趙盾さんについてつらつら(1)

 『左伝』中の趙盾の記事を拾ってみて、いろいろ考えたり妄想したりしました。


●出生や生い立ちとか

魯僖公5年(BC655)、重耳(当時17歳)が驪姫の乱のため狄に逃げ込んだ後、その狄がショウ咎如(赤狄の別属。後々郤克が滅ぼすやつ)を攻めた時に叔隗・季隗の二人の娘を得て重耳に献上。

下の季隗を重耳が娶って伯チュウ・叔劉が生まれ、上の叔隗を趙衰が娶って趙盾が生まれる。なので、趙盾は早くて僖公6年くらいには生まれたのかな…という感じですかね。そして赤狄の血を引いてる

魯僖公16年(BC644)に重耳一行が狄を去る際、趙衰は重耳に従い、叔隗と趙盾は狄の地に残される。なので、趙盾が10歳前後の時に、狄の地に置き去りにされた…ちうことか。(だからうちの趙盾は、父の愛をよく知らんので、父として子をどう愛していいのか分かってない人になってる。)

魯僖公24年(BC636)に重耳が晋で即位すると、趙姫(=君姫。重耳の娘で趙衰に嫁いだ)が趙衰に強いて、叔隗と趙盾を晋に呼び寄せてくれる。それまで趙盾は10代の多感な時期を狄の地で過ごしてたと思うんですが、どんなことを考えてどんな生活をしてたんだろうな…父に捨てられたんだ、という思いもあったかもしれん。

でも、趙姫が趙盾の才を買ってたあたりを考えると、かなり努力して才を磨いてたんだろうなーということは想像に難くない。狄の地で勉強って相当大変だと思うけど…古典も古典に精通した人もそうそうないだろうし。(みやぎたにさんの孟夏~では、叔隗が趙衰の薫陶を受けて、その学問を趙盾に引き継いだ感じにしてらっさったが)。

しかし、趙姫が「晋に戻っておいで!」と言ってくれても、趙盾は戻りたかったのかな…父(趙衰)は母とは違う女性(=趙姫)を娶り、あまつさえ趙姫は三人の男子(趙同・趙括・趙嬰斉)をもうけていたんだから、晋に戻ったところで、父が自分を顧みてくれるとも思えないし、赤狄の娘を母に持つ自分は、重耳の娘を母に持つ異母弟三人の下風に立つことは目に見えてるし…。

まあ、そこのところは全て趙姫がうまく差配して、趙衰の嫡子に趙盾を立て、自ら叔隗の下に立ってくれたので、解決はしてるのかもですが。むしろ趙姫は自分や自分の子を下げてまでどうしてここまでしてくれたのか分からん…。できた人すぎる。趙盾としては、父以上にこの継母に対して感謝するところが多かったんではなかろうか…。


●いきなり執政になった件

魯文公5年(BC622)、晋の先且居・趙衰・欒枝・胥臣の名臣4人が一気に退場…。

翌文公6年(BC621)春、夷の蒐にて、新上軍・新下軍の二軍を廃して五軍→三軍に戻し、狐射姑(狐偃の子)が中軍の将、趙盾が中軍の佐となる。いきなり中軍の佐てすごいな…まだ30代と思われるのに。

しかし、大夫の陽処父が戻ると、董で改めて蒐を行い、趙盾を中軍の将、狐射姑を中軍の佐と、二人の順位を入れ替えさせてしまう。

陽処父は趙氏に肩入れしている人物で、『説苑』によれば、陽処父が文公(重耳)に仕官しようとして狐偃を頼ったが三年経っても音沙汰なし、趙衰を頼ったら三日で叶った…ということがあったらしい(真偽は謎だが…)。だから、恩人である趙衰の子を上げ、狐偃の子を下げたってことらしい。何故に陽処父にそんな権限があるのかは謎なんですが;

ただ、趙盾が中軍の将=執政になった直後、すぐさま法典を整備してるのは普通にすごい…。

…しかし、既に功を立てている(魯僖公33年)郤缺がこの時でもまだ六卿にも入ってこないあたり、晋公室における郤芮のトラウマって大きいのかな; 実績十分なので取り立てるべき人だと思うんですが…。


