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ああぁ…

ブログ移転だけして一月更新なしで、しかも四月バカの日に久々に日記を書くのに特にネタもありませんすみません(>_<)。 今日はご紹介したい中国書専門店さんがありまして。「カラト書房」さんで検索していただきたいのですが、今までたびたび利用していました。が、この4月いっぱいで閉店されるということで…専門書や一般書いろいろ買わせていただいてましたありがとうございました。 現在閉店セールということで、3000円以上の購入で購入額が半額になります。破格です。十三経注疏や読史方輿紀要、三国志集解、水滸戯曲集等々、自分が買ってよかったと思う書籍もまだ在庫がありました。ぜひ検索してご利用いただければと思います!(勝手に宣伝しています!) 中国語の書籍はもちろん、日本語の関連書籍も取り扱っていらっしゃいます。 …今後漢籍を買うときはどこを利用すればいいんだろう…専らこちらの書店さんにお世話になってたので困ってしまう;

こちらが新ブログです

サイトの日記をこちらに切り替えました~。今後はこちらを日記として更新していきます。 (日記のリンクの貼り替えついでに、過去の日記に上げた絵をサイトのギャラリーに収納しました~) 過去の記事もいくつか(といっても90個近い;)こちらに移しましたが、記事ごとに「ラベル」(左側にあります)で大雑把にジャンル分けしてあります。適宜ご利用ください。 イラストもいくつか載せましたが、創作春秋の絵などはまた増やすかもしれません。うちのメインの親世代の絵も載せたいので。 とりあえず今日はご報告だけ~

晋の赤狄白狄キラーまとめ

『春秋大事表』巻39「春秋四裔表」より、狄(赤狄・白狄)のまとめ。ちうか、晋の赤狄白狄キラーの皆さんのまとめです。例によって自分用めも。 大事表曰く、狄には 赤狄・白狄・長狄 の三大部族がいるらしいのですが、その中で晋との関わりが深い赤狄・白狄の記述をまとめてみます。(なお、今回スルーした長狄は、魯の叔孫得臣に捕らえられた長狄僑如なんかの部族っす。) ■赤狄 左伝には荘公32年(BC662)に登場。狄の源流?で、単に「狄」という場合だいたい赤狄。閔公・僖公の頃(BC661~BC627)の間は赤狄・白狄の区別がなかったが、僖公32年(BC628)に狄に内乱が起きた際に分裂したらしい。6氏族に分けられる。成公3年(BC588)に滅亡。 ①東山皐落氏 閔公2年(BC660)、(献公に邪険にされた) 太子申生 が討伐した(させられた)。 ②ショウ咎如 成公3年(BC588)、 郤克と衛の孫良夫 が討伐。杜預注曰く、荀林父にやられた潞氏の残党がこちらと合流していたために郤克達が討伐した、とのこと。これで赤狄は全て滅ぼされた、と大事表さんは考えているようです。 ③潞氏 宣公15年(BC594)、 荀林父 が滅ぼす。杜預注(宣11)によれば、赤狄の中では最強の氏族。それゆえに白狄と間隙が生じたらしく、それを察知した郤缺が白狄と同盟を結ぶことで赤狄を弱体化させる(=BC598)。この郤缺の布石もあり、長年晋や他の国々を苦しめてきた赤狄潞氏を荀林父が討滅するに至る。邲の戦い(BC597)で敗戦の責任を負って自害まで考えた荀林父が、見事に赤狄最強の潞氏を滅ぼすという大功を立てた。 雪辱を果たして安堵したのか、その直後に荀林父は死去したようで、潞氏滅亡の翌年には士会が荀林父に代わって執政になってます。 ④甲氏 ⑤留吁 ⑥鐸辰 宣公16年(BC593)、まとめて 士会 が滅ぼす。荀林父さんの遺志を継いで赤狄を倒した感もある…。最強の潞氏がいなくなったとはいえ、三氏族を一掃する士会はすごいな…1年くらいしか執政やってないのに仕事しすぎや…。 (郤缺→)荀林父→士会→郤克の執政リレーで赤狄を滅ぼしたんですなー。郤缺→荀林父間が少し空いたのは、間に邲の戦い(BC597)があったせいで、士会→郤克間が少し空いたのは、間に鞍の戦い(BC589)があって郤克が斉を叩き潰す方にご執心だったからですかね。

