聞いた後に「あなたのご意見は何故 穣侯(秦の魏冄(ぎぜん)) の主張に沿うものばかりなのでしょう…」とか言っている件で。 この「穣侯の主張」というのがどんな主張なのかがよく分からんところだったのですが、魏冄を蹴落として秦の宰相になった 范雎 (はんしょ)の意見と対比させてみればなんとなく話が通じる気がしてきた。 范雎は 「遠交近攻」 論者で、その論を以て秦王(昭襄王)の心を掴み、魏冄に代わって丞相になったらしいのですが(すんません戦国時代はあんまり詳しくないのでけっこうアバウトなのです;)、裏を返せば魏冄は「遠交近攻」の逆、つまりは近い国と仲良くして遠くの国を攻めるというのを基本方針にしていたともいえる。 つまり、「穣侯の主張」というのは、近くと親密にすることで、劉備と結ぶことを指しているのかもしれない。と思った。それだけです(エエッ)。 …っていうか、魏冄は史記に列伝が立ってるんだから(范雎もな)、それを読みなさいという話ですよね…ちゃんと訳本を持ってるのですよ…。でも読むのめんどくs(コラ) しかし、みやぎたにさんの『戦国名臣列伝』の魏冄がほんまかっこええー 溢れる才覚を持っているのに、それを発揮せずに腰を据えて時が来るのを待つことができるあたりがほんま。先見の明がある人だからこそ待つことができるんだよな…いくら才能があっても、目の前のことばかりに囚われて驀進すれば、そのうち足元を掬われる。 (2009.04.09)

『三国志平話』の転生譚

『演義』の元ネタの一つに、元の頃に出版された 『三国志平話』 という書物があるのですが(こーえーさんから訳が出てますよ/笑)、その冒頭に語られる話によると、三国の三英雄…すなわち曹操・劉備・孫権は、漢の建国に功績があったにも関わらず誅殺された三人の名将の生まれ変わりである、という話があるんですよね。 韓信が曹操、英布(黥布)が孫権、彭越が劉備 に生まれ変わって漢を三分し、彼らを殺した劉邦・呂后を献帝とその皇后に生まれ変わらせて報いを受けさせる、という話になっているのです。で、それらを決定した裁判官である 司馬仲相 という人物を 司馬仲達 に生まれ変わらせ、この名裁判を嘉して天下を統一させることになった…とかとか。 『演義』は、この荒唐無稽な話をバカバカしいと思ってか採用していないのですが、『平話』にはそんな荒唐無稽すぎる話が残ってるようです。『演義』は、レベルの高い読者の要望に堪えるようにするため、あまりに荒唐無稽な話は切り捨て、史実に基づいて修正を加えていったようです。まあ、『演義』が最も参考にしているのは正史三国志と司馬光の『資治通鑑』・朱熹の『通鑑綱目』(およびそれらの関連書)であって、『平話』ではないので、ある意味それが自然なのかもしれません…。 『演義』の史実化については、金文京先生の『三国志演義の世界』に詳しかったです(<読了しました)。わたなべよしひろさんの『図解雑学三国志演義』にも、そのあたりの話があると思いますので、お持ちの方はご覧くだされ…。 (2009.03.15) *   *   * 前の日記で『三国志平話』の転生譚について書きましたが、これを元ネタにした短編小説もあるようです。 明の 馮夢龍 (ふうぼうりゅう)という人が書いた 『喩世明言』 という短編集の中に「 鬧陰司司馬貌断獄 」というのがあるのですがそれです。 話の筋はだいたい『平話』と同じ流れですが、かなり詳細に書きこまれてます。主人公の名は 司馬貌、字は重湘 。『平話』の主人公は「司馬仲相」なので、氏が同じ別人のようですが、「仲相」と「重湘」は、中国語で発音すると同じか酷似しているはず。いずれにしろ、彼があの世の裁判を見事にやってのけて、彼が司馬仲達に転生して三国を統一するという話には変わりありません。 が、『平話』では司馬さんに課せられた案件は1つだけだったのに、『喩世~』では4

南郡・襄陽の領有について

南郡・襄陽がいつ誰の手に渡ったかについて。 正史をひっくり返して調べてたら夜が明けていたという…珍しく集中してたようで(笑)。 赤壁の戦い(208年)の後、南郡(江陵)は… ○曹仁が南郡(江陵)にいて、周瑜と戦う ○209年、周瑜が曹仁を南郡から追い出し、南郡太守になる ○210年、周瑜没。この年、孫権が劉備に南郡を貸した様子。 江陵にいた魯粛が、長江下流の陸口に移動し、周瑜の後に南郡太守となっていた程普が江夏太守に移ってます。つまり、呉の人が南郡から撤退してるんですよね。江陵には関羽が入った模様。 ○219年、南郡太守は麋芳。麋芳は長江を密かに遡行してきた呂蒙に降伏し、南郡は孫権のものに。孫権は呂蒙を南郡太守とする。呂蒙没後は諸葛瑾が南郡太守となっている。 襄陽は、終始魏が押さえていたようです。関羽が210年に襄陽太守になってはいますが、襄陽の地は押さえたことはないと思います。というのも、219年に関羽が荊州から北上したとき、「樊・襄陽」を包囲した、と書いてある記事があるのですよ。もしこの時関羽が襄陽を押さえていたなら、自分の味方のいる城を囲んで攻撃するなんてありえませんからね。また、219年の時点では魏が襄陽を抑えていたが、それ以前に関羽が一時的に襄陽を獲得したことがあるすれば、魏が襄陽を奪還したという記事があって然るべき。ですが、そのような記事も(私の見てみた範囲では)見当たらない…。関羽は襄陽太守という任を与えられたものの、それは名のみのものであったと思いまする。 ちなみに「徐晃伝」によると、関羽が攻め込んできたときに樊城を守っていたのが曹仁、襄陽を守っていたのが呂常という将だそうです。 演義は、関羽が襄陽太守になったという記事を踏まえたのか、209年に周瑜が曹仁と戦っている隙に、関羽が襄陽を占拠した、と書いてありますが、正史の記事を見ると、関羽が襄陽を押さえたというのはありえない話だと思われまする。 (2007.06.24) *   *   * 昨日の補足(南郡の件で)。書き忘れたことが…。。。 周瑜が南郡を取ったとき(209年)、南郡のうち長江南岸の地域を早速劉備に貸し出してるようです。劉琦(荊州刺史(牧?)だった劉表の長子)の死後、劉備が荊州牧となり、長江南岸の公安を州都と定めて落ち着いてます。 で、周瑜の没後は親劉備派の魯粛が発言力を持つようになって

