『春秋名臣列伝』メモ・その2
では、春秋名臣列伝の続きの5人を…10人分書こうとしたけどかなり長くなりそうなので分けます; ほんと、知らないことだらけでまとめるのに一苦労だ…苦笑。
■巫臣■
楚の人。屈巫ともいう。戦国時代の屈原と同じ屈氏。才覚があり、祭祀・呪術に明るかった。楚が陳に攻め込み、美貌の夏姫を捕らえると、巫臣は夏姫に一目惚れ(?)し、荘王や子反が夏姫を娶りたいと言うのを諦めさせた。荘王が没すると、巫臣は夏姫を伴い、晋の郤至を頼って亡命し、晋では大夫として厚遇された。夏姫に未練がある子反と、以前巫臣に口を挟まれて領地をもらえなかった子重とが、楚に残った巫臣の一族を根絶やしにして報復すると、巫臣は「お前たちを奔走して疲れさせてやる」と、楚の隣の呉に中原の戦法を教え、度々楚に攻め込ませた。その度子反と子重は駆り出された。なお、巫臣と夏姫の間に生まれた娘は、晋の賢人・叔向に嫁ぐ。
▼子反(公子側)
楚の臣。夏姫を娶りたいと言ったが、巫臣に「不祥だ」と言われ諦めた。巫臣が夏姫と出奔すると、騙されたと怒り、同じく巫臣に恨みを持つ子重とともに巫臣の一族を絶やし、その財を分けた。後、巫臣は呉に楚を攻めさせ、子反と子重は戦場を駆けずり回ることになった。なお後に、エン陵での敗戦の責任を取って自害した。
▼夏姫
鄭の穆公の娘(子駟や子国などとは兄弟)。嫁ぐ相手が皆死んだり亡命を余儀なくされる、不幸の美女。子の夏徴舒が陳の霊公を弑したのを咎めて楚が陳に攻め込んだ際、楚に捕われる。楚では連尹襄老に嫁ぐが、彼もまたヒツの戦いで戦死。かねて夏姫に心を寄せていた巫臣によって楚から抜け出し、ともに晋に赴く。
■祁奚■
晋の大夫。祁氏は、晋の献侯(←献公詭諸ではない)から出たとも、隰叔(←士イの項を参照)から出たとも言われる。晋の悼公が立つと中軍の尉となる。三年で引退を申し出ると、後任には仲は悪いがまっすぐな解狐を推挙した。着任前に解狐が死ぬと、今度は自分の子・祁午を推挙した。仇でも憎まず身内でも気兼ねしない人事である(『三国志』呂蒙伝・蒋欽伝に引かれているのがこの逸話)。また、士カイが欒氏を滅ぼした際、晋の賢人・叔向も嫌疑をかけられ捕らえられた。これを噂に聞いた祁奚は、引退の身ながらも士カイを説き伏せ、叔向を解放させた。この時祁奚は叔向に会わなかったし、また叔向も祁奚に謝辞を述べなかった。
▼趙荘姫
晋の卿・趙朔の妻。夫と同族の趙同・趙括が愛人の趙嬰斉を追放してしまったので、それを恨んで同・括を讒して殺してしまった。これにより趙氏は滅亡同然になり、その領地も祁奚に与えられることになったが、韓厥が趙朔の子・趙武に領地を戻すよう進言し、結局趙氏の領地は趙武に戻され、趙氏が復権した。祁奚が韓厥・趙武を恨むそぶりは全くない。
▼羊舌職
祁奚が中軍の尉となった際、その補佐となる。叔向の父。
▼楽王鮒
晋の平公の寵臣で、彼の言うことは皆取り上げられていた。叔向が捕えられると、その赦免を願い出ようかと叔向に声を掛けたが、叔向は拒否して、「私を助けてくれるのは祁大夫(奚)だけだ」と言った。
*晋公室・祁氏の系図あり
■師曠■
晋の楽師。盲人であった(視覚がきかない分聴覚にすぐれるので、楽師は盲目の者が多いらしい←これは宮城谷さんの本には書いてないけど、どこかでそう聞いたような…)。音楽のみならずすぐれた見識をも有していたため、平公の諮問係になっていた。叔向とともに、明君とは言い難い平公を支えた。平公が大きな宮殿(シ祁宮)を建設すると、それを諫め、叔向に讃えられた。
▼晋の平公
名は彪。悼公(周)の子。叔向が彪の教育係となった。娯楽好きであったが、師曠や叔向の補佐で命を全うした。師曠にたびたび諫められたが、師曠を嫌わずに傍に置き続けた。
▼子朱
