遼来来は二度あった
今日は相変わらず正史をめくってたのですが、ここで(自分としては)びっくりの事実が!! 合肥のあの「遼来来」は二度あったのか! …と言うとちょっと大げさですが、要は張遼は孫権を二度追い詰めたんですね。
私は『三国志演義』から入ったので、合肥といえば――張遼が少数の兵をうまく使って、10万と号する孫権軍団の先鋒(甘寧・呂蒙の軍団)を孫権から引き剥がし、手薄になった中軍に張遼軍団が襲い掛かり、孫権は凌統らの必死の働きでなんとか包囲を脱出して、小師橋を飛んだ――という展開が頭に入ってるのです。
でも実際は、張遼が少数の兵を率いて孫権軍団に襲撃をかけた時には孫権は橋を飛んでません。その十数日後、孫権が合肥から引き上げようとした時に再度張遼が孫権を襲って、この時に孫権は命からがら橋を飛んで逃げてます。
張遼は二度孫権を襲撃して、二度目に孫権の命を手中に収めかけたんですな。
最初の衝突では、魏軍7000に対し、呉軍10万で、呉軍が圧倒的に優位。
しかし張遼は選りすぐりの800人の兵を率いてこの軍を突き破り、孫権のすぐ近くまで襲い掛かる。ただこの時は、張遼は敵の撹乱はできたものの、孫権の命を脅かすまでには至ってません。でもこの一戦で、呉軍の士気はかなりくじけたらしい。たぶん、呉の陳武はこのとき戦死してます。
孫権はそのまま合肥を包囲したものの、攻めあぐねた上に伝染病が広がったため、撤退を決意。順々に兵を撤退させ、孫権は凌統・甘寧・呂蒙・蒋欽らの将と1000の近衛兵とともに逍遥津の北に残っていた。
この機を見逃さず、張遼が兵を率いて孫権に襲い掛かったんですね。今度は呉軍は1000人のみなので、兵数・士気から言って呉側が圧倒的に不利。ここで孫権は本当に命の危険にさらされて、凌統たちの奮戦によってかろうじて逃げ延びます。
…三国志ファンの方の間では当たり前なのかもしれませんが、いろんな人の列伝を摺り合わせてこの事実に気付いたときは大興奮でしたよ!! このおかげで一日テンション高かったな(笑)。
(2005.05.23)
コメント
コメントを投稿