『中国姓氏考』めも

王泉根(著)、林雅子(訳)『中国姓氏考』(第一書房)のめも。気になったところを箇条書きで。主に春秋関連のこと。[ ]内は自分の勝手な補足~。例によって自分用めもです。 ●夏・殷・周の姓 『白虎通義』姓名篇・『論衡』怪奇篇に記載がある。 夏(禹)は「姒」姓、殷(契)は「子(好)」姓、周(后稷)は「姫」姓。禹の母は薏苡(よくい:ハトムギのこと)に、契(せつ)の母は燕の卵に、后稷の母は巨人の足跡に感じてそれぞれ子を身ごもった。 ●舜・神農の姓 『説文解字』(姚字)に記載あり。舜(虞舜)の姓は「姚」だが、これはその一族がいた土地である「姚虚」から取った。また、『説文解字』(姜字)によれば、神農(炎帝)は「姜水」の近くにいたことから「姜」を姓としたらしい。 ●「姓」と「氏」について 姓=血統を表し、女系を示す。 氏=勲功(周による分封)を表し、男系を示す。 …といえる様子。『説文解字』(氏字)の段.玉.裁注などにそう書いてあるっぽい。 ●「氏」の決め方 漢の応.劭の『風俗通義』姓氏篇によれば、周代の命氏のパターンは9種類。 ①号による氏 ②居による氏 ③事による氏 ④諡による氏 ⑤爵による氏 ⑥国による氏 ⑦官による氏 ⑧字による氏 ⑨職による氏 宋の鄭.樵の『通志』氏族略はさらに細かくて、32種類に分類している。 『通志』から主な例を挙げると以下の通り。 ①国名を氏とするパターン:周の文王の第三子で「管」国に封じられた「管」叔鮮など。晋に封じられた唐叔虞は「晋」氏の祖らしい。 ②採邑名を氏とするパターン:[この本では例に挙がってないけど、晋の卿によくあるパターンだよな…魏氏、韓氏、范氏とか。温邑をもらった郤至が「温」季と呼ばれるのもこれだよなー。] ③郷名を氏とするパターン、④亭名を氏とするパターン:③④は①に準ずるパターンかな…郷も亭も、与えられた爵位によって与えられる土地のことらしいので。(※「宗法封建制」なる周の制度に基づくと、郷=子爵の者に与えられる封土、亭=男爵の者に与えられる封土らしい。) ⑤地名(居住地の名)を氏とするパターン:封土を受ける資格がない人はこのパターンで氏を決めるらしい。傅岩という土地の人が「傅」氏を名乗り、橋山黄帝陵を守る人が「橋」氏を名乗るなど。 ⑥姓を氏とするパターン:姚、姜、姫、子とかとか。 ⑦字(あざな)を氏とするパターン:王父(祖父)

楚材晋用

タイトルは、楚の人材が晋に亡命して、晋がその人材を利用してかえって楚をやっつけちゃうんだぜ!という四字熟語。 この四字熟語の典拠が、左伝と国語にあります。蔡の声子(公孫帰生)という人が楚の子木(屈建)に対して、楚から亡命して晋に貢献した四人の話をしてるのです。 ただ、左伝と国語とで、声子が挙げた四人というのが違ってるので、そいつをメモっておきたいのです。 左伝(襄公26年) だと、以下の四人。 ①析公 ・文公14(BC613)年、子儀の乱(カリスマ荘王様が即位早々拉致られたアレ)の際に晋に亡命 ・成公6(BC585)年、繞角の戦いで献策し、楚を破る (↑勢いに乗った晋軍が追撃しようとしたら荀首・士燮・韓厥に止められた、あの戦い) ②雍子 ・父兄に讒言されて晋に亡命 ・成公18(BC573)年、靡角で楚軍に遭遇した際に献策し、楚を退ける ③巫臣 ・夏姫をめぐって子反とモメて晋に亡命 ・呉と通交して射御の術を教え、呉に楚を攻めさせる ④苗賁皇 (子越の子) ・宣公4(BC605)年、若敖の乱(子越の反乱)の際に晋に亡命 ・成公16(BC575)年、鄢陵の戦いで献策し、楚を破る 国語(楚語上) だと、この四人。 ①王孫啓 (子元の子) ・荘公30(BC664)年、子元(当時の楚の令尹)の乱の際に晋に亡命 ・僖公28(BC632)年、城濮の戦いで先軫に献策し、楚を破る ②析公 ・子儀の乱に際し晋に亡命 ・具体的な活躍は不明だが、楚を破ったらしい (↑韋昭は、左伝と同じく繞角の戦いで活躍したと注している) ③雍子 ・父兄が共王に対して彼を讒言したため、晋に亡命 ・鄢陵の戦いで欒書に献策し、楚を破る ④巫臣 ・夏姫をめぐって子反とモメて晋に亡命 ・呉と通交して射御の術を教え、呉に楚を攻めさせる だいたい同じですが、左伝と国語で違うのは、要は ・析公・雍子・巫臣の三人は共通だが、左伝は苗賁皇、国語は王孫啓を挙げる ・雍子が関与した戦いが、左伝では靡角の戦い、国語では鄢陵の戦いになっている ・析公の活躍が、国語では曖昧 …という三点ということになるでしょうか。 鄢陵の戦いの軍師というと苗賁皇!というイメージがあるのですが、国語だと、鄢陵の戦いの軍師は雍子!なんですね。国語の晋語の方にも鄢陵の戦いの描写はありますが、士燮さんが喋り倒してるのがメインで(エッ)、晋がどんな策で楚を破った

