『春秋名臣列伝』メモ・その3

 春秋名臣列伝メモ、ラスト5人です。だんだんメモが長くなっていく…;;



■晏嬰■

管仲の後に出た斉の名宰相・晏子。諸葛亮が作ったといわれる「梁甫吟」が晏嬰を詠ったものなので、三国スキーさんは知ってらっしゃるかと。生前から吝嗇家として知られていて、父の晏弱を葬るにしても礼の規定以下の規模だった。故に、礼容を重んずる孔子からその点で批判を受けた。礼容を守るか、現実に即して倹約するかで、孔子と晏嬰の考えは逆だったかも。孔子が斉を訪れた際も晏嬰は、外の飾りを立派にする孔子は斉の政治には不要だと退けている。が、孔子の弟子・曾子は、「恭敬の心があった晏子は礼を知るといえよう」「国が奢っているときに君子は倹約を示すのだ」と言って肯定した。また福祉を奨励し、主の景公は晏嬰の考えを受けて、身寄りのない者を国で養った。晏嬰が死ぬと景公に直言する者はいなくなり、お追従ばかりを聞く景公は嘆いた。


▼斉の景公

霊公の子。兄の荘公の後に君主となる。斉に来た孔子を召抱えようとしたが、晏嬰が反論したので登用しなかった。晏嬰の補佐を受け、社会福祉政策を行った。

▼陳乞

陳無宇の子。景公の死後、後継者問題に乗じて斉の有力者を屠った人。強力だった国氏・高氏と他の大夫たちを反目させ、二氏を斉から追い出した。陳乞の子が陳恒(田常)で、彼が斉を簒奪する。




■季札■

呉の賢人。呉王・寿夢の末子。寿夢は君主に立てたがったが季札が頑なに断ったので、結局長男の諸樊が呉王を継いだ。兄たちは順に王となり、最終的に季札に位を譲ろうとしていたが、呉が外交関係を温める必要に迫られると、季札が使者となって中原諸国を訪問した。魯では、題名の分からぬ歌を聴いて的確な感想を述べ、晋では趙武・韓起・魏舒に会って「晋はこの三族のものとなりましょう」と予言した。徐という国に立ち寄ると、徐の君が季札の剣に目をとめた。後に徐に立ち寄ると、徐君はもう逝去していた。季札は徐君が剣を欲していたのを察しており、その墓の木に宝剣を掛けていった。ある人が不思議がると、「私はこれを徐君に差し上げようと思っていた、その我が心には背けない」と答えた。呉王夫差の代まで生き続けた。


▼寿夢

呉王。呉の国力を伸ばした明君。

▼諸樊

寿夢の長子。楚との戦いで戦死。季札にまで王位を伝えるよう言い残していた。

▼餘祭

寿夢の次子。兄の遺言に従い、季札を延陵に封じた。越の捕虜に不意を突かれて殺された。

▼句餘(餘昧)

寿夢の三子。楚と越に挟まれた呉が生き残るには中華の諸国との関係が必要と考え、知識豊富な季札を使者として諸国を訪問させた。

▼呉王僚

寿夢の庶子とも、句餘の子とも言われる。句餘の後呉王となった。闔閭の命を受けたセン[魚+専]設諸(=専諸)に暗殺された。

▼屈狐庸

晋の巫臣の子。巫臣が行人(使者)となって呉王寿夢と国交を持った際、軍事顧問として屈狐庸を残して行った。寿夢に気に入られ、宰相にまで上った。

*おまけ:諸国訪問中の季札が一目置いた人たち

 [魯]:叔孫彪

 [斉]:晏嬰

 [鄭]:子産

 [衛]:キョ伯玉・史狗・史鰌・公子荊・公叔発・公子朝

 [晋]:趙武・韓起・魏舒・叔向




■キョ[艸+遽]伯玉■

衛の大夫。名はエン[玉+爰]。衛の良識者の代表格。孫林父が献公を攻めようとしてキョ伯玉の賛意を得ようとしたが、伯玉は「(君主が愚昧だからといって)奸(おか)したところで、今よりよくなることはない」と言って、乱を避けて国外に去った。後に衛に戻り、献公が帰国した際にまた出国した様子だが、また衛に戻ったらしい。孔子とも交流があり、臣下としての進退を称賛された。『淮南子』には、衛の宰相となった伯玉のもとに子貢がやってきて治国の法を訊ねると、「治めないことを旨として治めます」と答えた、という話が残っている。


▼弥子瑕(びしか)

衛の霊公のとき国政を担当していた。

▼史鰌(ししゅう)

衛の大夫。弥子瑕を退けてキョ伯玉を用いるよう霊公に進言したが用いられず、その死に際しても、伯玉を推挙し、弥子瑕を退けて主君を正すことができなかった自分を悔いた。霊公が弔問にきてそれを知ると、伯玉を召し出して弥子瑕を退けた。

▼孫林父

衛の卿。献公と対立し、関係の修復が不能だと判断すると、献公からの使者を殺し、公を衛から追い出した。後、献公が帰国すると、献公を擁護する大夫たちに攻められた。孫林父は、食邑の戚ごと晋に投降した。後、季札が戚を通った時、鐘の音が聞こえた。季札は「主君に対して罪を犯して、恐懼するだけでも足りないのに音楽を奏でるとは」と非難を口にして、戚に泊まらず去った。それを知った孫林父は生涯音楽を聴かなかった。

