秦と魏氏についての妄想

※タイトル通り妄想です

が出てくると、晋側では魏氏がよく顔を出しますよね。ちゃんと調べてないので明言はできませんが、領地が代々秦のお隣なのでしょうね。


左伝宣公15年(BC594)、秦が晋に攻め込んできた際、これを迎撃して杜回という勇士を捕らえたのは魏顆。この話は『蒙求』にもあるためか(「魏顆結草」)、けっこう有名な気がする…水滸でも見かけた気がするなぁ…。

成公13年(BC578)、晋が秦を破った麻隧の戦いのときも、秦との絶交をしたのが魏相(呂相)。絶交の文言がものすごく長い。

時代は遡って、文公13年(BC614)、秦に亡命している士会を誘拐(にしか見えない…笑)するため、晋から逃げてきた体を装って士会を連れ戻したのは、これまた魏氏の魏寿余なのですよね…。魏寿余は、自分の邑を秦に献上する、と言ってきてるので、自分の領地が(黄河を挟んで)秦に隣接してるのでしょうね。


…とりあえず、自分の目についたのはそんなところです。

で、これはちょっとした前置きで、最後の魏寿余の話をちょっと引っ張りたいのです…。


魏寿余が自分の土地を秦に引き渡す段になって、「もともと東(晋)の人で、こっちの役人と話のできる奴と先に行きたい」と言うと、秦の康公が士会を指名するのです。康公は「なんで晋の人じゃないといけないの?」と尋ねるどころか、「晋の人間は信用できませんよ」と士会に忠告された後ですら、士会を行かせるのですよね…(そして士会は拉致同然に晋に戻される…;)。つまり康公さまは、魏氏の役人と話をするには晋人が適切だ、と思っている節があるのですよね…。では、何故晋人が適切なのか。その要因の一つとして考えられるのが、言葉の問題ではあるまいか。つまり方言。細かなやりとりを正確にする為には、秦人では不安があったのではあるまいか…と思うのです。

さきほど挙げた魏相の絶交にも、それがあてはまると思うのです。当時魏相は卿でもないのに、国と国との交わりを断つという大役を任されているのは、秦と隣接するが故に秦の言語にも通じていて、晋の意図をより正確に伝達できる人物だったからではないかと…。


…これを立証することは、私程度の能力ではとても無理ですので(汗)、あくまで根拠の薄い推測ということになりますが、メモとして書きとめておきます。漢の揚雄に『方言』という著作があって、その名の通り各地の方言を記してあるらしく、それを参考にすれば晋あたりと秦あたりにどの程度の言葉のへだたりがあるのか推測がつくかもしれませんが、そんな文献を読み解く能力もないしそもそも『方言』は中を見たこともないので、うちではこれ以上掘り進められません…あしからず(>_<)。


で、とりあえず「秦と晋では言葉がちょっと違うっぽい」ということを、士燮が朝廷で秦の使者の謎を三つ解いて士会に怒られてシバかれた話に繋ぎたいのです。

(2010.04.29)

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