甘寧の曾孫(?)甘卓について

正史三国志には、甘寧には甘瓌(かんかい)という息子がいたことしか書かれてないのですが、『晋書』という歴史書の方には、甘寧の他の子孫の話があるようで…ほんとかよー? しかも、江南の人々の心を掴む有力者の一人だったらしい…。

晋書の成立が唐代とかなり遅いので、なんだかうさんくさい気もするんですが…。

(2006.04.14)


*   *   *


さて今日は、おとといの日記でぼやいてた甘寧の子孫(らしい)という甘卓という人物について調べてきました…。

この甘卓という人、三国時代の後の西晋の人物らしいので…『晋書』を探してみました。…ほ、ほんとにいた!!

以下、甘卓伝の抜粋。(中華書局『晋書』による)


「甘卓字季思、丹楊人、秦丞相茂之後也。曾祖寧、為呉将。祖述、仕呉為尚書。父昌、太子太傅。呉平、卓退居自守。(以下略)」


適当に訳:

甘卓、字は季思、丹楊(=丹陽)の人で、秦(←戦国時代の)の丞相・甘茂の後裔である。曾祖父の甘寧は、呉の将軍だった。祖父の甘述は、呉に仕えて尚書になった。父の甘昌は(呉の)太子太傅となった。呉が平定されると、甘卓は身を引いて隠居していた。(以下略)


ひいおじいちゃんが「甘寧」だって書いてあるマジでーーー!!! これ見て図書館で一人でドキドキしてる自分…(笑)。

てか、この「甘寧」はほんとに濡須口で曹操を驚かせたあの甘寧字興覇のことなんだろうか…と、冷静になって考えてみた。


結論。…この甘卓の曽祖父の「甘寧」は、あの甘寧とはやっぱり別人と考えるのが自然なような気がしてきた…。

根拠は、甘卓の原籍地…。甘卓は丹楊の人、と書いてあるんですが、あの甘寧字興覇の方は巴郡臨江の人…丹楊と臨江、直線距離で1000キロ程度離れてて場所が全然違う…。


しかも、正史三国志の甘寧伝の記述を追いかけてみるに、甘寧が丹楊に行ったこともないみたいだし…。丹楊にいちばん近いところで濡須口までしか…それでも直線距離で70キロくらい離れてます。

もし甘卓が甘寧の子孫ならば、甘卓は甘寧と同様「巴郡臨江の人」と書かれるべきだと思う…中国では、生まれた土地ではなく先祖の故郷(原籍地)を記述するのが普通のような気がするし…(甘寧自身も、南陽で生まれたけれど先祖が巴郡に住んでたから「巴郡臨江の人」って書かれてるみたいだし…甘寧伝の注(呉書)による)。


甘卓は甘寧の子孫、というのは後世の牽強付会の可能性があると個人的には思います…晋書がどんな書物に依拠して書かれたかにもよりますが…そこのところは無学ゆえ分かりません。

でもやっぱり、正史三国志にも、宋(←晋書が書かれた唐より前の王朝)の裴松之による三国志注にも「甘寧の子孫に甘述/甘昌/甘卓という人物がいる」と書かれてないから、やはり胡散な気がします…。他にも胡散だと思われる点はあるし…。

裴松之が見なかった史書を唐代になって見つけたとでもいうのだろうか…。うーん…。

(2006.04.16)


*   *   *


以前私は、甘寧の原籍地が「巴郡臨江」、甘卓の原籍地が「丹陽」と原籍地が違うから、この二人は同族ではないと思う、と言って、「甘卓の先祖は甘寧興覇」説を否定気味にとらえてました。

が…

先日借りてきた『六朝江南の豪族社会』(大川富士夫)をぺらぺら見ていたら、こんな一節が…


「晋代になると、呉代に文人士大夫として著名な北来の士人が南人となって丹陽に土着している。広陵の張闓(ちょうがい)、沛の薛兼、臨江の甘卓などがそれである。」云々。


って…

甘卓って、もともとは臨江…つまりは甘寧と同じ場所の出身だったってことですか…。ってことは、甘卓は、やはり甘寧の子孫と見て間違いないのか…!?

この甘卓って人、呉の士大夫の間ではけっこう名も知れてた人だったみたいなので、まさかあの甘寧の子孫がそんな士大夫じみてるはずがあるかい!と思い込んでたのですが…そ、そうか、そうなのか(何が)。

(2006.11.17)

コメント

このブログの人気の投稿

『中国の城郭都市』

らくがきが楽しい

『中国文明論集』②

『中国文明論集』①

更新しますた