『中国文明論集』①

 宮崎市定 『中国文明論集』 岩波文庫


14本の論文を一冊にしたもの。本文の内容については、巻末の礪波先生の解説に端的にまとまってます…(うまくまとめられないので逃げる<コラ)。

以下、個人的に特に面白いなーと思った部分を、また箇条書きでいろいろ書いておきます。近年の新しい研究の成果によって、既に古い情報になっているものもあるかもなのですが、そこのところは自分には判断できかねますすみません(汗)。あと単に自分が読み間違ってる箇所があったらすみません(常習犯)。



【宋代における石炭と鉄】

・内藤湖南によれば宋代は中国近代文化が確立した時代で、以降清末まで中国の文化は大きく変わっていない。とすると、宋代は中国史上で非常に重要な時代だといえる。

・古代~隋唐の頃は、先進国である西アジアから中国へと、(絹や紙等の一部の例外はあるが)西から東へと文化が流れ込んでいた。それが宋元の頃からその流れが東→西へと逆になる様子が濃厚になる。

西アジア衰退の原因は、その先進性故に自然を収奪してきたことで、10世紀頃には文化・社会に行き詰まりが生じる。特に森林資源の枯渇問題は重大で、住民は燃料の、政府は船材の入手に困難をきたす。燃料の不足は生産活動、特に金属の生産を大きく阻害する。一方この時代の中国は、西アジアを停滞させた燃料問題を巧みに解決する術を持っていた。それは、唐末から宋代にかけて普及した石炭の利用という燃料革命である。これにより夥しい物量の生産が可能となり、その豊富な物量を土台にして宋代の文化が築かれていく。

・中国で石炭の存在が知られるようになったのは漢代からといわれる。しかし当時は華北でも森林があったので、あえて石炭を燃料として使う必要がなかった。山林資源の枯渇に従い、唐末あたりから石炭の利用が普及し、これには練炭の発明の影響が大きい(ex.康駢『劇談録』)。

北宋の都・開封では石炭の使用は一般化しており、荘綽『鶏肋編』には「汴都の数百万家は皆石炭を使い、薪を使う家はない」とすらある。宋代の石炭の利用は炊事・暖房といった家庭での用途にとどまらず、冶金・鋳鉄・製陶などにも用いられ、特に鉄の精錬に用いられて冶鉄の能率化・大量生産を実現した意義は大きい。鉄は官用の武器や民間の農器・器具に用いられた。

・宋代の銅生産には「浸銅法」という手法が採用されていたが、これは多くの鉄を消費するものだった。宋は銅銭を法定貨幣としており、貨幣(銅銭)の生産のためにも鉄を大量消費していた(128万余斤の銅を得るために289万余斤の鉄がいるらしい…消費した鉄の目方の半分以下の銅しか得られないのか汗)。

・北方では石炭の使用が一般的であったが、全国的にそうであった訳ではない。南宋になるが、陸游『老学庵筆記』によれば、北方は石炭、南方は木炭が多く、蜀のあたりは竹炭があった、との記述がある。


【毘沙門天信仰の東漸について】

・『水滸伝』にはたびたび「天王堂」が登場する。天王堂は、廂軍(各州に属する雑役の人夫により編成された軍。牢城送りになった罪人たちによって編成される「配軍」「賊配軍」もこれに含まれるらしい)の軍営の守護神の祠で、天王すなわち毘沙門天が祀られている。これについては、趙翼『陔余叢考』巻34に指摘がある。

晁蓋は元来、宋江三十六人の一人にすぎず、周密『癸辛雑識続集』に見える龔聖与「宋江三十六賛」では、三十六人の名簿の34番目に「鉄天王晁蓋」が見え、『宣和遺事』では三十六人の末席に「鉄天王晁蓋」がある(※なお『宣和遺事』においては、宋江+36人の頭領=宋江一党は37人)。その晁蓋が宋江一党の守護神となったのは、『水滸伝』が士大夫の愛玩書に変化していく過程で、市井で信仰を集めるも由来がはっきりしない九天玄女よりも、毘沙門天を示す渾名を持つ晁蓋が相応しい…との認識があったためではなかろうか。それだけ、『水滸伝』が進化する過程にあった宋元明代において、毘沙門天信仰が根強かったことが推察される

宋代の毘沙門信仰について。軍営に天王堂があったことは、宋の『開慶四明続志』『咸淳臨安志』『談叢』などで知れる。軍営のみならず、『続資治通鑑長編』(注所引 鮮于綽『伝言記』)等によれば諸官府で祀られ、『僧史略』等によれば城壁・城門の守護神として城楼上に安置され、『淳煕三山志』等によれば毘沙門天が仏法の守護神であったために当然各仏寺で祀られ、また、『咸淳臨安志』等によれば民衆化した土俗神としても民間で信仰されていたことが分かる。

