欒書が下軍の将→執政に特進した件のmousou

 鞍の戦いの頃、欒書様は第五位の下軍の将だったのに、郤克没後にいきなり執政に上がった件についていろいろ考えたことまとめ。


晋では六卿に空位が生じた場合、その下位の人が繰り上がるのが基本なので、郤克がいなくなった後に執政になるのは、順番でいえば荀首のはずなのです。なのに荀首が執政にならず、また欒書より上位にいた荀庚・士燮もまた執政にならずに、自分より下位だった欒書を執政に上せたのはどういうことなのかなーと考えたりしました。

ということで、荀首・荀庚・士燮各人についてその理由を考えてみますた。


■荀首さん

荀首は邲の戦い(魯宣公12年)の際は下軍大夫で、欒書は下軍の佐だったのですよね。欒書は人臣第六位の卿、荀首は卿ではなく大夫にすぎない。よって、かつては欒書が上位、荀首の方が下位。

それが、鞍の戦いの頃(魯成公2年)には、荀首は中軍の佐(2位)、欒書は下軍の将(5位)。荀首が異様な昇進を遂げているんですが、『左伝』成公2年の巫臣の言によれば、荀首は晋の成公の寵臣で、かつ赤狄潞氏を滅ぼす功を立てた荀林父の弟なので、成公(魯宣公9年=BC600没)の子である景公が特進させたのかもしれない。

荀首は邲の戦いにおいて、楚の連尹襄老(当時の夏姫の旦那)を射殺し、公子穀臣を捕らえる功を立てているので、その褒賞の意味もあるのかもしれない。あの惨敗の中で上軍を無傷で撤退させた士会・郤克に次ぐ働きと言っていいように思う。それもあって異例の昇進をしているのかも。

郤克の死後、その時の順位でいえば荀首が執政になるのが順当だし、荀首はそれに堪える人物だとは思うのですが、かつては欒書が自分の上官だったこと、自分がこの地位にあることがそもそも異例であること、あるいは自分の子(荀罃)が楚で虜囚となっていることから、執政になることを辞退し、欒書を執政に推したのでは?と思います。


■荀庚さん

荀庚についてはぶっちゃけよく分からない…とにかく影が薄い…。上軍の将(3位)だけど、戦があれば上軍を率いるのはたいがい上軍の佐の士燮だし…(成公2年の鞍の戦い、成公4年の許救援然り)。

荀庚は戦が嫌いなのかも。荀庚は邲の戦いの時、父の荀林父とともに中軍にいたのではと思う。晋の卿大夫は戦の際に息子を帯同することもけっこうある様子なので…邲の戦いの荀首・荀罃、同じく郤克・郤錡(文中の「駒伯」を郤錡とするならば成り立つ)、鄢陵の戦いの士燮・士匄…など。だから荀庚はあの敗戦を体感してたのかもしれない。戦を避けるのも、それが原因の一つではと思ったりする。

叔父の荀首が執政を辞退したのであれば、その甥である荀庚もそれに倣うと思われる。叔父を差し置いて自分が執政…はできないだろうと思う。

それに荀庚は執政になりたがらないだろうなーという気もする。なんせ、父の荀林父が執政になった直後に邲の戦いでボロ負けして死を乞うているのを目の当たりにしているし…。執政になることに恐怖すら感じているのでは?と思う。

あるいは、自分は執政の器ではないと思っていたのかもしれない。実際、『左伝』での出番はめっさ少ない…。『国語』でも唯一の発言が「自分はもう長生きできないかも…」的な弱気なものだったし…。めっさ弱気そうな印象がある。

そんなこんなで執政の座には就かなかったのかなーと思います。


■士燮さん

卿デビューしたときは、士燮が上軍の佐(4位)、欒書が下軍の将(5位)or佐(6位)だったと思われる。最初から士燮の方が上位。これは、士会の功もあっただろうし、欒書が譲ったのかもしれない。

邲の戦いにおいて、最もダメージが大きかったのが多分下軍。士会・郤克の上軍は士会の采配で無事撤退、荀林父・先縠の中軍はなかなかにボロ負けだったものの、中軍大夫の趙嬰斉が船を集めていたおかげで退路はあった。でも下軍は、上軍のような撤退もできず、中軍のような逃げる手段もなかった様子なので、酷い有様だったのではないかと思われる。下軍大夫の荀首も、我が子(荀罃)を楚に奪われてますし。欒書様はけっこう邲での敗戦を引きずってたんじゃないかなーと思います。

だから、あの士会の子(士燮)の上に、敗軍の将である自分は居られない…と思い、自分の上に士燮を置いたのかも、と思ったりもするのです。

士燮が欒書より上位でスタートしたのはそういう事情かな?と妄想してます。

なので、一度も欒書の下に立っていない士燮には、欒書に譲る大きな理由はあまりないのですが、卿になったこと自体で考えれば、欒書の方が先輩なんですよね…。

士燮が執政にならない一番の理由は、欒書というよりたぶん荀首・荀庚。士燮が卿になった時点で荀首・荀庚は士燮の上位にいたと思われるので、荀首・荀庚より先に執政になるのは憚られる。だから、荀首・荀庚が執政を辞退した時点で、士燮が執政になることもあり得ない。まして、父(士会)から「唯だニ三子に従い、敬せよ」と言われてますからね…士燮はそれを遵守するだろうと思います。


…そんなこんなで荀首・荀庚・士燮が執政を固辞したため、欒書が執政になったのかなーなんて考えてます。鞍の戦いでの勝利により、邲の敗戦の禊も済んだ形になりますし。


…今更ですが欒書様って、晋で唯一、晋が六軍十二卿を有していた時期に執政を務めていた人物なんですよね(晋が六軍を作った成公3年冬までに郤克が存命なら郤克も入るかも)…なんかすごくないっすか…。下に卿が11人もいて、それをうまく取りまとめてたんですよね…。その中に荀首・士燮・韓厥みたいな優秀な人たちがいて、欒書を支えていたのもあるかと思いますが、十分に優秀な人物だったんだろうなーと思います。


…だいぶ長くなってしまった; 最後に文字なし版の絵を上げておきます。



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