小説十八史略メモ【戦国1】

陳舜臣 『小説十八史略』(陳舜臣全集) 講談社 1986



春秋時代と戦国時代の境目は、晋が趙・魏・韓に三分された時期に置かれるようです。西暦で言えば、晋の三分は紀元前453年、呉王夫差が死んで呉が滅んでから20年経った時。ただし、趙・魏・韓が周から諸侯として認められたのが紀元前403年になるので、この時を戦国時代の始まりとみなすことも多いようで。私が持ってる世界史の資料集には、紀元前403年から、秦が天下を統一する紀元前221年までが戦国時代、と書いてあった。


ということで、以下は戦国時代のメモ。有名人が多いですな…。



【戦国時代】(人名の後ろの<>内は所属する国の名)

■知伯<晋>

晋の有力者「六卿」(知氏・趙氏・魏氏・韓氏・中行氏・范氏)の一人で、六卿の中で最も有力。まず范氏・中行氏を滅ぼし、韓氏・魏氏をおどしつけてともに趙氏を滅ぼそうとしたが、韓・魏両氏に裏切られて身を滅ぼす。この本には採用されていないけれど、趙の君主・趙襄子を狙った刺客・予譲は、この知伯の知遇を得ていたんですよね。予譲は「士は己を知るもののために死す」「塗炭の苦しみ」の語でも有名。

■趙襄子・魏桓子・韓康子<晋>

各々「六卿」の一人。魏桓子・韓康子は知伯の力を恐れてやむなくこれに味方し、知伯に逆らった趙襄子を攻めたが、趙襄子の配下・張孟談の説得と奇策によって趙襄子の味方をし、知伯を破る。

知伯の死後、三氏は知伯の領土を三分した(これが晋の三分)。

■張孟談

趙襄子に仕える。知伯の水攻めに遭って苦しんでいるとき、知伯を逆に水攻めにしてやろうという奇策を携え、魏桓子・韓康子を説いて味方につけた。


■孫ピン【月+賓】<斉>

兵法書『孫子』を著した孫武の子孫。斉の人。同じ塾で学んだホウ【广+龍】涓に憎まれ、罠にはめられてヒン【月+賓】刑(足斬りの刑)にされる。後、斉に戻り、田忌のもとで軍師となった。魏・趙に攻められた韓が斉に援軍を求めたとき、田忌とともに出兵し、魏の将軍となっている因縁のホウ涓と戦う。孫ピンは、かまどの数を減らして(兵が逃げ去っていることを装い)ホウ涓を油断させ、馬陵に誘い込んでホウ涓を破った。

■田忌<斉>

斉の将軍。威王の頃、政争に敗れて一時亡命したが、威王が死に、宣王が即位すると、再び斉で将軍となった。孫ピンと組んで出征することが多かった様子。鄒忌と仲が悪い。

■鄒忌<斉>

斉の宰相。この人というと、ナルシストのイメージが強いのですが…(笑)。美貌が売り。

■ホウ【广+龍】涓<魏>

趙の首都・邯鄲で孫ピンとともに学ぶが、家柄・才能ともに自分以上の孫ピンを憎み、罠にはめて彼を足斬りの刑にする。後、魏に仕え、恵王のもとで将軍となる。馬陵の戦いで孫ピンの策に引っかかる。――宵闇が周囲を包む頃、ホウ涓は馬陵に着いた。巨木に何か文字が書いてあったので、ホウ涓は火をともした。木には「ホウ涓 此の樹の下に死なん」とあった。孫ピンは予め馬陵の高地に兵を伏せ、火がともったらそれに向かって矢を放てと命じていた。ホウ涓の兵はことごとく射殺され、ホウ涓は自殺したとも捕らえられたともいう。

■魏の恵王<魏>

ホウ涓の主君。孟子が「五十歩百歩」のたとえ話をしたのは、この恵王の前。『孟子』に「梁恵王」という編名があるが、「梁恵王」とはこの魏の恵王のこと。後出の「商鞅」の段にも出てきます。

■太子申<魏>

魏の(恵王の?)太子。馬陵の戦いで死んだらしい。


■呉起<魯→魏→楚>

兵法家として、孫子とともに「孫呉」と並称される。衛の人。豪族の出身。若い頃、自分を侮った人間三十数人を殺害したという。出世欲が強く、孔子の弟子の曾子(名は参)に弟子入りしたものの破門される。魯で将軍となり、斉を破ったが、自分の保身のためには妻をも殺したので、魯で信用されずに地位を失い、魏に行く。魏では、不仲の公叔が宰相となり、役職を削られたので、楚に出奔した。

