二宮の変と孫魯班

 *このあたりのことは、サイト(黄雀楼)の「三国志人物列伝」の陸遜伝詳細にちょっとまとめてあります



陸遜憤死の根っこをたどると、やっぱり孫魯班(孫権の娘)の影が見え隠れします…。


陸遜憤死の直接的原因は、楊竺がでっちあげた「陸遜に関する疑惑二十条」というのを孫権が信じて、詰問の使者を陸遜に送り続けたことと思われます。

楊竺は若くして名声があったのですが、陸遜は、楊竺は身を誤るだろうと言い、楊竺の兄に弟との絶縁まで勧めています。楊竺はこれを根にもって、機会あらば陸遜に復讐してやろうと思っていたのでは…。


その機会が、太子孫和と魯王孫覇との後継争い(=二宮の変)…。


謹厳な陸遜は当然太子の孫和を擁護する。ならば、孫覇と組んで孫和ともども陸遜を蹴落としてやろう…と楊竺は考え、孫覇の取り巻きになったのかもしれない。

さらに、孫覇に取り入って孫和・陸遜を蹴落とせる勝算は十分あると考えられる…というのは、孫覇の後ろには、孫和を嫌い、かつ孫権に対して発言力のある孫魯班と、孫魯班が嫁いだ先の全琮一族、さらには孫魯班の母方の歩氏(歩騭など)もついている。


こうした背景があり、楊竺、あるいは全寄(全琮の次男。やはり孫覇派)も含めて複数方面から陸遜の讒言が飛んできたのではないだろうか…。


…以上を見ると、陸遜憤死に大いに関わっているのは楊竺であり、この件に関しての孫魯班の影は希薄に見えますが、もうひとつ気になる点があって…。陸遜に諡(おくりな。生前功績のあった者に送られる)が与えられた時期です。


陸遜の死のわりとすぐ後に、孫権の陸遜に対する疑いは晴れているのに、陸遜が諡を贈られたのは、孫権の次の次の皇帝・孫休の時なんですよね…なぜこんなに時間がかかるのがちょっと不思議で。


が、調べていくと、孫権の次の皇帝・孫亮に対し、孫魯班は発言力を持っていた様子で。この時に陸遜に諡を贈れば、陸遜が擁護した孫和が正当=それに敵対した孫覇は悪=孫覇を擁護した孫魯班は…? ということになる。そのため、陸遜に諡を贈るのを孫魯班が渋った可能性があるのでは…。

で、孫亮とともに孫魯班の権力も失墜し、孫魯班が朝廷に発言力を持たなくなった孫休の代になり、陸遜に諡が贈られた…。

根拠の薄い憶測ですが、なんだかそうも考えられます。

(…あーーっでも、孫亮が皇帝になる前に孫覇一党は、孫和を陥れたという罪状でみんな殺されるか自殺させられてるから、孫覇一党が悪行を行ったってのは自明だったってことだよな…うーん。となると、陸遜に諡を与えることで孫魯班が不利になることはないのか…もやもや。。。)


…孫魯班は自分のきょうだいをも殺す女性ですからね…(孫和も孫魯班の兄弟。孫魯班は同母妹の朱公主(孫魯育)にも罪を着せて死なせている)。そんな先入観もあって、何かにつけて孫魯班が関わってるんじゃ、と思ってしまってよくないのですが、でもなんとなく説明がついてしまったりもするんですよね…むむ。


…二宮の変に関しては、孫魯班が大いに暗躍してますが、孫魯班につけいる隙を与えた(太子孫和と魯王孫覇の立場に明確な差をつけずに同等に扱っていた)孫権に根本的な責任があるように思います。


でも、この件は本当に複雑だなぁ……。

(2006.08.10)

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