けんこう実録

たまたまネットで見つけた『建康実録』が面白かったので。

今まで目を通していないあたり呉好きとしてアカンような気もするのですが(汗)、無双界隈だと練師の名前の出所だということで話題になっていたという印象が強い文献です。


『建康実録』は唐の許嵩という人物が編纂したもので、建康に都を置いた六朝の歴史を記したものらしい。

呂蒙殿の名前がちらっと見えたところを拾い読みしただけなので(…)全体的な信憑性の有無とかはよく分からんのですが(ネットで調べる分には信憑性がなさげなんだが…笑)、正史と違うことが書いてあって面白い。


たとえば、

・甘寧が濡須で曹操の陣営に夜襲を仕掛けたのは212年。(正史にははっきり書いてない。演義だと216-217年の濡須口の戦いでの出来事になってる。『資治通鑑』は213年のこととみなしている様子)

・甘寧が没したのは215年の冬。(正史を見る限り没年は特定できない)

・凌統が没したのは217年で、享年29。(正史だと享年49歳=237年没。ただしこれは正史の方が間違いだと思われる。『太平御覧』でも凌統の享年は29歳だと書いてあった)

・魯粛が没したのは218年秋。(正史だと217年)

・呂蒙の享年が40歳。(正史だと42歳)

・呂蒙殿が「南昌太守」なるものになってる(正史だと南郡太守。南郡太守と漢昌太守が混じって南昌太守になった???)

とかでしょうか。甘寧の没年がこうもハッキリ書いてあるのが衝撃だった…ちうか、没年が思いのほか早くてびっくりした…。


個人的に一番ツボに入ったのが合肥の戦いの記事ですかね…。

『実録』だと、合肥の戦いは216年の出来事ってことになってます(正史では215年)。

孫権が合肥から撤退を始め、1000人程度の兵とともに残っていたところを張遼に襲われるという筋は同じなんですが、張遼に襲われる前にのんきに将軍たちと宴会を開いてたって書いてあって…ま、まじか(笑)。のんきな宴会のせいで、凌統が手塩にかけて育てた兵が全滅したとか、そんなん嫌や…。正史だと、孫権以外に凌統・呂蒙・甘寧・蒋欽といった錚々たる呉の将も一緒にいることになってるんだけど、その連中ものんきに宴会やってたとか嫌や…(『実録』に従うならば甘寧は不在っちうことになるけど)。呂蒙殿の戦歴で唯一の手痛い敗戦の原因がのんきな宴会とかマジで嫌や…(笑)。張遼のかっこよさも2割くらい減になるから嫌や…。

窮地を脱した後、孫権が泣きながら血が出るまで指を噛んで生涯の戒めとした…みたいなことも書いてあるけど、確かにこれは大反省ものだよな…;

(2018.12.28)

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