呂蒙の髑髏!?

 ネタ元(…)は、唐の欧陽詢編纂の 『芸文類聚』 に引用してある 「荊州記」 です(巻17・「髑髏」)。 *   *   * 長沙の蒲圻 (赤壁や陸口の近くにある。陸口は、対関羽最前線の地で、呂蒙殿も2年ほどここに駐屯してました)に呂蒙の墓がある(ええーー!!?)。 墓の中には一つのどくろがあって、きわめて大きい。(って、まさか掘ったんですか墓を!?) 呂蒙は背が高くりっぱな体格だったので(原文「長偉」)、これは呂蒙の頭蓋骨ではないか…。 *   *   * という話でございます。 墓から出てきたどくろが呂蒙殿のものかどうかは定かではありませんが、呂蒙殿の体格が立派だった…という認識がされていたようですね。それが興味深かったです。 呂蒙殿の墓も、一体どこにあるんでしょうかね…。ほんとに陸口近くなのかな…。個人的には、呂蒙殿が死んだ公安かな…とも思うのですが、公安は蜀との国境に近い地域でもあるので、ここに墓を作ることはないのかも…。となると、もっと呉の内地にある陸口あたりに墓がある、というのも、ありうる話かもしれません。 (2006.10.06)

呂城に関廟無し

今日も語らせてくだせぇ!(笑) 今日の呂蒙話は、昨日の逆で、呂蒙殿の関羽へのささやかな復讐(?)の話であります。 出典は昨日同様、清の 袁枚『子不語』 (巻8・「呂城無関廟」)です。 *   *   * 呂城 というところの周囲50里(25キロくらいかな)には関帝廟がない。言い伝えによると、呂城を建設したのは呂蒙で、今でもこの場所の土地神になっている(? 原文「至今蒙為土地」)。 一度関帝廟を建てたのだが、毎晩武器やら角笛やら戦の最中のような物騒な音がするので(呂蒙と関羽が戦しとる…怖;)、人々はここに関帝廟は建てないようにしよう…と戒めあっていた。 ある時、旅の占い師が土地神の廟に宿を取った。 と、夜中に激しい雷雨が起こり、廟の屋根やら瓦が全て吹き飛び、これが翌朝まで続いた。なぜそんなことが起きたのか分からなかったが、地元の人々がやってきて見てみると、占い師のかついでいた旗に関帝(関羽)の姿が描いてあった。 地元の人々は占い師を追い出して、二度と呂侯廟(呂蒙の廟か)に泊まることを許さなかった。 *   *   * …という、呂蒙殿の関羽嫌いの話でした(笑)。 呂蒙と関羽って、ともに文武両道で勉強好きで、陣営さえ同じだったら意気投合しそうだよな~と個人的に思ってるのですが、『子不語』に採られた話を見ると犬猿の仲ですね…苦笑。 この呂城という場所、ちょろっと調べてみたところ、長江下流域にあるようです。三国時代でいえば丹陽あたりです。 この付近と呂蒙殿って、あんまり関係が深いと思われないのですが、この呂城と呂蒙殿が関係あるらしい、という話は、同じく清の 紀昀 の 『閲微草堂筆記』 にも見えます。 …今でもあるのかなぁ、呂侯廟? あるならマジで行きたいんですけどーー!!!!! 呂蒙殿と関係が深い場所といったら、個人的には尋陽か公安かなー、と思ってたのですが…。尋陽は呂蒙殿が長い間県令を務めていた場所、公安は荊州奪取の際に奪い取り、病気になったときに孫権に看病を受け、そのまま亡くなった場所。 ところでこの『子不語』、他にも三国関連の話があっておもろい…夏侯惇とか曹操とか張飛とかの話もありました。関羽の話はかなり多いです…さすが関帝(笑)。 (2006.10.04) *   *   * 呂蒙殿が建てたという呂城について補足。場所は、やはり長江下流域、丹陽の付近のようです。 こ

