『春秋名臣列伝』メモ・その1

 宮城谷さんの『春秋名臣列伝』の自分の備忘録的メモ。ほんと自分用で…す……自分がだいたい知ってることは書いてないし、知らないことは無駄にメモってます; そして間違ってたらすみません;;




■石サク■

衛の臣。西周時代、衛の靖伯から石氏は出た。荘公が、嫡子たる公子完ではなく、庶子の公氏州吁を寵愛したので、石サクは、嫡子を立てるよう諫めた。荘公の死後、完が立ち(=桓公)、態度の大きい州吁を朝廷から追い出した。州吁は鄭に逃げ込み、鄭の荘公(寤生)の弟・京城大叔(段)を頼った。が、(具体的な時期は不明だが)州吁は衛に戻り、桓公16年に弑逆を行った。石サクは陳に向い、策を用いて州吁と、州吁に昵懇だったわが子の石厚を陳の都に誘い込んで捕え、処刑した。これが「大義親を滅す」と称される。


▼衛の武公

名は和。荘公の父。「切磋琢磨」(『詩経』衛風・淇奥)する様を讃えられる。

▼荘姜

荘公の正室。その美しさは詩経の「碩人」に詠われる。

▼公子完

桓公。荘公の子。荘公の側室の厲ギ[女+為](の妹の戴ギ)が生み、正室の荘姜が育てた。

*姫姓の国の一覧あり




■祭足■

鄭の臣。左伝によると、祭の人とある(これについて著者の推理がある)。荘公(寤生)の頃から執政で、荘公が弟の京城大叔(段)に大きな邑(京。のちのケイ陽)を与えているのを危険視して諫めた。結局段は乱を起こした(が、未然に動きがばれて失敗した)。また、宋に捕らえられた昭公を解放させた。


▼鄭の荘公

名は寤生。母の武姜に憎まれて育つ。母と弟(段)に殺害を計画されるが、未然に防いだ。その後、それに加担した母を幽閉したが、会いたいという思いが強くなり、潁孝叔という人物の進言で、隧道の中で母に会った。『春秋』の冒頭、「夏五月、鄭伯、段にエン[焉+邑:邑はおおざとへんということで…;]に克つ」とは段との戦いを言う。

▼武姜

武公の后。荘公・京城大叔の母。申の公女。

▼鄭の昭公

名は忽。荘公の子。母は鄧曼。荘公の後位に就くが、宋の差し金で一時退位を余儀なくされ、衛に亡命。のち、厲公が亡命すると祭足に招かれ復位した。

▼鄭の厲公

名は突。母は宋の人。宋人の手引きで、昭公の代わりに立つ。祭足を嫌い、祭足の女婿(雍糾)を使って暗殺させようとするが失敗し、蔡に亡命。のち鄭に戻った様子。

*姜姓の国の一覧あり




■管仲■

言わずと知れた斉の名宰相。名は夷吾。「管鮑の交わり」の故事や、諸葛亮が自らを比したことでも有名。斉の襄公(諸児)が従兄弟の無知に弑され、その無知も殺されると、襄公の弟である小白と公子糾とがその後釜を争った。結局、鮑叔が奉戴する小白が勝って桓公として立ち(ここの経緯がドラマチックよね)、公子糾は殺され、糾を補佐していた管仲は斉に引き渡された。鮑叔は管仲を重用するよう桓公に進言、以後管仲はその手腕を遺憾なく発揮し、桓公を覇者たらしめた。


▼鮑叔

名は牙。姓はジ[女+似]とのこと。小白を守ってキョ[艸+呂]に行き、無知が殺されると公子糾より早く斉に戻って小白を立て、魯軍とともに来た糾を破り、魯に交渉して管仲を斉に来させた。

▼魯の荘公

名は同。魯の桓公と斉の襄公の妹・文姜の間の子。公子糾を保護する。

▼召忽

管仲とともに公子糾を奉戴する。公子糾が最終的に魯で殺されると、それに殉じた。

*ジ[女+似]姓から出た氏族一覧・斉の桓公(小白)周辺の系図あり




■士イ■

晋の臣。隰叔(しゅうしゅく)の子。献公に仕える。献公が、有力者(献公の先祖の桓叔や荘伯から出た血筋)の台頭に頭を悩ませていると、計略を設けて彼らを弱体化させ、献公の力を強めた。また、献公の後継が曖昧になると、献公の嫡子の申生に亡命を勧めた。


▼隰叔

杜の杜伯の子。杜伯が理由なく周の宣王に討たれると、晋に亡命して文侯に仕え、士(司法官)となった。

▼晋の献公

名は詭諸。武公の子。子に申生・重耳(文公)・夷吾(恵公)・奚斉。

*晋の穆侯以降、重耳までの系図あり




■百里奚■

秦の臣。生まれた場所や経歴については諸説あり、宮城谷さんがそれらを突き合わせて百里奚の経歴について考察なさってます(その一つの結論が、「買われた宰相」(『侠骨記』所収の作品)かと)。百里奚が秦の穆公に仕えると、秦の周辺の異民族たちがその徳を慕って秦に従ったという。五枚の羊の皮で秦に買われたという逸話があり、それにちなんで五コ[羊+殳]大夫とも呼ばれる。




