呂蒙は易経通?
晋の王嘉という人が書いた『拾遺記』という本に記載されている話でございます。
以下、だいたいで訳してみる。↓
* * *
呂蒙が呉に来ると、呉主(孫権)が学問せいと勧めた。
そこで呂蒙は多くの経典を広く学び、その中でも『易経』(えききょう)を重んじた(易って…要は占いの書なのに…)。
あるとき、孫策(って書いてある)の宴会の座で泥酔してばったり倒れて眠り込み(笑)、夢の中で『易経』の一節をつぶやいたかと思うと、がばっと起き上がった。
周りの人たちが「どうした?」と聞くと、呂蒙殿は
「さきほど夢の中で伏犠・文王(周の文王・姫昌か)・周公(周公旦)と私とで、世の中の興亡について論じた。『日月貞明』の道理に至ると、話は微に入り細に入って深遠であったが、私はその一番深い妙旨に至らなかったので、その文をそらんじたのだ」と言った。
人々はみんなで、「呂蒙は寝言で『易経』通になった」と言った。
* * *
…という程度の内容になるでしょうか…。
孫策の宴会の席上で夢を見て『易経』に通じた…となると、孫権に学問を勧められる前になるのでちょっとおかしい感じもするのですが、呂蒙殿が夢を見て『易経』に通暁した…という話であります。
もちろん正史に採用されている話ではなく、民間で語られていた話の類で、信憑性はあまりないかと思われます。
夢の中で呂蒙殿がともに語っていた三人の人物。
伏犠は、八卦の占いを作り出したと言われる、伝説上の聖人。
周の文王は、周を建国した武王の父で、曹操もこの人に倣って、自ら天子となることはしなかったとか。
周公旦は、かの孔子が大尊敬していたという政治家。
(追記:伏犠は八卦を作り、周の文王は八卦を二つ組み合わせた六十四卦とその解説を作り、周公旦は六十四卦それぞれを構成する六つの爻に解説をつけたと言われる。らしい。よく分からんです;)
…そんな天下一流の人たちと語るんだからすごい話です(笑)。
しかし、呂蒙殿といえばやっぱり天才的な戦略家だと思うので(すみません大贔屓)、占いである『易経』よりは、戦略戦術を説いた『孫子』マスターである方がお似合いかなぁ…と思います。ほんと、正史を見てると、戦わずして勝つ、という孫子の兵法をよく実現させていた人だと思います、呂蒙殿って。
それに、『易経』って…正史(正確にはその注)で孫権が勧めた本の中に入ってないどころか、孫権がまだ読んでない本なんですよね。りょ、呂蒙殿の方が先取りしとる…(笑)。
まぁ、作り話の性格が強い逸話ではありますが、何故呂蒙殿が『易経』と結びついたのかはちょっと気になりますね…。未来を見透かしたかのように、立てる作戦がよく当たったので、呂蒙殿は占いで未来を予見していたのでは…ということで、占いの書である『易経』と結びついたんでしょうか。完全な憶測ですが…。あるいは、荊州攻めで呂蒙に従った虞翻は易の大家で、関羽を追い詰める段では卦を立ててるので、この話と混じったものか…。
以上、『拾遺記』の呂蒙話でした~。
(2006.09.20)
コメント
コメントを投稿