▼衛の献公

大臣の孫林父と対立しており、さらに彼をばかにするようなことを再三行ったので、ついに攻められて斉に亡命するはめになった。その12年後、衛に戻ることができた。

▼孫カイ[萠+刀](刀=りっとうで…)

孫林父の子。献公に面会した時、献公が師曹に父を馬鹿にする歌(『詩』巧言)を歌わせたので、父にそれを伝えた。これを聞いた孫林父は、もう献公との関係は修復できず、このままでは殺されるに違いないと考え、献公を攻めて衛から追い出した。

▼師曹

衛の楽人。以前献公に300回も鞭打たれたことがあり、それを恨んでいた。献公が孫カイの前で「巧言」を歌わせようとすると、進んでこれを歌い、これがきっかけて孫林父は献公を攻めることを決意した。




■伍子胥■

名は員(うん)。伍奢の子。楚の出身だが、父と兄を楚の平王に殺され、楚に復讐するため呉に仕える。呉の公子光(のちの闔閭)に目をかけられ、闔閭が即位すると楚を攻め、楚を疲れさせると、さらに攻め入って楚の都・郢を陥落させた。仇の平王は既に死んでいたので、その墓を発いて屍に鞭打った。闔閭が死んで夫差が立つと伍子胥は疎んぜられ、最後は自殺させられた。ちなみに斉の王孫氏は伍子胥の子孫。夫差に疎まれた伍子胥は、わが子を斉の鮑氏に託して、伍氏の血胤を保った。


▼伍奢

伍挙の子。太子建の教育係だった。費無極が「伍奢と太子建が叛こうとしている」と平王に讒言したため、平王に問責された。まっすぐな伍奢は、平王の悪事を面と向かって批判した。平王の激怒を買った伍奢は捕らえられ、子の伍尚とともに殺された。

▼伍尚

伍奢の子。伍子胥の兄。奸臣・費無極は、伍奢とその子を皆滅ぼさんと謀り、平王を使って、伍尚・伍子胥兄弟が朝廷に来れば、捕らえた父(伍奢)を赦す、と伝えた。伍尚は弟の伍子胥に向い、自分は出頭して父と共に死ぬが、お前は呉に行って仇を取ってくれ、と言って都に行った。伍奢・伍尚は都で殺害された。

▼楚の平王

名は棄疾。共王の末子。兄の霊王(名は囲)を倒し、また他の兄たち(公子比・公子黒肱)を自殺に追い込んで即位した。費無極を重用し、苛政を布き、また息子の建のために迎えた秦の公女の美しさに目をとめて我が物とするなど、放恣な王であった。

▼太子建

平王が蔡にいた頃、蔡の封人(関守)の娘を愛して生まれた子。費無極を嫌っていたので、彼の計によって反逆の罪を着せられ、父に誅殺されそうになるが、誅殺の命を受けた奮揚という者がこれはおかしいと思い、密かに太子建を逃がした。のち、亡命先の鄭で殺された。

▼費無極

平王の奸臣。自分の敵となりそうな太子建や伍奢を讒言して楚から消した。呉王闔閭が立ったのと同じ年に、楚の令尹・子常に誅殺された。

▼呉王闔閭

名は光。諸樊の子とも句餘(餘昧)の子であるとも言われるが、定説はないらしい。伍子胥が紹介したセン[魚+専]設諸という刺客に呉王僚を殺させ、即位した。伍子胥と孫武を得て補翼とし、ついに仇敵である楚の都を陥落させるに至った。越を攻めた際傷を負い、死去した。

▼申包胥

楚の臣。友の伍子胥が復讐を誓って楚を出る時、伍子胥に向って「お前が楚を滅ぼすなら、私が再興する」と言った。楚都・郢が陥落すると、秦に行って援軍を乞うた。秦の哀公は最初断ったが、申包胥が朝廷の外で七日間哭き続けるので、ついに折れて軍を与えた。申包胥はこれを率いて楚に戻り、呉の主軍を破った。「申」という氏を見ると、申叔時(エン陵の戦いに向かう子反の死を予言した人)を思い出すが、同じ一族か…?

*楚の共王の子の一覧あり




■孫武■

呉の臣。言わずと知れた希代の兵法家・孫子。『左伝』にその名は見えず、『史記』に記述がある人物。生まれは斉で、斉の陳無宇の子・子占が孫氏を名乗ったというが、孫武が彼の子孫か否かは不明。その著作を見た呉王闔閭に気に入られ、闔閭の後宮の女たちを調練してみよと言われると、命令を遵守しない女を容赦なく処刑し、命令を徹底させた。気分を害されたもののその力を認めた闔閭は孫武を用い、孫武は伍子胥とともに闔閭の腹心となって才能を発揮した。が、その業績の詳細は分かっていない。闔閭没後は、史書にその名を見出せなくなる。



…これで、春秋名臣列伝の20人のメモ終わり!

これで少しは春秋の人を覚えられたかな…?(覚えてもすぐ忘れてしまうけど!笑)

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