・毘沙門天は元来四天王の一尊で、北門鎮護の善神だった。四天王信仰には『金光明経』の影響が大きく、これは五胡南北朝時代に訳出されている。そこから特に毘沙門天が独立するようになっていき、北宋頃には天王といえば毘沙門天を指すに至る。

毘沙門天の独立は、唐の玄宗時代前後と思われる。玄宗時代の天宝元載、安西城が包囲された際に毘沙門天が城上に現れて敵兵を退けたという伝説も残っている(『北方毘沙門天王随軍護法儀軌』奥書。ただし『儀軌』は偽経)。五代に入ると、後唐の李克用が毘沙門天と会談したという話も出てくる(『北夢瑣言』巻17)。宋代における毘沙門天信仰の流行には、こういった唐五代以来の風潮があったと思われる。

・ただし、毘沙門天の独立は中国で自然に生じた現象ではなく、西域は于闐から輸入したものと考えられる。于闐では毘沙門天信仰が非常に盛んであり、中国は唐以降、絶えずその影響を蒙っていた。于闐国の守護神は毘沙門天であり、国王の姓Vijayaは、唐では尉遅と訳される。玄奘『大唐西域記』巻12によれば、于闐国の国王は毘沙門天の子孫であると称していたらしい。安禄山の乱の際、于闐王尉遅勝が五千人を率いて唐の救援に駆けつけ、そのまま唐にとどまったことが、毘沙門天の功徳を中国に広める機縁となったのではないかと思われる。

于闐人はイラン種であり、その宗教もイランの拝火教=祆教であったことは間違いない。唐代、于闐では仏教と祆教が並び行われており、仏教に摂取された拝火教の神もあるだろう。そうやって仏教に摂取されて「毘沙門天」とされた拝火教の神こそ、拝火教諸神の中でも有力な神・ミトラ(Mithra)神ではないか…と大胆な予測をしてみたい。毘沙門が漢語に意訳される際は「多聞」となるが、それもMithraが千の耳を有する神である(アヴェスタ経ミヒル・ヤシトに拠る)ことから説明が可能となる。毘沙門天以外の四天王もミトラの分身であるとすれば、四天王が多く光背に火焔を有するのも、拝火教の神であった名残ではないだろうか。

・Mithraはペルシャ拝火教において日神であり勝利の神でもあり、Mithraの祭日Mihirganでは盛大な祭礼が行われ市場には群衆が集まった。こうして戦勝の神は商業の神に変化したようである。中国などでも同様で、毘沙門天は元来勝利の神であったが、その裏に財神としての性質も有していた。勝利→褒賞の流れから考えればその両面性も理解される。唐以後、四天王から独立した毘沙門天は、いよいよ財神としての性質を濃厚にしていく(『毘沙門天王経』など)。宋代毘沙門信仰が盛んだったのは、軍神として以上に福神として信仰を集めていたためだろう。

元以降、毘沙門信仰は衰退の一途をたどった。宋にあった天王堂が廃されたり、土地祠や関王廟に置き換えられたりしたことが記録より窺える。特に関帝信仰の民間への進出が、毘沙門天にとって決定的な打撃であったことが窺われ、宋代以降いつ頃からか、城門付近に関帝廟を置いて城を守るようになった。関帝は、唐宋頃には一般には祀られていなかったが、元代にやや盛んとなり、明以降には国粋復古主義や『三国志演義』の隆盛によりいよいよ鼓吹された。また、毘沙門天も関帝も軍神であることから、毘沙門天が関帝に置き換わったのではないかと推察される(この二者の間に「玄武神」が介在することも考えられる)。関帝が財神としても信仰されるのは、毘沙門天に代わってその性質を受け継いだためではなかろうか。

・毘沙門天が日本に輸入された際は四天王の一体としてだったが、後に中国同様独立してくる。

・京都付近で最も有力な毘沙門天の霊地は鞍馬と信貴山だが、両者の系統は異なるようである。鞍馬の毘沙門天は、中国の仏寺付属か、土俗神たる天王堂の系統を引くものと推察される。鞍馬の天狗は、毘沙門天に従う「天供(てんぐ)」ではないかと思われる。敦煌で発見された渡海天王像を見るに、毘沙門天の前後に羅刹形の随従がいるが、その中にいる蝙蝠のような羽をつけて飛行する金翅鳥は、鼻が尖っていて天狗の姿に近い。信貴山については、楠木正成もしくは松永久秀が大和志芸の城を営む際、既にあった毘沙門堂を城郭守護のために渡櫓の上に安置したという話が伝わる。すると、信貴山の毘沙門天は、城郭守護のために置かれていた系統のものだといえる。


…もう少しメモしたいことがありますが長くなりすぎるので②に続きます…。

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