未処理メモ(春秋編1)

春秋関連の気づいたことなどのメモ。未処理・未調査・未分類の記事と、ちょっとしたメモの集積所。


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【晋関連】


■士会の呼び方(出典メモつき…部分的にしか挙げてないけど;)

隨会(文13・在秦時)

范会(昭20・子木と趙武が話してるとこ)

士季(文9/左伝宣12・ヒツ)

隨季(宣12)

隨武子(宣12)

范武子(宣17)

季氏(左伝宣16に周王が)

范子(国語・周語中)

(武季:宣公16年、士会が享礼について尋ねる場面で、『十三経注疏』などの通行本では「武子」とするが、阮元が校勘に使った宋本には「武季」に作るという。『会箋』は足利本(荻生徂徠の弟子の山井鼎が『七経孟子考文』にて校勘に使った、足利学校が持っていたテキストらしい)もここを「武季」としているという。(<でも、阮元の校勘記を見ると、足利本は「季武子」に作っていると言ってるようなんだが…? よく分からん;) 杜預の該当部分の下の注にも「武」「季」各々についての解説を加える。『左氏会箋』は、これは杜預が「武季」に従ってつけた注であり、もともとは「武子」ではなく「武季」だったと言う。楊伯峻『春秋左伝注』では、ここを「武季」に改めている)。


■知オウの呼び方メモ

知オウ

荀オウ

子羽(国語晋語7)

知伯(左伝成公18年/襄公10年)

知子(国語晋語6)

知武子


■祁奚の字

『呂氏春秋』去私篇およびその注によると、祁奚の字は「黄羊」らしい…! って、『春秋左伝注』(成公18年)に書いてあった。


■士カイ(士弱の子である士文伯の方)の字=「伯瑕」(左伝昭公12年)


■同称異人めも

「士伯」=先蔑(文7)/士渥濁(宣15)

「士荘伯」=鞏朔(成2)/士弱

なんで先蔑が「士伯」だったり鞏朔が「士荘伯」だったりするんや…分からん;;

これとはちょっと違うけど…『礼記』曲礼下によれば、列国の大夫が天子の国(周)に行ったときは「某士」と名乗るらしい。『左伝』には韓起が周に行ったときに「晋士起」と名乗ってる場面があるっぽい。


■苗賁皇の作戦@鄢陵の戦い の記事の所在

・左伝成公16年、まさにエン陵の戦いの場面

・左伝襄公26年。ここでも苗賁皇の策について詳細に書いてある

・国語・楚語上。エン陵の戦いの描写があるんだけど…策の提案者が苗賁皇じゃなくて、「雍子」ちう人になってるのよな…ど、どちら様…? むむ、後で調べるか…調べて出てくるかしら…。

■雍子について。とりあえず見つけた情報だけメモ。

もとは楚の人で、自分の父兄が(国語によれば共王に対して)彼を讒言したため、晋に亡命してきた人。

左伝・昭公14(BC528)年の記事によると、邢侯(巫臣の子)と田土の件でもめて、調停担当者の叔魚(羊舌鮒。叔向の弟)に娘を嫁がせて自分に有利に事を運ぼうとしたところ、キレた邢侯に叔魚ともども殺されてしまったという、何とも情けない最後を迎えている…。

ただ、楚との戦いでは見事な献策をして晋に貢献しているらしい。

彼が活躍した戦いは、左伝(襄公26年)によれば靡角の戦い(成公18年=BC573年)、国語(楚語上)によれば鄢陵の戦い(成公16年=BC575年)。左伝と国語とで、彼が関与した戦いが異なっている。鄢陵の戦いというと苗賁皇が大活躍!のイメージがあるので、鄢陵の戦いでは雍子が活躍!という国語の記事には違和感があるが、国語(晋語)の鄢陵の戦いの記事には具体的な作戦に関する記述がない。だから、国語の中に限っていえば、鄢陵の戦いの作戦担当者が雍子でも矛盾はないんだよなぁ…。

靡角の戦い/鄢陵の戦いと、雍子が殺された事件との間には、50年弱の時間差があるが、杜預も韋昭も同一人物のことだとみなしている様子。


■御龍氏に関する記事の所在

・左伝襄公24年。士カイが叔孫豹に名は不朽とは何ぞやーと尋ねておいて、相手の答えを聞く前に自分の家系を語り始めるところ(笑)

・左伝昭公29年。龍が現れたことについて、魏舒の問いに蔡墨が答える場面。

・国語・晋語8。襄公24年と同内容。


■郤至が郤溱の子孫?…だと…?