呂蒙塗臉

以前見つけた呂蒙殿関連のお話を…(笑) 今日は、呂蒙殿の生まれ変わりだという鍾(しょう)という人の話を。 清の袁枚 (えんばい)の 『子不語』 という怪談集に載っている話でございます(巻4・「呂蒙塗臉」)。 *   *   * 湖北の学生で、 鍾 という人がいた。 唐太史赤子(←謎。人名?)の親戚にあたる。 科挙の試験である郷試(これに合格すれば官吏への道が開ける。倍率は100倍くらいとか)を控えたある日。 夢で文昌神という神様に呼び出され、鍾はその階下にひざまづいた。 文昌神は何も言わず、鍾を目の前に呼んで、筆に墨をたっぷり含んだかと思うと、鍾の顔面に塗りたくった。(な、何するんですか!?笑) 鍾はびっくりして目が覚めた。 鍾は、「これは汚巻の暗示では…?」と思い、気分が落ち着かなかった。(汚巻:科挙の試験の解答用紙を墨などで汚すこと。落第確定などころか、次の試験の参加資格まで失うことがあるらしい。ちなみに郷試は3年に一度しか行われない) 試験場に入場して受験したが、どうも筆が進まなかったので、号舎(試験用の個室)の中で仮眠をとった。と、一人の偉丈夫が個室のカーテンを捲り上げた。長いヒゲに緑の服…これぞなんと関帝(関羽)であった。 関羽はいきなり罵り始めた… 「呂蒙のおいぼれめ!(原文「呂蒙老賊」←そんなに歳とってないのに…笑) 顔に墨を塗ったからと言って、この私の目をごまかせると思ったか!?」 言い終わるや、姿が見えなくなった。 鍾は初めて、自分の前世が呂蒙であることを知り、心底震え上がった。 鍾は試験に見事合格した。 10年後に山西解良県の知事に任命された。(解良って…関羽の故郷っすよ…!) 着任して3日目に、武廟(関羽が祀られている)に参拝したが、ひとたび礼をするや、そのまま起き上がらない。家族が見ると、鍾はもう死んでいた…。 *   *   * 呂蒙殿の生まれ変わりの鍾さんが、関羽に呪い殺される…という末恐ろしい話でございます(苦笑)。そ、そこまで怨まなくても…まして前世の記憶すらない人を殺すとは…あんまりではないですか。文昌神は、そんな鍾を哀れんで、関羽の目から逃れられるように工作してくれたんでしょうか(結局見破られてましたけど…関羽の執念おそるべし)。文昌神というのは科挙の神様で、日本で言う天神様みたいなものかと。 科挙の試験に関する記述が訳しづらかっ

呂蒙は易経通?

晋の王嘉という人が書いた『拾遺記』という本に記載されている話でございます。 以下、だいたいで訳してみる。↓ *  *  * 呂蒙が呉に来ると、呉主(孫権)が学問せいと勧めた。 そこで呂蒙は多くの経典を広く学び、その中でも 『易経』 (えききょう)を重んじた(易って…要は占いの書なのに…)。 あるとき、孫策(って書いてある)の宴会の座で泥酔してばったり倒れて眠り込み(笑)、夢の中で『易経』の一節をつぶやいたかと思うと、がばっと起き上がった。 周りの人たちが「どうした?」と聞くと、呂蒙殿は 「さきほど夢の中で伏犠・文王(周の文王・姫昌か)・周公(周公旦)と私とで、世の中の興亡について論じた。『日月貞明』の道理に至ると、話は微に入り細に入って深遠であったが、私はその一番深い妙旨に至らなかったので、その文をそらんじたのだ」と言った。 人々はみんなで、「呂蒙は寝言で『易経』通になった」と言った。 *  *  * …という程度の内容になるでしょうか…。 孫策の宴会の席上で夢を見て『易経』に通じた…となると、孫権に学問を勧められる前になるのでちょっとおかしい感じもするのですが、呂蒙殿が夢を見て『易経』に通暁した…という話であります。 もちろん正史に採用されている話ではなく、民間で語られていた話の類で、信憑性はあまりないかと思われます。 夢の中で呂蒙殿がともに語っていた三人の人物。 伏犠 は、八卦の占いを作り出したと言われる、伝説上の聖人。 周の文王 は、周を建国した武王の父で、曹操もこの人に倣って、自ら天子となることはしなかったとか。 周公旦 は、かの孔子が大尊敬していたという政治家。 (追記:伏犠は 八卦 を作り、周の文王は八卦を二つ組み合わせた 六十四卦 とその解説を作り、周公旦は六十四卦それぞれを構成する 六つの爻 に解説をつけたと言われる。らしい。よく分からんです;) …そんな天下一流の人たちと語るんだからすごい話です(笑)。 しかし、呂蒙殿といえばやっぱり天才的な戦略家だと思うので(すみません大贔屓)、占いである『易経』よりは、戦略戦術を説いた『孫子』マスターである方がお似合いかなぁ…と思います。ほんと、正史を見てると、戦わずして勝つ、という孫子の兵法をよく実現させていた人だと思います、呂蒙殿って。 それに、『易経』って…正史(正確にはその注)で孫権が勧めた本の中に入っ

酒乱の血?(笑)

今読んでる澤田瑞穂『中国史談集』にあった三国ネタを一つ!! 話の出典は不明なのですが、孫権の三男・ 孫和 の話です。 孫和は、夫人の鄧氏を寵愛していた(←と書いてあるけれど、正史を見るとそういう夫人はいません)。 で、あるとき孫和が酔っ払って、手に持っていた如意(…孫の手の先っぽが雲の形をしたようなものを想像していただければ…笑)を振り回してうっかり鄧氏の頬をしたたかぶってしまい(ヒドイ)、鄧氏の頬から血が出て止まらなくなった。 その後血は止まったけれど、ぶたれた跡は残ってしまい、孫和はそれを消すための薬を求めて云々…(後略)。 あ、あの酔っ払いぶり…親譲りだ(爆笑)! と、この節を読んで妙に感動してしまいました。 *この話の出典は、晋の王嘉という人が書いた『拾遺記』のようです (2006.09.18)

