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べんりリンク集(自分用)

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未処理メモ(春秋編2)

 メモが長くなったので分割~ 【春秋・国語関連】 ■国語韋昭注に引かれる主要注釈者のなまえ ・賈侍中=賈逵(後漢の人)らしい。…わりと最近まで賈充の父の魏の賈逵のことだと思ってた…; ・鄭司農=鄭衆(後漢の人)らしい。…わりと最近まで鄭玄のことだt(略) 司農をやってた注釈者の鄭っていうと鄭玄がぱっと出てきてしまって…; ちなみに鄭玄の注を引く場合は「鄭後司農」と書いてある。 ・唐尚書=唐固(呉)。だいたい虞翻と同年代(微妙に年上)の人。 ・虞御史=我らが(?)仲翔さん。 虞翻注が引かれてるのをあまり見ない…交州にすっ飛ばされてるし、中央には唐固がいて国語を研究してた訳だから、呉におけるメジャー度は唐固注>虞翻注なのかもー。 ■春秋三伝で名の表記が異なる人 自分が見つけた・気になったものだけ。十三経注疏に依る。表記した紀年は、自分が見つけたものであって初出ではない。 ・荀首(成5経)=「荀首」(左伝・穀梁)/「荀秀」(公羊) ・韓厥(襄元経)=「韓厥」(左伝・穀梁)/「韓屈」(公羊) ・士魴(成18経)=「士魴」(左伝・穀梁)/「士彭」(公羊) ・狐射姑(文6伝)=「狐射姑」(左伝・公羊・穀梁)/「狐夜姑」(穀梁)   ※穀梁伝はどちらの表記もある。 ・先蔑(文7経)=「先蔑」(左伝・穀梁)/「先眛」(公羊) なお、公羊・穀梁が今文、左伝が古文。らしい。つまり、これらの表記の差異は、今文古文の差異と一致しない。公羊伝だけ特殊なことが多い。 ■春秋各国の歴史書のなまえ 『孟子』離婁下から~ ・晋→乗  ・楚→檮杌  ・魯→春秋 ■左伝の主要注釈書 (角川書店から出てる「鑑賞中国の古典」シリーズの左伝の総説で挙げられているもの) ・杜預[西晋] 『春秋経伝集解』 ・孔穎達[唐] 『春秋左伝正義』(『十三経注疏』に収められている) ・林尭叟[宋] 『左伝句読直解』(『春秋左伝杜林合注』として印行) ・顧炎武[清] 『左伝杜解補正』(杜預の注釈の強引な解釈や誤謬を改める) ・恵棟[清]  『春秋左伝補注』 ・焦循[清]  『春秋左伝補疏』 ・沈欽韓[清] 『左氏伝補注』 ・劉文淇[清] 『春秋左氏伝旧注疏証』 ・楊伯峻   『春秋左伝注』 (以下二本は左伝を紀事本末の体裁に編纂したもの) ・高士奇[清] 『左伝紀事本末』 ・韓席籌[清] 『左伝分国集注』 (以下は日本人の注

未処理メモ(春秋編1)

春秋関連の気づいたことなどのメモ。未処理・未調査・未分類の記事と、ちょっとしたメモの集積所。    *   *   *   *   * 【晋関連】 ■士会の呼び方(出典メモつき…部分的にしか挙げてないけど;) 隨会(文13・在秦時) 范会(昭20・子木と趙武が話してるとこ) 士季(文9/左伝宣12・ヒツ) 隨季(宣12) 隨武子(宣12) 范武子(宣17) 季氏(左伝宣16に周王が) 范子(国語・周語中) (武季:宣公16年、士会が享礼について尋ねる場面で、『十三経注疏』などの通行本では「武子」とするが、阮元が校勘に使った宋本には「武季」に作るという。『会箋』は足利本(荻生徂徠の弟子の山井鼎が『七経孟子考文』にて校勘に使った、足利学校が持っていたテキストらしい)もここを「武季」としているという。(<でも、阮元の校勘記を見ると、足利本は「季武子」に作っていると言ってるようなんだが…? よく分からん;) 杜預の該当部分の下の注にも「武」「季」各々についての解説を加える。『左氏会箋』は、これは杜預が「武季」に従ってつけた注であり、もともとは「武子」ではなく「武季」だったと言う。楊伯峻『春秋左伝注』では、ここを「武季」に改めている)。 ■知オウの呼び方メモ 知オウ 荀オウ 子羽(国語晋語7) 知伯(左伝成公18年/襄公10年) 知子(国語晋語6) 知武子 ■祁奚の字 『呂氏春秋』去私篇およびその注によると、祁奚の字は「黄羊」らしい…! って、『春秋左伝注』(成公18年)に書いてあった。 ■士カイ(士弱の子である士文伯の方)の字=「伯瑕」(左伝昭公12年) ■同称異人めも 「士伯」=先蔑(文7)/士渥濁(宣15) 「士荘伯」=鞏朔(成2)/士弱 なんで先蔑が「士伯」だったり鞏朔が「士荘伯」だったりするんや…分からん;; これとはちょっと違うけど…『礼記』曲礼下によれば、列国の大夫が天子の国(周)に行ったときは「某士」と名乗るらしい。『左伝』には韓起が周に行ったときに「晋士起」と名乗ってる場面があるっぽい。 ■苗賁皇の作戦@鄢陵の戦い の記事の所在 ・左伝成公16年、まさにエン陵の戦いの場面 ・左伝襄公26年。ここでも苗賁皇の策について詳細に書いてある ・国語・楚語上。エン陵の戦いの描写があるんだけど…策の提案者が苗賁皇じゃなくて、「雍子」ちう人になってるのよな…ど、どちら様…