春秋時代の暦法

数ヶ月前に『天地明察』に嵌っていた時に、杜預が『左伝』に基づいて作った暦についての論文をみてメモを取っておいたのですが、それをアップし忘れていたので…。だいぶゆるいまとめです(>_<); 「杜預の春秋長暦について」という渡邉よしひろ先生の論文のまとめです。 杜預の長暦の概略と、杜預が認識していた暦法の基礎についてのまとめをば。 ■『春秋長暦』のこと 長暦は、杜預が、『左伝』の「隠公元年より始まる各月の一日の干支を示し、『春秋』と左伝に記載された干支が何月何日に当たるかを計算したもの」。ご存じの方にとっては当り前の事なのですが…『春秋』や『左伝』では、日付(や年)を十干(甲乙丙丁…)と十二支(子丑寅卯…)の組み合わせで表してます。例えば、邲の戦いがあったのは「六月乙卯」の日、と『春秋』に記してあります。杜預は、この六月の一日の干支を示し、そして六月乙卯の日が何日だったのかを計算した、ということになるでしょうか。 『春秋長暦』は明の頃には既に散逸しており、現在見られるものは『永楽大典』などに基づいて作られた輯本『春秋釈例』に収められているらしいです。 ■昔の暦について 戦国時代の四分暦に始まる中国の暦は、どれも「太陰太陽暦」。これは、地球が太陽の周りを一周する周期(一太陽年≒365.2422日)と、月が地球の周りを一周する周期(一朔望月≒29.5305日(平均))とを組み合わせたもの。1朔望月で1年の長さを計算すると、1年≒354.4308日にしかならず、一太陽年と較べると10.8114日短く、だいたい三年経つとそのズレが一朔望月分に達し、季節がズレていってしまうので、季節とのズレを解消するために閏月を入れて調節していたらしい。 ※上記の数字は今の天文学が算出したもので、昔の中国ではそこまで正確な値は出てなくて、もすこしアバウトな数で計算してたと思われます。 ■閏月のルール 戦国時代の頃から、「十九年七閏法」という閏月の置き方が確立していたらしい。19年を一章として、その間に7回の閏月を設けるのが「十九年七閏法」。 閏月を設けるタイミングは、太陽年に基づいて定められた「二十四節気」という季節の区分によって決まるらしいです。「二十四節気」は、一太陽年を24等分して設定したもので、冬至・夏至、春分・秋分…とかです。二十四節気には、「中気」と「節気」との別があり、

巫について

 ※妄想要素強めです 巫って何なんやーと思って、白川先生の『古代中国の文化』を引っ張り出して少し見てました。ざっと見ただけなので把握し切れてないのですが、要は鬼神・自然神を対象とする呪術者で、歌舞を以て祈るのが 巫 …らしい(一方、霊魂(特に祖霊?)を対象とし、言葉を以て祈るのが「 祝 」らしい)。「巫」という字も、袖を持って舞う形らしい。 あと、左伝の中の巫も少しチェックしてみたのですが、巫というのは人の死を予言してばかりいるなぁ…。 桑田の巫 (晋景公の死を予言した人)・ 梗陽の巫 (荀偃の死を予言した人)もそうだし、楚に范の巫の 矞似 という人もいたんだけど(『左伝』文10)、彼も楚の成王・子玉・子西の横死を予言してた。 巫臣 も、もしかして人の死が見える人だったのかなー…というか、そういう設定もアリかなーと思ってます。 夏姫が楚に来た後、荘王や子反に対しては夏姫を娶るのはおよしなさいと言ってるのに、夏姫が連尹襄老に嫁ぐ時には別段止めてないんですよね。そしてそれから一年も経たないうちに襄老は邲の戦いで戦死。楚が晋から歴史的大勝を得た戦いでまさかの戦死…。襄老がすぐ死ぬ(=夏姫の配偶者がいなくなる)のが分かってたから、夏姫が襄老に嫁ぐことには口を挟まなかったのかもー…とかなんとなく考えてます。夏姫を連尹襄老に嫁がせたのは荘王ですが、裏には巫臣の口添えがあったりして。 あと、巫臣が夏姫と駆け落ち(…)するために動き出したのも、たぶん荘王の死(宣18=BC591年7月)の一年前くらいからじゃないかなーと思います。 巫臣があれこれ工作して夏姫を鄭に寄こすよう鄭から楚に申し入れをさせた際、荘王の下問を受けた巫臣が答えた中に「荀首が新たに中軍の佐となった」という言葉があるのです。荀首が中軍の佐となったのは、郤克が中軍の将に昇格し中軍の佐の座が空いた後と考えるのが妥当なので、つまり中軍の将だった士会が引退して郤克がその座に座った後、すなわち宣17=BC592年8月以降と考えるべきだろうと思われます。つまり巫臣が荘王の質問に答えたのは、BC592年8月以降だと思われます。工作を行ったのはその少し前。自分の意見によく耳を傾けてくれた荘王が間もなく亡くなるのが分かっていたから、荘王への忠を尽くした後に楚を離れようとした…とmousouするのもアリかしら…。次の王の共王さまは幼くて