長沙・零陵・桂陽の三郡についての徒然

孫堅~孫策の頃の呉に詳しくなかったので、『資治通鑑』を見て時系列の確認をしながらまとめたりしていました。

そこでちょっと引っかかったのが、タイトルの荊州三郡について。この三郡というと、215年に孫権の命令で呂蒙が劉備側から奪取した三郡、というイメージが強いんですが、この三郡セットを孫堅~孫策の代の記事もチラチラ見かけたのです。



まずは孫堅が長沙太守となった頃。『通鑑』だと初平元(190)年あたり。

孫堅は長沙の区星の乱を平定して長沙太守となった後、零陵・桂陽の賊も討伐したとあります。例の三郡で反乱が起きて、孫堅がそれを鎮圧したっちうことになります。


孫堅はその後、なんやかんやあって荊州刺史の王叡を討ち(この王叡、孝子として有名な晋の王祥の伯父らしい…!)、董卓討伐に向かいます。で、王叡に代わって荊州刺史になった劉表が、董卓討伐をスルーして荊州に乗り込んできて、孫堅が平定した三郡を含む荊州を我がものとしたらしい。孫堅からすれば、自分が董卓討伐に行っているスキに、自分が平定した三郡を劉表に取られたようなものなのかも。



もう一か所が、『通鑑』建安3(198)年の記事。

長沙郡の人である桓階(魏志巻22に伝がある)が、劉表と仲が悪い長沙太守・張羨に対して「長沙・零陵・桂陽の三郡の力で劉表を撃退し、曹操と結ぶのがよい」的なことを進言してます。ここでも例の三郡がセットで出てきます。この三郡には孫堅の遺徳があり、だからこそ劉表に抵抗するにはこの三郡が相応しいのかなあ?などと妄想してしまいます。


なお、桓階は孫堅によって孝廉に推挙されたことがあり、孫堅が劉表の部将・黄祖により戦死した時は、その遺骸を引き取っています。彼のように、この三郡には孫堅に恩義を感じている人物が少なからずいたかもしれない…。


215年に孫権が、荊州の中でも特に長沙・零陵・桂陽の三郡を奪取させたのは、このように孫家と縁の深い地だったからなのかなあ?などとも思ってしまいます。呂蒙が戦うまでもなく長沙・桂陽を降すことができたのも、もともと孫家にゆかりのある地だったから…なんて考えるのはナシでしょうかのう。


…などと、まあいろいろと妄想してしまいましたが(笑)、『資治通鑑』の184年~200年のあたりしか見てないので、後でこの考えが覆る可能性はあります。しかし、あの三郡が劉表が荊州を統治する前から孫堅と縁があったとは知らなかったなあ…。

(2019.02.17)


*   *   *


…なんとなく『読史方輿紀要』(巻2・前漢の荊州刺史部んとこ)を見てたら、例の三郡の関係が分かった…孫堅の時代から400年も前から、あの三郡はつながっていたんだ…。


長沙・零陵・桂陽は、秦が郡県制を布いた際、もともと一つの郡(長沙郡)だったらしい。漢の文帝の頃から分裂してしまったらしいが、それまで50年くらい?はひとつの郡だった様子。たぶん、これがあの三郡がセットになってる所以だと思われる。あの三郡の関係は後漢末期の400年も前から始まってたんや…いや、もしかするともっと前の楚の頃から始まってるのかもしれんけど…。ちうか、そんなことが分かってしまう『読史~』がまたすげい…。


三郡と孫家(呉)の関係はまだ分からんけど、三郡がセットになってる理由に見当がついてすっきりした…。


『読史~』は時々見るのですが、見ていると呂蒙殿の見識の高さが分かるのもまた素敵。特に濡須塢の建設がいかに卓見であったかが分かる。あのあたりは後々「無為」なんて地名になるようなんだが(水滸伝にも出てきてた地名ですな)、それは曹操が濡須を攻めても「為すこと無く」退くしかなかったことがその由来らしい。だから無双8の濡須口の戦いで呉が負けた感じになるのがごにょごにょ(愚痴になるので以下省略)。

(2019.02.20)


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