呂城に関廟無し

今日も語らせてくだせぇ!(笑)

今日の呂蒙話は、昨日の逆で、呂蒙殿の関羽へのささやかな復讐(?)の話であります。

出典は昨日同様、清の袁枚『子不語』(巻8・「呂城無関廟」)です。


*   *   *


呂城というところの周囲50里(25キロくらいかな)には関帝廟がない。言い伝えによると、呂城を建設したのは呂蒙で、今でもこの場所の土地神になっている(? 原文「至今蒙為土地」)。

一度関帝廟を建てたのだが、毎晩武器やら角笛やら戦の最中のような物騒な音がするので(呂蒙と関羽が戦しとる…怖;)、人々はここに関帝廟は建てないようにしよう…と戒めあっていた。


ある時、旅の占い師が土地神の廟に宿を取った。

と、夜中に激しい雷雨が起こり、廟の屋根やら瓦が全て吹き飛び、これが翌朝まで続いた。なぜそんなことが起きたのか分からなかったが、地元の人々がやってきて見てみると、占い師のかついでいた旗に関帝(関羽)の姿が描いてあった。

地元の人々は占い師を追い出して、二度と呂侯廟(呂蒙の廟か)に泊まることを許さなかった。


*   *   *


…という、呂蒙殿の関羽嫌いの話でした(笑)。

呂蒙と関羽って、ともに文武両道で勉強好きで、陣営さえ同じだったら意気投合しそうだよな~と個人的に思ってるのですが、『子不語』に採られた話を見ると犬猿の仲ですね…苦笑。


この呂城という場所、ちょろっと調べてみたところ、長江下流域にあるようです。三国時代でいえば丹陽あたりです。

この付近と呂蒙殿って、あんまり関係が深いと思われないのですが、この呂城と呂蒙殿が関係あるらしい、という話は、同じく清の紀昀『閲微草堂筆記』にも見えます。

…今でもあるのかなぁ、呂侯廟? あるならマジで行きたいんですけどーー!!!!!


呂蒙殿と関係が深い場所といったら、個人的には尋陽か公安かなー、と思ってたのですが…。尋陽は呂蒙殿が長い間県令を務めていた場所、公安は荊州奪取の際に奪い取り、病気になったときに孫権に看病を受け、そのまま亡くなった場所。


ところでこの『子不語』、他にも三国関連の話があっておもろい…夏侯惇とか曹操とか張飛とかの話もありました。関羽の話はかなり多いです…さすが関帝(笑)。

(2006.10.04)


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呂蒙殿が建てたという呂城について補足。場所は、やはり長江下流域、丹陽の付近のようです。

この付近と呂蒙殿ってあんま関係ないっぽい…と昨日言ってしまったのですが、あ、ありましたすみません;;


呂蒙殿、若い頃にこの辺りの広徳というところの県長をやってたり、丹陽の異民族討伐に従軍してらっさいました…。しかも、あの濡須口ともそんなに離れてないし…。呂蒙殿がこの辺りに城を作った…という話もありえますね~。


おまけで、呂蒙殿と関係ある地名を見つけました(笑)。清初の顧祖禹『読史方輿紀要』という文献を参考に見てみると…↓


呂城:丹陽にある。呂蒙殿が築いたと伝えられる。水運の要衝っぽい。

呂亭:今の安徽省にあるらしい。呂蒙殿がここに軍をとどめたらしい。具体的にどの辺かは分からんとです…;

呂蒙城:まんまです(笑)。三国時代の荊州の公安のあたりにあるらしい。呂蒙殿がこのあたりに来たときに造ったとか。

呂蒙城:もうひとつありました(笑)。三国時代の零陵のあたり。215年に荊州返還の件で劉備とごたごたして、孫権が呂蒙に命じて力ずくで零陵・桂陽・長沙を奪ったときのこと。劉備側の零陵太守・郝普を降すために、呂蒙殿は城を築いて戦った(…って書いてあるのですが、正史の方を見るとそんなど派手な戦闘は起こしてないです…)。


案外、呂蒙殿にちなんで名前がつけられた場所ってあるのですねー! なんだか幸せだ!!

(2006.10.05)

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