二宮の変と孫魯班

 *このあたりのことは、サイト(黄雀楼)の「三国志人物列伝」の陸遜伝詳細にちょっとまとめてあります 陸遜憤死の根っこをたどると、やっぱり 孫魯班(孫権の娘) の影が見え隠れします…。 陸遜憤死の直接的原因は、 楊竺 がでっちあげた「陸遜に関する疑惑二十条」というのを孫権が信じて、詰問の使者を陸遜に送り続けたことと思われます。 楊竺は若くして名声があったのですが、陸遜は、楊竺は身を誤るだろうと言い、楊竺の兄に弟との絶縁まで勧めています。楊竺はこれを根にもって、機会あらば陸遜に復讐してやろうと思っていたのでは…。 その機会が、太子孫和と魯王孫覇との後継争い(=二宮の変)…。 謹厳な陸遜は当然太子の孫和を擁護する。ならば、孫覇と組んで孫和ともども陸遜を蹴落としてやろう…と楊竺は考え、孫覇の取り巻きになったのかもしれない。 さらに、孫覇に取り入って孫和・陸遜を蹴落とせる勝算は十分あると考えられる…というのは、孫覇の後ろには、孫和を嫌い、かつ孫権に対して発言力のある孫魯班と、孫魯班が嫁いだ先の全琮一族、さらには孫魯班の母方の歩氏(歩騭など)もついている。 こうした背景があり、楊竺、あるいは全寄(全琮の次男。やはり孫覇派)も含めて複数方面から陸遜の讒言が飛んできたのではないだろうか…。 …以上を見ると、陸遜憤死に大いに関わっているのは楊竺であり、この件に関しての孫魯班の影は希薄に見えますが、もうひとつ気になる点があって…。陸遜に諡(おくりな。生前功績のあった者に送られる)が与えられた時期です。 陸遜の死のわりとすぐ後に、孫権の陸遜に対する疑いは晴れているのに、陸遜が諡を贈られたのは、孫権の次の次の皇帝・孫休の時なんですよね…なぜこんなに時間がかかるのがちょっと不思議で。 が、調べていくと、孫権の次の皇帝・孫亮に対し、孫魯班は発言力を持っていた様子で。この時に陸遜に諡を贈れば、陸遜が擁護した孫和が正当=それに敵対した孫覇は悪=孫覇を擁護した孫魯班は…? ということになる。そのため、陸遜に諡を贈るのを孫魯班が渋った可能性があるのでは…。 で、孫亮とともに孫魯班の権力も失墜し、孫魯班が朝廷に発言力を持たなくなった孫休の代になり、陸遜に諡が贈られた…。 根拠の薄い憶測ですが、なんだかそうも考えられます。 (…あーーっでも、孫亮が皇帝になる前に孫覇一党は、孫和を陥れたという罪状でみんな殺

関羽の荊州失陥について

関羽の荊州失陥について思うのは…あの事態に陥ったのは、やはり関羽自身が軽率さがあったからだと(今は)思ってます個人的に(呉志しかまともに読んでないので呉側の視点しか持てないのですが;)。 以下まとも語りしてるっぽいので興味のある方のみどうぞー。関羽ファンの方は避けていただいた方が…いいかも……。 関羽は呉をなめすぎてたのではないかと思います…孫権を侮辱したり(←関羽の娘と孫権の子の縁談の件で)しているのを見ると、そんな気がします。少なくとも、呉を重要視し、同盟を密にしようと思っていたら、そんなことを言ったりしないでしょう。 呂蒙が関羽を警戒し、こちらが先手を打つべきだと主張しているのは、関羽のそういった同盟軽視が背景にあるんじゃないでしょうか。関羽は同盟を保持する気は無い、そのうち東呉に牙を剥くこともありうる、ならば先手を打たなければ、といったような流れで。関羽がもうちょっと慎重に友好関係を保持しようしていたならば、呂蒙もこう考えたかどうか。 …呂蒙は、魯粛が周瑜の後を継いだ頃から対関羽の戦略を練っていたようですので、関羽討伐を考えていたことは十分にありうるとは思いますが…。 呉が蜀に対して強硬になったのは、総指揮官が魯粛から呂蒙に代わったせいもあるかもしれませんが、諸葛亮が荊州から益州に行ってしまったせいもあるかと思います。諸葛亮が荊州に居続けたら、決して関羽にあんな(呉の君主を侮辱する)ことは言わせなかったのでは…。諸葛亮がいたら、たとえ呉の総指揮官が呂蒙に代わったとしても、呉蜀の同盟関係は保持されたかも。 樊城征討に向かった時も、呉蜀の国境で略奪行為をはたらいて呉に大義名分を与え、しかも魏の謀略によって呉が背後から迫っているのを知っていたのに引き返さなかったのは、関羽の油断によるものかと…。荊州を麋芳・士仁に任せていたのもどうなのか…。 …って、関羽ファンの方が読んだら「何を言っとるウラー!!!」と間違いなく言われると思いますが、呉側の資料を見ているとどうもそう思えます…。今後また、魏・蜀側の資料を読んでみれば変わってくるかもしれませんが…。

