関羽の荊州失陥について
関羽の荊州失陥について思うのは…あの事態に陥ったのは、やはり関羽自身が軽率さがあったからだと(今は)思ってます個人的に(呉志しかまともに読んでないので呉側の視点しか持てないのですが;)。
以下まとも語りしてるっぽいので興味のある方のみどうぞー。関羽ファンの方は避けていただいた方が…いいかも……。
関羽は呉をなめすぎてたのではないかと思います…孫権を侮辱したり(←関羽の娘と孫権の子の縁談の件で)しているのを見ると、そんな気がします。少なくとも、呉を重要視し、同盟を密にしようと思っていたら、そんなことを言ったりしないでしょう。
呂蒙が関羽を警戒し、こちらが先手を打つべきだと主張しているのは、関羽のそういった同盟軽視が背景にあるんじゃないでしょうか。関羽は同盟を保持する気は無い、そのうち東呉に牙を剥くこともありうる、ならば先手を打たなければ、といったような流れで。関羽がもうちょっと慎重に友好関係を保持しようしていたならば、呂蒙もこう考えたかどうか。
…呂蒙は、魯粛が周瑜の後を継いだ頃から対関羽の戦略を練っていたようですので、関羽討伐を考えていたことは十分にありうるとは思いますが…。
呉が蜀に対して強硬になったのは、総指揮官が魯粛から呂蒙に代わったせいもあるかもしれませんが、諸葛亮が荊州から益州に行ってしまったせいもあるかと思います。諸葛亮が荊州に居続けたら、決して関羽にあんな(呉の君主を侮辱する)ことは言わせなかったのでは…。諸葛亮がいたら、たとえ呉の総指揮官が呂蒙に代わったとしても、呉蜀の同盟関係は保持されたかも。
樊城征討に向かった時も、呉蜀の国境で略奪行為をはたらいて呉に大義名分を与え、しかも魏の謀略によって呉が背後から迫っているのを知っていたのに引き返さなかったのは、関羽の油断によるものかと…。荊州を麋芳・士仁に任せていたのもどうなのか…。
…って、関羽ファンの方が読んだら「何を言っとるウラー!!!」と間違いなく言われると思いますが、呉側の資料を見ているとどうもそう思えます…。今後また、魏・蜀側の資料を読んでみれば変わってくるかもしれませんが…。
コメント
コメントを投稿