●霊公擁立までのごたごた

襄公没後(文公6年)、趙盾は秦にいる公子雍を擁立しようと考え、公子楽を立てて対抗してきた狐射姑(賈季)と対立→公子楽を殺害、狐鞫居(陽処父を暗殺した人)を殺害、狐射姑を狄に亡命させる

…強硬手段取りまくって怖いんですが…。そら、狄に亡命した狐射姑が「孟夏の太陽」(めっちゃ苛烈)と評する訳ですわ…。(ちなみに狐射姑は鄷舒と話してるので、鄷舒がいる赤狄潞氏のとこに逃げ込んだ感じですかね。)

苛烈なわりに、狐射姑の妻子を丁寧に狄に送り届けるという心遣い。気遣いができる苛烈な宰相…(謎)。

で、こんだけ強硬手段を駆使して公子雍を迎えようとして、先蔑と士会を秦に向かわせたのに、穆嬴(襄公の妃で霊公の生母)の泣き落としに負けて翻意。なんか、情に脆いところがあるんだよな…(他の大夫も穆嬴にはだいぶ参ってたようだけど)。この話を狐射姑が聞いたら…あんだけ公子雍を推してたのに捨てるんかい!って突っ込んでいいと思う…。

で、公子雍ではなく襄公の子の夷皐=霊公を擁立、令狐の戦い(魯文公7年)で公子雍を護衛してきた秦軍を「我らがお前たちを迎えれば客だが、迎えないから敵!」と言ってシバく(ヒドイ)。先蔑と士会はやむなく秦に亡命。で、士会を擁する秦にさんざん邑を取られることになるのである…。


●粛清祭り(…)

霊公擁立後も晋国内はごたごたしまくっている…。

①魯文公9年正月、先克が暗殺される

夷の蒐(文6。狐射姑が中軍の将、趙盾が中軍の佐になったやつ)では、襄公は士縠・梁益耳に中軍を率いさせ、箕鄭父・先都を卿にしようと考えていたらしいのだが、先克が「狐偃や趙衰の功を忘れちゃいけないっす!」と言って狐射姑・趙盾を中軍の将佐にしたので、彼らは先克を恨む。ついでに、先克に土地を取られた蒯得も先克を恨む。先克許すまじの5人が、先克を暗殺したと思われる。

②同月、晋人が先都・梁益耳を誅殺

先克は令狐の戦いでは中軍の佐(人臣第二位)。彼を恣に殺したとして(と思われる)、先都(下軍の佐)、梁益耳が「晋人」によって誅殺される。

この「晋人」が誰か分からないが…六卿の一人である先都を誅殺できるのは、もう執政の趙盾くらいしかおらんのでは…幼君の霊公はそこまで決断できないんだから…。

③3月、晋人が箕鄭父・士縠・蒯得を誅殺

箕鄭父は上軍の将、士縠は司空という大物。彼らを誅殺できる「晋人」もやはり趙盾くらいしかいないのでは…。

中軍の佐(先克)が暗殺されるというのは、執政たる趙盾が重んじられていないということにもなる。また、士縠・梁益耳・箕鄭父・先都は自分たちが卿になりたかったのにその座を趙盾(と狐射姑)に奪われたのだから、趙盾に恨みを向けてもおかしくない。危険を感じた趙盾が、やられる前にやれ!で、先克が暗殺されたのを口実に大粛清を行ったんではないかなーと思います。おそろしい人やでえ…。ちょーとんさんは、邪魔者は「消す」以外の方法を持ってないのか?と思ってしまう;

*ここまで趙盾さんがやった粛清事件まとめ*

暗殺・誅殺=公子楽・狐鞫居・士縠・梁益耳・箕鄭父・先都・蒯得

亡命させる=狐射姑・先蔑・士会

文6~文9の約三年間でこれは…やばすぎでは…???(汗) 狐氏と先氏と士氏はほぼ全滅じゃないっすか…。。。令狐の戦い(文7)の時の六卿のうち、残ってるのが趙盾と荀林父だけ; で、大量にできた空位に、実績のある郤缺とか、趙盾の一味(…)の臾駢とかが入ったんだろうな…。


…まだまだあるんですが(エッ)既に長いので一旦ここで切りまする。

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