呉の四姓

いわゆる「 呉の四姓 」のうちの朱氏の代表格って誰なんだ!? 朱治・朱然の家系だと思ってたんですが、この二人は呉郡の人ではなくて丹陽の人なんだよな…。呉郡出身の朱さんというと、朱桓や朱拠…この二人の系統なのかなぁ? 四姓のうちの張氏も微妙…こっちは張温の家系ですよね、多分。 …超マイナー疑問ですみません;; (2006.05.31) *   *   * また「呉の四姓」(陸氏・顧氏・張氏・朱氏)についてほじくってみていいですか。先日、掲示板の方で教えていただいた 『世説新語』 の一節をなんとか見つけたもので…(ありがとうございます!)。賞誉編の本文にあるんですね(←注の一部だと思い込んでた凡愚)。 で、徐震[土+咢:音はガク?]という人が書いた『世説新語校箋』というのを見てみました。 この徐さんがつけた注釈によると… 「張、張昭之族。朱然朱桓、在呉並以武功顕、未知孰是。陸、陸遜之族、顧、顧雍之族。」 張とは張昭の一族。朱然と朱桓は、呉でともに武功によって名を挙げたが、どちらのことを言うのかはわからない。陸とは陸遜の一族、顧とは顧雍の一族のこと。 …くらいの意味でしょうか。陸遜と顧雍に異存はないとして、張氏=張昭の一族、朱氏=朱然か朱桓のどっちか分からない と言ってますね、この方は…。 んーー、でもやっぱ、呉に地盤を持つ張温を「張氏」と考えた方がいいと思うんですが…。が、いちばん無難に結論を出すならば、「陸氏は陸遜、顧氏は顧雍の一族、朱氏と張氏はイマイチ不明」となるでしょうか、なんだか投げやりですが…。 でも私個人としては、張氏=張温、朱氏=朱桓・朱拠(ふたりは同じ一族)だと思ってます…。やはり、呉郡呉県を原籍地とする一族の総称だと考えたいので…。 (2006.06.04) *   *   * 図書館をうろついてて、『六朝江南の豪族社会』(大川富士夫)という本を見つけました。呉の四姓について書いてあるみたいだったので…。 呉の四姓の 「顧・陸・張・朱」 というのは、やはり 顧雍・陸遜・張温・朱桓 の家柄みたいです。 確証には欠けるけれど、張温の一族は漢の建国の功臣にして名軍師の張良の子孫だ、という説もあるんだとか!(『宋書』『呉郡図経続記』巻下) す、すげー…そんな話が。 顧雍の一族は、春秋時代の越王勾践の後裔で(『通史』巻26)、朱桓の一族は漢の武帝の頃の人の朱買臣

陸康と孫策

陸遜のおじさんの 陸康 に関して。後漢の末、陸氏一族を取りまとめてたのが陸康です。 陸康は、廬江というところの太守をやってた頃、当時袁術の配下だった孫策に城を取られたんですよね。うちの人物列伝の陸遜が孫策に対してちょっとトゲがあるのはこのせいです(笑)。 でも、正史三国志にある記述だけだと、廬江が落ちたときに陸康が死んだのかどうかも、その後陸氏一族がどうなったかも書かれてなくて、なんだか物足りなかったんですよね…。陸氏と孫氏の溝の深さがどの程度か分からなくて。 で、なんとなく中央研究院で検索してみたら… 陸康って、『後漢書』に列伝がある んじゃんかーー!! ということで早速図書館で調べてみました。 うああ!! 廬江を抜かれた後の陸康のことがちゃんと書いてありました『後漢書』に!! 『後漢書』によると…陸康は、孫策に包囲されること2年で廬江を失い、その直後に病を発して死去したらしい。孫策軍に直接的に命を奪われたわけではないんですね。 しかし、一族の柱を失った陸氏のダメージは非常に大きかった様子。「宗族百余人、飢厄に遭離し、死する者 将(まさ)に半ばならんとす」(一族100人あまりは生活基盤を失い、その半分近くが死んだ…というような内容でしょうか)とあります。 陸遜は、少年だったにもかかわらず、こんな瓦解状態になった一族のとりまとめをせねばならなかったんですから、その辛苦は計り知れません。 孫策は袁術の命令に従っただけで、好んで陸康を攻めた訳ではありませんが(でも、孫策と陸康の仲ももともと微妙だったしな…うーん)、この件以降の陸氏と孫氏の溝はけっこう深かったと考えてよさそうです。 (2006.05.28)

