陸康と孫策

陸遜のおじさんの陸康に関して。後漢の末、陸氏一族を取りまとめてたのが陸康です。

陸康は、廬江というところの太守をやってた頃、当時袁術の配下だった孫策に城を取られたんですよね。うちの人物列伝の陸遜が孫策に対してちょっとトゲがあるのはこのせいです(笑)。


でも、正史三国志にある記述だけだと、廬江が落ちたときに陸康が死んだのかどうかも、その後陸氏一族がどうなったかも書かれてなくて、なんだか物足りなかったんですよね…。陸氏と孫氏の溝の深さがどの程度か分からなくて。


で、なんとなく中央研究院で検索してみたら…陸康って、『後漢書』に列伝があるんじゃんかーー!! ということで早速図書館で調べてみました。


うああ!! 廬江を抜かれた後の陸康のことがちゃんと書いてありました『後漢書』に!!

『後漢書』によると…陸康は、孫策に包囲されること2年で廬江を失い、その直後に病を発して死去したらしい。孫策軍に直接的に命を奪われたわけではないんですね。


しかし、一族の柱を失った陸氏のダメージは非常に大きかった様子。「宗族百余人、飢厄に遭離し、死する者 将(まさ)に半ばならんとす」(一族100人あまりは生活基盤を失い、その半分近くが死んだ…というような内容でしょうか)とあります。

陸遜は、少年だったにもかかわらず、こんな瓦解状態になった一族のとりまとめをせねばならなかったんですから、その辛苦は計り知れません。


孫策は袁術の命令に従っただけで、好んで陸康を攻めた訳ではありませんが(でも、孫策と陸康の仲ももともと微妙だったしな…うーん)、この件以降の陸氏と孫氏の溝はけっこう深かったと考えてよさそうです。

(2006.05.28)

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