楚では悼王のもとで宰相となり、高位についている貴族の閑職を思いっきり削って経費削減をはかった。悼王が死ぬと、呉起に位を逐われた者たちが呉起を討とうとした。ただで転ばぬ呉起は、逃げて悼王の遺体におおいかぶさり、そこで射殺された。呉起に矢を放った者たちは、王にも矢を向けたとして粛清された。

兵法の巧みさと実践力と情熱はあるけれど、人間性には「?」がつく人ですね、この本を読む限り…。

(あと、呉起が魏にいたとき、田文、すなわち孟嘗君が宰相になったとあるけれど…孟嘗君って呉起よりずっと後の時代の人のような…)

■魏の文侯<魏>

魯を離れた呉起を迎え入れた魏の君主。死後、武侯が後を継ぐ。

■李克<魏>

文侯の頃の宰相。呉起を魏に迎えることを侯に勧める。

■公叔<魏>

魏の武侯の時、宰相・田文(孟嘗君)の死後に宰相となる。策をもうけて、呉起を魏から追い払った。

■楚の悼王<楚>

呉起を迎え入れた楚の王。呉起を宰相として、手腕を振るわせる。


■淳于コン【髟+几】<斉>

斉の「稷下の学士」のまとめ役。斉の威王や魏の恵王の頃の人なので、前出の孫ピンやホウ涓と同時代の人。親に売り飛ばされて奴隷となったが、読心術に秀で、斉の威王にも気に入られる。五尺に満たない短躯、不細工な顔、体力はないが、相手の心を読み取り、話術に巧みだった。博覧強記・滑稽多弁で知られる。人の心をたくみに掴んだので、癖の多い稷下の学士のまとめ役が可能だったのでは…とのこと。斉の威王を諫めた「鳴かず飛ばず」の語は有名。


■商鞅(公孫鞅)<秦>

秦で法治主義を実践した人物。衛の人。魏の宰相・公叔ザ【やまいだれに坐】の執事をしていた。公叔ザが病の床に就き、魏の恵王が後任の推薦を頼むと、公叔ザは商鞅を薦めた。「もし商鞅を用いませんときは、彼を殺してください。他国に行けば災いとなります」と言い添えて。これを察した商鞅は、友人の范差と協力し、魏を脱して秦に向かった。

商鞅は秦の重臣・景監に取り入って要職に就き、法を整備した。法を重んじ、たとえ王族周辺の人物であっても、法に触れれば罰した。太子が法を破ったので、その傅(お守役)の公子虔を鼻削ぎの刑、師の公孫賈をいれずみの刑にした。これ以降、人々は恐れて、法を遵守するようになった。これによって政敵も作ったが、この法整備が秦による天下統一を可能にしたといわれる。

斉の孫ピンが魏のホウ涓を破った馬陵の戦いに乗じて、商鞅は魏に出兵、大勝を収めた。魏の恵王は、商鞅を逃したことを歯噛みして悔しがった。

商鞅を信任していた秦の孝公が死んだ。常々商鞅を憎んでいた公子虔は、同志を集めて「商鞅に謀反の企みあり!」と言って追ってを差し向けた。商鞅は、国境の函谷関まで逃げた。関の周辺では、「旅券のない人はお泊めできません、罰せられます」と、自分の作った法に足を引っ張られ、なんとか魏に逃げ込んだが追放され、秦軍に攻められて殺された。その死体は車裂きにされたという。

■公子虔<秦>

商鞅の法によって鼻削ぎの刑を受け、商鞅を憎む。商鞅は、近侍の范差を送り込んで公子虔を懐柔しようとしたが、范差は公子虔を憐れんで肩入れをした。公子虔は商鞅を憎み続け、君主の孝公が死ぬと、公子虔は商鞅に恨みを持つ人々を集めて、商鞅を討った。

■范差

商鞅の友人(部下に近いかも)。商鞅が魏の恵王のもとから逃れるときも、恵王を言いくるめて、商鞅殺害を思いとどまらせた。商鞅とともに秦に落ち着き、ここでも商鞅の腹心として働いた。鼻削ぎにされた公子虔のもとに送り込まれたとき、公子の立場に同情し、公子たちが商鞅失脚の計画を立てていることを知っても、それを商鞅に報告しなかった。結果、商鞅は失脚した。

■秦の孝公<秦>

秦の君主。商鞅を信任し、秦を法治国家化させた。

■秦の恵王<秦>

孝公の後の秦の君主。見せしめのために、商鞅の死体を車裂きにした。



…戦国時代のメモも長くなってきたので(笑)、またスレッド分けます。

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