孟宗と陸遜

「モウソウチク」という名前の竹がありますよね。漢字で書くと「孟宗竹」。この 「孟宗」 というのは人名で、しかもあの 三国時代の呉の人 だって…ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、最近これを知ってびっくりした自分(笑)。 孟宗は母思いの孝行息子で、いいものが手に入るとまずは母に送る、といった具合。この母親の大の好物がたけのこだったらしい。 初冬の候、たけのこなんて生えない時期なのに、孟宗は母にたけのこを食べさせたくて竹林に入り、たけのこが欲しい…と願った。と、たけのこがその願いに応じてにょきにょき生えてきて(すげーー!!笑)、母にたけのこをご馳走することができたそうです。「孟宗竹」という名前はこれに由来するのでしょう。 この孟宗、あるとき死刑に当たる罪を犯してしまうのですが、このときに孟宗を弁護して死刑から免れさせてくれたのが陸遜。 呉では、任地を捨てて親族の葬儀に向かうのは職務放棄ゆえ取り締まるべきだという意見が有力で、仕事を放棄して葬儀に行った者は死刑、という厳しい法令が実施されていたらしい。 しかし、母思いの孟宗が、母の死に遇って黙っていられるはずがなく、死刑だと分かりながらも母親の葬儀に直行したんです。 しかしここで陸遜が、彼は親孝行ですから…と、死一等を免ずることを孫権に請うたんです。 で、孫権もそれを聴許し、孟宗は降格されたものの命は助かった…とのこと。ちょっ、陸遜…やりおるわー…。儒教的素養に富んで、思いやり深い人だったんでしょうね。なんでもかんでも法律で縛っちまえ!という意見が出ると、陸遜はそれに強硬に反論することがよくあるように思います、正史を見てると。 (2006.05.24)

甘寧の曾孫(?)甘卓について

正史三国志には、甘寧には 甘瓌 (かんかい)という息子がいたことしか書かれてないのですが、『晋書』という歴史書の方には、甘寧の他の子孫の話があるようで…ほんとかよー? しかも、江南の人々の心を掴む有力者の一人だったらしい…。 晋書の成立が唐代とかなり遅いので、なんだかうさんくさい気もするんですが…。 (2006.04.14) *   *   * さて今日は、おとといの日記でぼやいてた甘寧の子孫(らしい)という 甘卓 という人物について調べてきました…。 ↓ この甘卓という人、三国時代の後の西晋の人物らしいので…『晋書』を探してみました。…ほ、ほんとにいた!! 以下、甘卓伝の抜粋。(中華書局『晋書』による) 「甘卓字季思、丹楊人、秦丞相茂之後也。 曾祖寧、為呉将 。祖述、仕呉為尚書。父昌、太子太傅。呉平、卓退居自守。(以下略)」 適当に訳: 甘卓、字は季思、丹楊(=丹陽)の人で、秦(←戦国時代の)の丞相・甘茂の後裔である。 曾祖父の甘寧は、呉の将軍だった 。祖父の甘述は、呉に仕えて尚書になった。父の甘昌は(呉の)太子太傅となった。呉が平定されると、甘卓は身を引いて隠居していた。(以下略) ひいおじいちゃんが「甘寧」だって書いてあるマジでーーー!!! これ見て図書館で一人でドキドキしてる自分…(笑)。 てか、この「甘寧」はほんとに濡須口で曹操を驚かせたあの甘寧字興覇のことなんだろうか…と、冷静になって考えてみた。 結論。…この甘卓の曽祖父の「甘寧」は、あの甘寧とはやっぱり別人と考えるのが自然なような気がしてきた…。 根拠は、甘卓の原籍地…。甘卓は丹楊の人、と書いてあるんですが、あの甘寧字興覇の方は巴郡臨江の人…丹楊と臨江、直線距離で1000キロ程度離れてて場所が全然違う…。 しかも、正史三国志の甘寧伝の記述を追いかけてみるに、甘寧が丹楊に行ったこともないみたいだし…。丹楊にいちばん近いところで濡須口までしか…それでも直線距離で70キロくらい離れてます。 もし甘卓が甘寧の子孫ならば、甘卓は甘寧と同様「巴郡臨江の人」と書かれるべきだと思う…中国では、生まれた土地ではなく先祖の故郷(原籍地)を記述するのが普通のような気がするし…(甘寧自身も、南陽で生まれたけれど先祖が巴郡に住んでたから「巴郡臨江の人」って書かれてるみたいだし…甘寧伝の注(呉書)による)。 甘卓は甘寧の子孫、と

甘寧の呼ばれ方

正史甘寧伝を原文で見てみると…甘寧と呂蒙、この二人の呼び合い方がいいなぁ。 呂蒙殿の家で宴会があって、凌統と甘寧が武器を持って舞った時、呂蒙殿は甘寧を 「寧」 って呼んでるんですよね…。君主でもなければ、名で人を呼ぶのはかなり失礼な行為に当たるんですけど、呂蒙と甘寧はそれでもいいらしい。別のところでは字で 「興覇」 って呼んでますね…な、和む…!! 多分普段は、呂蒙殿は甘寧を「興覇」って呼んでたんだろうなぁ…なんて妄想が(笑)。 甘寧が呂蒙を呼ぶ場面を見ると、二人称で 「卿」 という言葉を使ってました。これは、相手が同格か目下のときに使う二人称らしい。「お前」程度の呼び方ですかね。字で呼んだり「卿」で呼んだり…やっぱりこの二人、仲がよかったに違いない。甘寧は相当あくの強い性格でしたからね…呉の中でも甘寧をかばう人は少なかったに違いない。数少ない理解者が呂蒙ですね。同じ水賊出身の周泰や蒋欽とはどうだったのかな…。話は合っただろうな…(笑)。 (2005.10.10)

呂蒙殿の学問の先生(※妄想)