■臧孫達■

魯の臣。臧孫達は魯の孝公の孫、僖伯コウ[弓+區]の子。隠公(名は息姑)や桓公(名は允)の従弟、恵公の甥。恵公の頃から重んぜられ、桓公の子・荘公の代まで魯に仕えた。宋の華父督が自らの弑逆を正当化するため、近隣各国に鼎を贈り、桓公はこれを大廟に据えた。臧孫達は、不義の象徴を大廟に置くべきではないと諫めた、結局桓公は聞き入れなかったが、これを聞いた周の内史は、臧孫氏は栄えるであろうと言った。


▼周の宣王

魯の後継ぎ問題に容喙し、魯を混乱に陥れる。この事件以降、宣王は諸侯の信頼を失った。

▼魯の桓公

名は允。隠公の弟。斉の襄公の妹・文姜を娶る。襄公が文姜と姦淫したため、桓公は怒るが、却って襄公の子(彭生)に絞め殺された。子は荘公(同)・慶父・叔牙・季友。慶父は孟孫(仲孫)氏、叔牙は叔孫氏、季友は季孫氏の祖。のち孟孫(仲孫)氏・叔孫氏・季孫氏は「三桓」と称され、君主を凌ぐ力を持つようになる。

*魯の献公~隠公、宋の哀公~殤公の系図あり




■臧孫辰■

臧孫達の孫。彼もまた祖父同様、魯で長きにわたって重きをなし、魯ではその後も名相として名を残す(が、後世の孔子の評価は辛口)。外交センスに長じていた。

*魯の桓公の子孫の系図あり




■狐偃■

晋の臣。重耳の舅にあたる。献公(詭諸)の死後、晋の国内が乱れると、公子の一人・重耳を支えて国外に逃亡した。冷静に時勢を判断し、焦る重耳に対して時に強硬に待つことを求めた。19年にもわたる逃亡生活で重耳とその家臣団を導き、重耳=晋の文公を覇者たらしめた。以後晋は長く天下の主導権を握る。

*狐氏の系図あり




■郤缺■

晋の臣。父は文公(重耳)暗殺を企てた郤ゼイ[艸+内]。父の反乱が失敗に終わると、それに加わった郤缺は逃走し、山奥で妻とともにひっそりと暮らしていた。そこを文公の臣・胥臣に見出され、政権に復帰する。諸侯の信頼を失いかけている趙盾に助言し、また兵法の才にすぐれる士会を秦から取り戻した。


▼郤ゼイ

武辺で献公に愛された郤豹の子。献公の死後、晋の国内が乱れると、夷吾(のちの恵公)に従って秦に逃げた。のち、秦の後押しで夷吾=恵公が即位するとその腹心となり、恵公の死後はその子(懐公)を立てた。重耳が晋に戻ると、屈して重耳に従ったが、逃がした懐公が殺されたと聞いて、ともに恵公に仕えた呂甥と兵を挙げて重耳を討とうとした。が、事前に計画が発覚して失敗、郤ゼイは死に、郤缺は命からがら逃げ延びた。

▼胥臣

臼季ともいう。野に下っていた郤缺を見出して文公に推挙する。その父(郤ゼイ)のために恐ろしい目にあった文公は郤缺の登用をためらうが、胥臣が懇ろに推挙したため、文公は郤缺を下軍の大夫に任命した。





■孫叔敖■

楚の臣。氏はイ[艸+為]、名は艾猟。孫叔敖とは通称とのこと。父は、楚の名軍略家・イ賈。父が闘椒(子越)に攻められて殺されると、楚の荘王から令尹に任ぜられる。内政にその力を発揮した。ヒツ[必+邑]の戦いの論功行賞では、荘王に向って、荒涼とした地を所望した。楚では二代で領地を没収されるのが通例だが、孫叔敖が得たこの地は、その後九代まで所有を許された。


▼イ賈

楚の荘王の愛臣。兵法に長ける。晋(趙盾)が連合軍を組織して、楚の盟下にある鄭に来た際、イ賈は地の利を生かして北林で晋軍を叩き、これを撤退させた。また、若敖(闘)氏の勢力を荘王が憂えると、イ賈はその意向を汲んで令尹の闘般(子揚)の罪状を見つけ出して誅殺した。が、闘般のいとこ・闘椒(子越)がこれに激怒し、イ賈を捕らえて殺した。

▼闘椒

若敖氏。イ賈を殺して荘王に反旗を翻すものの、皐滸という地で返り討ちにされて一族は滅んだ。彼の子は晋に逃げ、のちエン[焉+邑]陵の戦いで楚を破ることになる。その子というのが苗賁皇。

*楚の若敖~荘王あたりの系図あり



…や、やっと10人…(バタリ)。

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