南郡・襄陽の領有について
南郡・襄陽がいつ誰の手に渡ったかについて。
正史をひっくり返して調べてたら夜が明けていたという…珍しく集中してたようで(笑)。
赤壁の戦い(208年)の後、南郡(江陵)は…
○曹仁が南郡(江陵)にいて、周瑜と戦う
○209年、周瑜が曹仁を南郡から追い出し、南郡太守になる
○210年、周瑜没。この年、孫権が劉備に南郡を貸した様子。
江陵にいた魯粛が、長江下流の陸口に移動し、周瑜の後に南郡太守となっていた程普が江夏太守に移ってます。つまり、呉の人が南郡から撤退してるんですよね。江陵には関羽が入った模様。
○219年、南郡太守は麋芳。麋芳は長江を密かに遡行してきた呂蒙に降伏し、南郡は孫権のものに。孫権は呂蒙を南郡太守とする。呂蒙没後は諸葛瑾が南郡太守となっている。
襄陽は、終始魏が押さえていたようです。関羽が210年に襄陽太守になってはいますが、襄陽の地は押さえたことはないと思います。というのも、219年に関羽が荊州から北上したとき、「樊・襄陽」を包囲した、と書いてある記事があるのですよ。もしこの時関羽が襄陽を押さえていたなら、自分の味方のいる城を囲んで攻撃するなんてありえませんからね。また、219年の時点では魏が襄陽を抑えていたが、それ以前に関羽が一時的に襄陽を獲得したことがあるすれば、魏が襄陽を奪還したという記事があって然るべき。ですが、そのような記事も(私の見てみた範囲では)見当たらない…。関羽は襄陽太守という任を与えられたものの、それは名のみのものであったと思いまする。
ちなみに「徐晃伝」によると、関羽が攻め込んできたときに樊城を守っていたのが曹仁、襄陽を守っていたのが呂常という将だそうです。
演義は、関羽が襄陽太守になったという記事を踏まえたのか、209年に周瑜が曹仁と戦っている隙に、関羽が襄陽を占拠した、と書いてありますが、正史の記事を見ると、関羽が襄陽を押さえたというのはありえない話だと思われまする。
(2007.06.24)
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昨日の補足(南郡の件で)。書き忘れたことが…。。。
周瑜が南郡を取ったとき(209年)、南郡のうち長江南岸の地域を早速劉備に貸し出してるようです。劉琦(荊州刺史(牧?)だった劉表の長子)の死後、劉備が荊州牧となり、長江南岸の公安を州都と定めて落ち着いてます。
で、周瑜の没後は親劉備派の魯粛が発言力を持つようになって、南郡全体を劉備に貸したようです。
…調べた本人だけが楽しい話ですみません(笑)。
(2007.06.25)
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