林田慎之助さんの『人間三国志 軍師の采配』を読んでたんですが、林田さんが「字もろくに書けなかった呂蒙は、 張昭 に学問を習っていたのでは…」って書いてらっしゃって素敵だった。「以下は私の憶測だが…」って譲歩がついてましたけど。最初に呂蒙を役人(別部司馬)に推薦してくれたのも張昭だし…。そして、張昭の子供の張承が呂蒙と同い年ってのがまたいい感じじゃない!?(同意を求められても) 張昭もさ、君主の前では堅物だけど、子供相手だと、厳格さのなかにもちょっと優しさがあったりしてさ…息子と同い年で見所のある呂蒙がなんだかかわいく思えちゃったりしてさ…そんなのが理想(笑)。 でもやっぱりスパルタ気味だと思います。孫権ですら張昭には遠慮気味でしたしね…。 あともう一人、 虞翻 から学問を習ったって考えるのもいいなぁ…。荊州討伐で呂蒙殿が虞翻に手柄を立てさせようとしたのは、かつて学問を教えてもらった恩だったりしたらなんだかいいな。 でも虞翻もスパルタ気味だと思う(笑)。 同じ庶民出身の 闞沢 (かんたく)に習ったって考えるのもなかなか面白いなぁ…。 正史、案外妄想がふくらむな…(笑)。 (2005.09.12)

鷙鳥累百、不如一鶚

うーー、今日は一つまともな調べ物をしたので、以下堅い(かも)ですがその成果を書かせてくだされ…私のコピー代90円が懸っている…(笑)。まあ、例によって、呂蒙さんのことですけど!! …これは人物列伝では割愛した話なのですが。 皖城の戦いの後、盧陵というところで賊が蜂起したんですが、呉の諸将は誰もこれを鎮圧できなかったらしい。そこで孫権が、 「鷹(たか)が百匹いても、一匹の鶚(みさご:これも鷹の一種らしい)には敵わぬのだ(原文:鷙鳥累百、不如一鶚)」といって呂蒙殿を派遣したら、呂蒙殿はこれを早々に鎮圧してしまったらしい。 要は、優れた一人の人物(みさご=呂蒙殿)には、無能な奴(鷹=賊)がいくら集まっても敵わない、という例え。 …で、ここで問題なのが、この「鷹が百匹いても(以下略)」のこの例えが、呂蒙殿だけでなくもう一人、とんでもない人に使われていることなのですよ…!! 禰衡(でいこうorねいこう)っていう人なんですが…演義を読んだ魏好きの方は「こいつか!!」って思われるかと思います。魏の人たちを馬鹿にしまくった、折り紙つきの偏屈です。演義だと、「荀攸は墓守、張遼は太鼓係、李典は飛脚、于禁は左官屋、徐晃には豚殺しが(以下略)お似合いだ」なんてヒドイことを喋ってたあいつです…。これを聞いて張遼がキレて、禰衡に斬りかかりそうになってます(笑)。 この禰衡を、孔融(太史慈に助けてもらったあの人)が「鷹が百匹いても(以下略)」と言って、曹操に推挙したらしいのです。 …呂蒙殿と禰衡が一緒かよーー!!(禰衡ファンの方いらっしゃったらすみません…) で、なんだか納得いかなかったので、この「鷹が百匹いても(以下略)=鷙鳥累百、不如一鶚」という言葉について調べたのですよ…そしたら、典拠がちゃんとありました。 なんか長くなったので、無駄に明日に続く。 ちなみに、「鷙鳥累百、不如一鶚」を訓読すると、「鷙鳥(しちょう) 百を累(かさ)ぬるも、一鶚(いちがく)に如かず」です。 (2005.09.07) *   *   * とりあえず、分からない言葉があったら『漢和大辞典』を引いてみる。 で、引いてみた。あった。 「鷙鳥累百、不如一鶚」の例文として、後漢書の禰衡伝と三国志の呂蒙伝からの文章がばっちり引用してありましたが(笑)、この言葉が記載されている一番古い文献は、漢書の鄒陽という人の伝らしい。 で

『水滸伝』の中の呂蒙殿

『水滸伝』にも呂蒙殿の名前が出てくるのですよー、という話です。 『水滸伝』は、内容の違いから大きく三種類(70回本・100回本・120回本)に分けられるのですが、その中の 100回本 と呼ばれるもの(岩波文庫で訳出してるやつ)だけに出てきます。物語自体には全く関係がない部分に、名前がちょろっと出てくるだけです。たった2箇所ですけど(57回・64回)。 どんな扱いかというと、二箇所とも諸葛亮と並び称される智将扱いなんですよね。中国だと呂蒙は関羽を殺したから悪党扱いなのかと思いきや、『水滸伝』を書いた人は呂蒙を決して悪党扱いしてないんですよね。個人的には嬉しいです。 まあ、『三国志演義』でも、死にっぷりはアレですけど、他の箇所では悪意を持って描かれてることはそんなにないと思います。ま、魯粛と関羽の会見…いわゆる「単刀会」の場面では、甘寧と一緒に関羽を狙う伏兵になってますが、呂蒙の名場面もそれほど削らず収録してるし。208年の南郡の戦い(vs曹仁)で甘寧を見事に救い出す場面とか、214年の皖城攻略戦のエピは演義にも採られてます。呉下の阿蒙の故事は演義に無いけど…必ずしもストーリーの展開に関わらない挿話だし、正史三国志にも採用されてない話なので(裴松之が注で引用してるのです)、蜀贔屓の演義においては採用されなくても仕方ないかな、と…。 でも、関羽の子孫が登場する回で呂蒙を褒めるのはどうかと思うな、水滸伝(笑)。…『水滸伝』には(自称)関羽の子孫が出てきますよ。大刀の関勝というひと。子孫じゃないけど「美髯公」っていうあだ名を持ってる人も出てきます。こちらは朱仝という人。関勝と朱仝、関勝のほうがやや背が高いようですが、外見はほぼ同じなんですよね~(笑)。 (2005.05.25) *   *   * …関羽が留守の荊州に進発するにあたり、呂蒙が白い衣装を着、商人のふりをして長江を遡った、いわゆる「 白衣渡江 」の場面。演義だと、白衣=商人の衣装 ととらえてるみたいですが、正史だと白衣=庶民を指していて、呂蒙一行は商人の身なりはしたものの、その衣装は白い服とは限らないみたいですね。白衣はそもそも庶民の衣装らしいので…。 呂蒙が荊州に向かうにあたり、その兵を整えた場所が 尋陽 という場所です。呂蒙殿は長らく尋陽県令を務めていて、この地とゆかりがあるようで…。 …『水滸伝』をお読みの

