【無双7猛将伝】江陵防衛戦めも
猛将伝の江陵防衛戦ステージについてのめも。
あのステージ、都督勢ぞろい夷陵の後のステージなので、IF系のステージかと思ってたのですが、調べてみると完全IFではなくて、史実の戦いをふまえてたんですね…調べるまで全く気付かなかった;; だから陸遜が「後世に語り継がれるような」云々と言ってたのか。
史実では、夷陵の戦いの直後、魏が三方面から大挙して呉に攻め込んできます。呉の側でもそれに対処してますが…魏の三方面侵攻のメンバーと、対する呉の守備側は、自分の調べた範囲では以下の通り(江陵以外は詳しく調べていません)。なお、魏の側では皇帝の曹丕も、戦地に近い宛という地まで軍を進めています(だから魏の総大将が曹丕になってるんだと思われる)。
【洞口】
魏:曹休・張遼・臧覇・尹盧
呉:呂範・徐盛・全琮・孫韶・吾粲・黄淵・賀斉(遅刻)
【濡須】
魏:曹仁・常彫・曹泰・諸葛虔・王双・蒋済(別軍)
呉:朱桓・駱統・厳圭・周邵(周泰の子)
【江陵(南郡)】
魏:曹真・夏侯尚・張郃・徐晃・辛毘
呉:朱然 (増援:孫盛・諸葛瑾・潘璋・楊粲)・韓当
…だいたいこんな感じです。なお、蒋欽の子の蒋壱も江陵の防衛に参加し、陣中で没しているようです(蒋欽伝)。
猛将伝の江陵防衛戦は、呉の主力が蜀に侵攻しているというシチュエーションこそIFであるものの、おおむねこの史実の江陵の戦いを踏まえてるっぽいですね。史実では三方面に分かれた魏呉のメンバーを江陵に揃えれば、猛将伝の江陵防衛戦のメンバーとかなり重複します。呉側の立役者の潘璋がいなかったような気もするけど…; あと、正史をよくよく見たら韓当も江陵(南郡)にいるわ~(笑)。無双のキャラのごとくに、ひっそりと参加していた…(韓当伝参照)。
江陵を守っていたのは朱然。おそらく、荊州奪還時に呂蒙殿が江陵のことを朱然に任せているため、彼が江陵守備の任に当たっているのだと思われます。
なんというか…呂蒙殿が江陵を「奪う」ために推薦したのが陸遜で、江陵を「守る」ために推薦したのが朱然…という印象が、自分の中にあるんだよなぁ…(呂蒙殿の病状がいよいよアカンことになった時に、朱然を推して「胆『守』有余」とも言ってらっさるし)。216年(213年かも)の濡須口の戦いで、朱然は守備を担当してる。呂蒙殿はそれを見て、彼が守りに長けていることを察して、江陵奪還後に朱然を推したのではなかろうか…なんて妄想しています。
江陵を守る朱然を応援するため、孫権は孫盛という人物を派遣して(猛将伝で兵糧を持ってきてくれる奴)長江の中州にとりでを築いて外側から朱然を応援させるものの、張郃に中州をぶん取られてしまって、朱然は江陵城で孤立無援の状態になりまする。
孫権はさらに諸葛瑾・潘璋らを派遣して包囲を解こうとするものの、なかなかうまくいかず、諸葛瑾は船団に火をかけられています(夏侯尚伝参照)…猛将伝でも魏側が火計を仕掛けてきますが、あながち作り話でもなかった…(笑)。なお、諸葛瑾は呂蒙殿没後に南郡太守となって、あのあたり(公安)に家を構えてます。
孤立した江陵の城内では、食料も無い上に疫病も流行り、戦えるのは五千人程度というありさま。そこに魏軍が、上にはやぐらを立てて矢を射かけ、地下には穴を掘って江陵に迫ろうと猛攻をかけてきますが、朱然は落ち着いたもので、敵の隙を窺って魏の陣地二つを陥落させたりしています。また、江陵の県令が魏に内応しようとするのに気付いて、その人物を処刑しています…かっこよすぎる。
魏が江陵を包囲すること半年に及びましたが、潘璋が火をつけたイカダを長江に盛大に流して、魏の陣地と中州を繋いでいる浮き橋を焼き落そうとすると(呉は呉で燃やそうとしてるんだよな…笑)、夏侯尚はそれを察して軍を引き上げたようです(潘璋伝参照)。魏の側から言わせると、江陵のあたりで疫病が流行ったので、それが原因で軍を引き上げたと書いてあります(文帝紀・夏侯尚伝など)。
これにより、朱然はその名を魏にまで響かせることになり、江陵防衛の功で当陽侯に封ぜられています。
…というのが、史実の江陵防衛戦の概略。史実だと朱然の独壇場みたいな戦いですが、猛将伝では陸遜と一緒に仲良く、という感じになってますね。史実だとこのとき陸遜はどうしてたんだろうなぁ…よく覚えてないなあ…。夷陵の守備についていたんだろうか、孫権と一緒に武昌あたりにいたんだろうか。
……いらんことだと分かりつつ言うと、孫権は221年に都を武昌に移してるので、建業じゃなくて武昌にいるはず。だから、無双の江陵防衛戦の陣地での台詞で、陸遜だか朱然が、建業からの援軍が何たらと言ってるけど、建業からではなく武昌からと言う方が適当だろうと思われまする。
コメント
コメントを投稿