呂蒙殿がらみの地名@読史方輿紀要

『読史方輿紀要』を見てたら呂蒙殿がらみの地名をけっこう見つけたのでまとめてみる!

以前見つけた呂蒙殿がらみの地名も『読史~』にあったものなのですが(青木定雄が作成した索引で調べた)、それ以外にもいくつかありました!



【丹陽付近】→駆け出しの頃、このあたりの反乱鎮圧に従事

●呂城(『読史~』巻25、鎮江府ー丹陽県ー呂城)

呂蒙が築いたと言われ、(『読史~』が著された清の時点で)城壁も残っている様子。水運の要衝。



【廬江(皖城)付近】→皖城の戦いで魏の朱光を破り、その後廬江太守になっている

●呂蒙城(巻26、安慶府ー懐寧県ー皖城)

『城邑考』なる文献によれば、呂蒙が皖城に駐屯した時に築いたという。


●呂蒙城(巻26、安慶府ー桐城県ー陰安城)

桐城県東南にあり、呂蒙が築いたと言われている。

※なお、桐城県の南の方には、魯粛が駐屯したといわれる「魯鎮城」という場所もあるらしい!

魯粛さんも実は皖城攻略に従軍していて、その後で横江将軍に任命されている(魯粛伝)。


●呂亭(巻26、安慶府ー桐城県ー呂亭)

桐城県の北の方にある。呂蒙がかつてここに軍を駐留させたといわれている。


●呉塘陂(巻26、安慶府ー潜山県ー呉塘陂)

呉陂堰ともいわれる。「魏志」にある、揚州刺史の劉馥が開いた「呉陂」がこれに当たるらしい。

魏の朱光と呉の呂蒙が争った場所がまさにここで、塘は朱光が造ったともいわれる。

あるいは、呂蒙がこの地に水を通し、300頃の稲田に水を注いだともいわれる。


※皖城のあたりにはやたらと呂蒙殿がらみの地名がありますな。呂蒙殿が築いたとされる城も複数あります。皖攻めの時の呂蒙殿は、土塁とか築かずに速攻!を主張してるので、皖を攻略して廬江太守になった後に、城を築いたり水田を開いたりしてるんでしょうね。



【沙羡付近】 →赤壁に近い。陸口や夏口にもちょっと近い

●呂蒙城(巻76、武昌府―嘉魚県―沙陽城) 嘉魚県=漢の沙羡県らしい。

嘉魚県の南西80里のとこにある。孫権が呂蒙を零陵に派遣した時、呂蒙がここに築いたものらしい。

『郡県志』なる文献によれば、呂蒙が荊州を平定した後に(215年の三郡奪取の方かな)ここを守ったらしい。

※この頃呂蒙殿は廬江太守なんだけど、廬江から長江を遡って荊州方面に行くなら、確かにこのあたりを通る。それ以外に沙羡と呂蒙殿の接点ってあるのかな…。



【公安・孱陵付近】 →荊州奪還後に孱陵侯に封ぜられる。公安で病気療養して没する

●呂蒙城(巻78、荊州府―公安県―馬頭城)

公安県の北25里のところにある。呂蒙が孱陵に駐屯した時、城を築いた。

※…とはいうものの、孱陵に駐屯したようなことは書いてないし、荊州奪還して孱陵侯に封ぜられてから没するまでに城を築いてる時間的余裕もあったんだろうか…; それとも江陵に攻め込む前のこと?? 孱陵は公安に近く、呂蒙殿は荊州奪還後に公安で療養してたから、その時に城を築いたのか…?でもやっぱり時間的な猶予がない;;

ちなみに孱陵の近くには、孫権の妹(=無双でいう孫尚香)が劉備との仲が悪くなったときに住んでた城があるらしいです。



【零陵付近】 →215年に孫権の命令で長沙・零陵・桂陽の三郡を奪取

●呂蒙城(巻81、永州府―零陵県―応陽城)

呂蒙が(劉備側の)零陵太守・郝普を攻めた際、城を築いて攻撃を仕掛けた。



【烏程・故鄣付近】 →駆け出しの頃、この近くの広徳県の県長に任ぜられている

●呂山(巻91、湖州府―長興県―呂山)

長興県の南東20里のところにある。またの名を「程山」。呂蒙と程普が山賊を討伐した際に駐屯した。

※なんか、これと関係ありげな話が、同じ巻91の湖州府―帰安県―石城山の記事に引かれている(帰安県は烏程に該当)。張元之(張玄之)の『山墟名』なる文献によれば、厳白虎がここ(石城山)に石を積んで城を築き、呂蒙殿と戦ったらしい(私の持ってる中華書局の影印本だと、「呂蒙」が「石蒙」になってるけど笑)。呂蒙殿が厳白虎と戦った、なんていう記事は見たことがなかったんだけど、そんな話もあるのかー。

…と思ってたら、さんごくし集解の呂蒙伝に同じ話が引かれてた; ただし、集解だと(趙一清の(たぶん『三国志注補』の)また引きで)『(太平)寰宇記』巻94が出典になっている。

(2019.01.01)

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