小説十八史略メモ【春秋2】

 陳舜臣 『小説十八史略』(陳舜臣全集) 講談社 1986



春秋時代のメモが長くなりすぎたので、春秋時代の呉越関連の人物をこちらに分けてメモします…。



【春秋・呉越関係人物】

■伍子胥<呉>

もとは楚の人。父の伍奢と兄の伍尚が楚の平王に殺される。平王の子の太子建、そして建の遺児・勝とともに各地を放浪した末に、呉の公子光(後の呉王闔閭:コウリョ)に仕える。後、呉軍を率いて楚の都・郢(えい)を攻略し、既に死んでいた楚の平王の死体を掘り出して鞭打ち、積年の恨みを晴らした。闔閭の死後に即位した夫差と馬が合わず、自殺を命じられた。「わが死体の目をくり抜いて呉の都城の東門に置け。越が呉を滅ぼすのを見てやるわ!」と言って自殺した。伍子胥の遺体は皮袋に入れられて長江に捨てられた。

■申包胥<楚>

伍子胥の親友。伍子胥が楚を出るとき、「俺は楚をひっくり返してやる」と言うと、申包胥は「ならば俺は楚を再興させよう」と言った。後、伍子胥・孫武らの呉軍が楚の首都・郢を陥とした。申包胥は秦に援軍を請い、拒否されても7日間飲まず食わずで秦の宮殿前で哭き続けた。ついに折れた秦の哀公は楚に兵を与え、楚は呉を撃退した。

■楚の平王<楚>

息子の建の嫁にしようと思っていた秦の王女が好みの美人だったので、家臣の費無忌にそそのかされて自分でもらってしまう。建もこれを知っていたので、平王はその逆襲を恐れ、建のお守役であった伍奢(伍子胥の父)と建を殺そうとした。建は亡命し、伍奢は殺害された。

■費無忌<楚>

もと、太子建の少傅(お守役の副担当)。太子建に取り入るよりは平王に付いた方がいい身分になれる、と考え、秦の王女を平王に薦めることでご機嫌を取った。加えて、太子建一派が権力を握れぬように…と、建と、その太傅だった伍奢を讒言した。平王の死後誅殺される。

■太子建<楚>

楚の平王の子。父に疎まれ、宋に亡命。その後は伍子胥とともに晋・鄭を渡り歩く。晋の頃公に「鄭に入り内応してくれぬか」とそそのかされ、建は承諾するが、事を起こす前に露見した。鄭の宰相・公孫僑(子産)が鄭の定公に建の殺害を勧めた。建の死後、伍子胥は建の子・勝を連れて鄭を出た。

■鄭の定公<鄭>

楚から逃げてきた太子建を手厚く保護する。後、建が恩義を裏切って晋に応じようとしたので、宰相の子産の勧めで建を殺した。

■季札<呉>

呉の寿夢(じゅぼう)の末子で、国内外で評判が高い人物。父の寿夢は季札を王にしたがったが、季札はあくまで辞退した。

■呉王僚<呉>

寿夢の三男である余昧の子。余昧が王だった頃、僚が補佐をしていたので、余昧の死後、そのまま王位も継いだ。嫡流である公子光(闔閭)はこれに不満を持っていた。公子光の宴席で、刺客の専諸に殺される。

■専諸

胆力・武芸に優れる。これを太子光に買われ、呉王僚暗殺の任を受ける。専諸は魚の姿焼きの中に匕首を忍ばせ、これを僚に差し出すと見せかけて匕首を抜き、僚を殺害した。無論、専諸も僚の衛兵に殺された。

■公子光(呉王闔閭)<呉>

寿夢の長男である諸樊の子。王位を継ぐはずの嫡流であるのに、傍流の僚に仕えているのが不満だった。伍子胥を参謀に得、専諸に僚を討たせて、呉王闔閭として立つ。大国楚を破るなど、呉の威信を高めた。越との戦いで、越の名将・范蠡(はんれい)の奇策にはまって負傷し、その傷がもとで死んだ。

■夫概<呉>

闔閭の弟。兄が楚の申包胥と戦っている隙に、呉の都で王を称す。勇将ではあるがやや自意識過剰で、結局取って返した闔閭に敗れて楚に亡命した。

■呉王夫差<呉>

呉王闔閭の子。父が越との戦いで死んだ後、越への復讐を誓い、近侍の者に「越に父を殺されたのを忘れたか!?」と言わせたり、薪の上に寝たりして復讐心を養った。父の死後3年にして越を会稽山に追い詰め、越王勾践は降伏した。伍子胥は勾践を殺せと言ったが、夫差は勾践を殺さずに生かした。これが夫差の命取りになる。

■越王勾践<越>

呉の南方にある越の王。越王允常の子。名臣范蠡の助けで呉王闔閭を討ったが、後、范蠡の諫言を聞かずに呉に攻め込み、大敗して会稽山に追い詰められた。范蠡が、呉の重臣(伯ヒ【喜+否】)を買収したり、自らが育てた美女の西施を呉王夫差のもとに送り込んで篭絡させたので、命ひとつは助かった。苦い肝を嘗めて復讐を誓い(さきの夫差の故事とともに「臥薪嘗胆」の語で有名)、表向きは恭順を装った。夫差が覇者たらんと野心を燃やし、精兵を率いて北に向かった時、ついに勾践は立ち、呉都を攻めて夫差の太子・友を殺した。その後も越は攻撃の手を緩めず、呉の都・姑蘇を包囲すること3年にして、夫差は自殺、呉は滅んだ。勾践は「会稽の恥」を雪いだのである。

■西施

越の范蠡が呉王夫差好みの性格に育てた美女。夫差はすっかり西施のとりこになって、越王勾践を助けたり、伍子胥を自殺に追い込んだり、宮殿建築に金を使って呉を疲弊させていった。夫差が自殺し、役目を果たした西施は、范蠡とともに越を離れたとか。

■范蠡<越>

伍子胥も警戒した越の名臣。勾践に様々な奇策を授け、ついに呉を滅亡に至らせた。「越王勾践は、苦難はともにできても楽しみはともにできぬ…」と言い、呉を滅ぼした後、西施とともに斉にゆき、商業を営んで大富豪となった。斉で宰相になって欲しいと言われると、財産を知人に分けて陶という地に移り、また富を築いた。「陶朱公」ともいわれる。

■大夫種(たいふしょう)<越>

范蠡と同様、窮地の勾践を援護し続けた名臣。呉を滅ぼした後、范蠡は越を去ったが、大夫種は越に残り、勾践に仕えた。「苦難はともにできても…」という范蠡の予測は当たっていて、勾践は次第に猜疑心を強め、功臣たる大夫種は勾践に疑われて自殺させられた。



…春秋時代のメモは以上。

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