『国語』晋語四のラストの方の郤溱に関する韋昭注に、「郤溱、晋大夫郤至之先」って書いてあるんです…けど…! 郤溱って、郤氏だけど他の郤さんとの血縁関連がイマイチ分からない人なんですよね…。

※郤溱に関する諸注(手持ちの資料だと)↓

・「郤溱、晋大夫郤至之兄」(会箋/僖27)<エエーーッ(笑)!!! たぶん韋昭注の引き間違いではあるまいか…; ちなみに杜預注は郤溱をスルー(笑)

※郤至に関する諸注(手持ち資料より)↓

・「郤至、晋卿歩揚之孫、蒲城鵲居之子温季也」(国語韋昭注/周語中)

・「郤至、晋卿、犨之弟子温季昭子也」(国語韋昭注/周語下) つまり郤犨の甥ってことすか

   …んー、郤至に関する韋昭注では、郤溱にノータッチなのね…。

・「至、郤克族子也」(左伝杜注/成2)

・「世本、郤豹生冀芮、芮生缺、缺生克。又云、豹生義、義生歩楊(←ママ)、楊生蒲城鵲居、居生至」(左伝正義/成2)

どういうことなんですか韋昭せんせい!!!


■「土」会もあながち間違いではない?

左伝のテキストによっては、士会のことを時々「土」会と表記している。何だこの士氏いじめのドイヒーなミスは(笑)と思っていたのですが、洪.亮.吉の『春.秋.左.伝.詁』(文公6年)を見ていたら、「土」会もありうる様子。古来「土」は「杜」に通じ、杜伯の子孫である士氏が「杜」氏を称するのは十分にありうるとのこと(焦.竑という学者の説も引かれていますが、彼に至っては、『「士」の方が間違ってる! 全部「杜」と通じる「土」とすべき!』とまで言っている)。


■劉氏は范氏の末裔説→『漢書』高帝紀 賛


■趙夙と趙衰の関係(楊伯峻の左伝注p590より)

国語(晋語)→兄弟、世本→親子、史記→祖父と孫 らしい。



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【楚関連】


■楚の公子たちの出自めも

しゅんじゅー大事表は、有力な卿大夫の系図は作ってくれてるけど、諸侯の系図がなくて時々参ってしまう…;

楚の公子たちの系図もないので、気になる人について、左伝や国語の注などを引用しておこう…。

・公子嬰斉(子重)=穆王(荘王の父)の子。荘王の弟

  「子重、公子嬰斉。荘王弟。」(左伝・宣11伝、杜注)

  「楚子重子辛皆出穆王。」(左伝・襄26伝、杜注)

・公子側(子反)=子辛の兄(=穆王の子で荘王の兄弟)???

  「壬夫、子反弟子辛。」(左伝・襄公元、会箋)←箋が何を根拠にこう言ってるのか分からんー(>_<)

・公子壬夫(子辛)=穆王の子

  「楚子重子辛皆出穆王。」(左伝・襄26伝、杜注)

・公子貞(子嚢)=荘王の子。共王の弟

  「子嚢、荘王子公子貞。」(左伝・成15伝、杜注)

  「子嚢、恭王弟令尹公子貞也。」(国語・楚語上、韋注)


■養由基の字

襄公13年の伝文に「養叔」とある。従って字は「叔」。


■「養由基」の異同(『春.秋.左.伝.詁』宣公12年より)

養由基=養由其(『淮南子』)=(養)游基(班.固「東.都.賦」)

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