遼来来は二度あった

今日は相変わらず正史をめくってたのですが、ここで(自分としては)びっくりの事実が!! 合肥のあの「遼来来」は二度あったのか! …と言うとちょっと大げさですが、要は張遼は孫権を二度追い詰めたんですね。 私は『三国志演義』から入ったので、合肥といえば――張遼が少数の兵をうまく使って、10万と号する孫権軍団の先鋒(甘寧・呂蒙の軍団)を孫権から引き剥がし、手薄になった中軍に張遼軍団が襲い掛かり、孫権は凌統らの必死の働きでなんとか包囲を脱出して、小師橋を飛んだ――という展開が頭に入ってるのです。 でも実際は、張遼が少数の兵を率いて孫権軍団に襲撃をかけた時には孫権は橋を飛んでません。その十数日後、孫権が合肥から引き上げようとした時に再度張遼が孫権を襲って、この時に孫権は命からがら橋を飛んで逃げてます。 張遼は二度孫権を襲撃して、二度目に孫権の命を手中に収めかけたんですな。 最初の衝突では、魏軍7000に対し、呉軍10万で、呉軍が圧倒的に優位。 しかし張遼は選りすぐりの800人の兵を率いてこの軍を突き破り、孫権のすぐ近くまで襲い掛かる。ただこの時は、張遼は敵の撹乱はできたものの、孫権の命を脅かすまでには至ってません。でもこの一戦で、呉軍の士気はかなりくじけたらしい。たぶん、呉の陳武はこのとき戦死してます。 孫権はそのまま合肥を包囲したものの、攻めあぐねた上に伝染病が広がったため、撤退を決意。順々に兵を撤退させ、孫権は凌統・甘寧・呂蒙・蒋欽らの将と1000の近衛兵とともに逍遥津の北に残っていた。 この機を見逃さず、張遼が兵を率いて孫権に襲い掛かったんですね。今度は呉軍は1000人のみなので、兵数・士気から言って呉側が圧倒的に不利。ここで孫権は本当に命の危険にさらされて、凌統たちの奮戦によってかろうじて逃げ延びます。 …三国志ファンの方の間では当たり前なのかもしれませんが、いろんな人の列伝を摺り合わせてこの事実に気付いたときは大興奮でしたよ!! このおかげで一日テンション高かったな(笑)。 (2005.05.23)

魯粛後継者候補・厳畯

今日は相変わらず、無双好きさん向け人物列伝用の呂蒙殿の文章を打ってました。で、正史を見てたらびっくりの事実が…!! 魯粛さんの後任はあっさり呂蒙殿に決まったものだと思ってたら、実は呂蒙殿の前にオファーを受けた人物がいた…!! 厳畯 (げんしゅん)という人なんですが、孫権に「魯粛の後を継いで、兵1万を率いて陸口(対関羽最前線)に駐屯してくれ!」って言われたらしい。でも厳畯は「私には軍事の才はなく、このような重任には当たれません!!」って泣いて断ったらしい。で、孫権も仕方なく、厳畯を魯粛の後任にするのをやめたらしい。 読んだ瞬間20へぇでした。むしろ「へぇ~」じゃなくて「えぇ~!?」って感じでした…。 ほんと、魯粛の後継者は呂蒙以外に誰がいるの!?って思い込んでたので…。 ちなみに厳畯さん、馬にも乗れないくらい軍事のほうはダメだったそうです。 が、江東では諸葛瑾・歩騭(ほしつ)と並ぶ名声を得ており、また孫権が帝位に就いた後に蜀に使者として赴いたときには、丞相の諸葛亮から高く評価されたとのことなので、優れた人物であったようです。 (2005.05.09)

演義の陸遜・諸葛亮の共通点

『三国志演義』だと、陸遜と諸葛亮は扱いがなんとなく似てるんですよねー。抜擢された直後は宿将たちにばかにされ、でも策が見事に当たって皆を心服させて。色白で背丈が8尺、というのも二人で共通してるんですよね。それに二人とも、何か変な気を察知できるみたいだし(笑)。 でも陸遜と孔明が違うのは年齢。諸葛亮が抜擢されたのは、まだ30歳にもならない頃なんですが、陸遜が大都督に任ぜられるのは40歳直前…だから、陸遜を若造扱いするのは妙な感じがします。それに、諸葛亮が皆を心服させた戦(博望坡かな?)は諸葛亮の初陣だけど、陸遜は夷陵が初陣ではなくて、演義だと赤壁や合肥にも行ってるし…。 って、細かいことを書いてしまってすみません;; (2005.04.04)