晋の行人(外交官)。いつも伝えるべき内容を枉げてしまうという理由で、叔向から使者の任を外されていた。子朱が叔向にかみつき、叔向も立ち向かってあやうく刃傷沙汰になりかかると、師曠は二人を非難した。
■子産■
鄭の臣。子国の子。名は僑。当時最高レベルの知識人で、外交にも優れる。父の子国が子駟とともに朝廷で暗殺され、君主の簡公が拘束されると、子産は即座に家内の安全を図った後、兵を整えて朝廷に向い、賊徒が足並みを揃えないうちにこれを攻めて簡公を救い出した。その後は簡公の下で力を振るい、改革を推し進めた。
▼子国
子産の父。穆公の子。名は発。子駟の股肱で司馬を拝命していたが、子駟の専横を憎んだ一派に子駟・子耳ともども殺害された。
▼子駟
子国の兄。穆公の子。名はヒ[馬+非]。鄭の僖公を毒殺し、その子・嘉を立てた(これが簡公)。以後子駟は鄭で力を振るったが、これを憎んだ者たちに殺された。
▼子孔
これまた穆公の子。子駟らの暗殺の黒幕。子駟の死後宰相となったがこれといった功績はなく、罪を疑われるや反旗を翻し、攻め殺された。
▼子キョウ[虫+喬]
子游の子。名はタイ[萬+虫]。子孔が政権を握ると、その次席となり、一貫して晋と結んで外交関係を安定させる。
▼子皮
子罕の孫。子展の子。子展の死後に正卿となる。執政である子産と政治に当たり、全てを子産に委ねて彼の補佐に回ったことは、晏子や孔子に称賛された。子皮が死ぬと、子産は「私はもう終わりだ、私を知るのはあの人だけだった」と痛哭した。子皮の死後、子産は鄭の正卿となった。
▼簡公
鄭の君主。名は嘉。父・僖公が子駟に暗殺されると、わずか5歳で君主となった。忍耐強く政治に当たり、鄭の明君に数えられる。子皮・子産が政治を担当すると彼らに一任してその力を発揮させた。在位36年、41歳で死去。
*鄭の七穆(穆公の子たち)=子良(名は去疾)・子游(偃)・子国(発)・子罕(喜)・子駟(ヒ[馬+非])・子印(舒)・子豊。(岩波『春秋左氏伝』系図より)
■子罕■
宋の司城。平公に仕えた。氏は楽、名は喜。鄭にも、字が子罕・名が喜という人物がいるが、全くの別人(鄭の子罕は、鄭の穆公の子)。「人ごとに其の宝を有つに若かず」の言葉で有名…私も高校の頃漢文の授業で見た(笑)。宋人が宝玉を子罕に献上すると、子罕は受け取らなかった。曰く、「私は貪らないことを宝としている。お互いそれぞれの宝を持っているのが一番だ」と。他にも、
・朝廷で楽轡(がくひ・字は子蕩)が華弱の首を弓で締めたとき、公平な裁きを進言。
・宋で大火事があった時、てきぱきと指示を出して被害を最低限に抑えた。
・皇国父が農耕期なのに民を楼閣建設に当てると子罕は諫めた。民が皇国父を怨嗟し、子罕を慕う歌を歌うのを聞くと、いきなり怠けている民を鞭で打つようになった。訝った人が理由を聞くと、子罕は「小さな国で褒めたりけなしたりすることが禍の元になるのだ」と言った。
・宋の左師である向戌が晋・楚の同盟を成立させて帰国すると、平公に褒賞を求め、60もの邑を授かった。その文書を子罕に見せると、「小国が畏れを忘れていい気になっては滅ぶのみ。賞を授かっては欲深いと思われますぞ」と、その文書の字を削って捨てた。向戌は邑を得られなかったが、「お陰で滅びから免れた」と言った。
・鄭の子皮が民に穀物を施したと聞くと、「善に隣するのはよきことだ」と言い、宋が不作となると官の蔵を開いて民に貸し、証文も取らなかった。これを聞いた晋の叔向は、「鄭の子皮と宋の子罕の家は最後まで残るであろう」と言った。
…などなど、けっこうエピソードに富む人物。
とりあえずここまで。あと5人です…。
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