『水滸伝』の中の呂蒙殿
『水滸伝』にも呂蒙殿の名前が出てくるのですよー、という話です。
『水滸伝』は、内容の違いから大きく三種類(70回本・100回本・120回本)に分けられるのですが、その中の100回本と呼ばれるもの(岩波文庫で訳出してるやつ)だけに出てきます。物語自体には全く関係がない部分に、名前がちょろっと出てくるだけです。たった2箇所ですけど(57回・64回)。
どんな扱いかというと、二箇所とも諸葛亮と並び称される智将扱いなんですよね。中国だと呂蒙は関羽を殺したから悪党扱いなのかと思いきや、『水滸伝』を書いた人は呂蒙を決して悪党扱いしてないんですよね。個人的には嬉しいです。
まあ、『三国志演義』でも、死にっぷりはアレですけど、他の箇所では悪意を持って描かれてることはそんなにないと思います。ま、魯粛と関羽の会見…いわゆる「単刀会」の場面では、甘寧と一緒に関羽を狙う伏兵になってますが、呂蒙の名場面もそれほど削らず収録してるし。208年の南郡の戦い(vs曹仁)で甘寧を見事に救い出す場面とか、214年の皖城攻略戦のエピは演義にも採られてます。呉下の阿蒙の故事は演義に無いけど…必ずしもストーリーの展開に関わらない挿話だし、正史三国志にも採用されてない話なので(裴松之が注で引用してるのです)、蜀贔屓の演義においては採用されなくても仕方ないかな、と…。
でも、関羽の子孫が登場する回で呂蒙を褒めるのはどうかと思うな、水滸伝(笑)。…『水滸伝』には(自称)関羽の子孫が出てきますよ。大刀の関勝というひと。子孫じゃないけど「美髯公」っていうあだ名を持ってる人も出てきます。こちらは朱仝という人。関勝と朱仝、関勝のほうがやや背が高いようですが、外見はほぼ同じなんですよね~(笑)。
(2005.05.25)
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…関羽が留守の荊州に進発するにあたり、呂蒙が白い衣装を着、商人のふりをして長江を遡った、いわゆる「白衣渡江」の場面。演義だと、白衣=商人の衣装 ととらえてるみたいですが、正史だと白衣=庶民を指していて、呂蒙一行は商人の身なりはしたものの、その衣装は白い服とは限らないみたいですね。白衣はそもそも庶民の衣装らしいので…。
呂蒙が荊州に向かうにあたり、その兵を整えた場所が尋陽という場所です。呂蒙殿は長らく尋陽県令を務めていて、この地とゆかりがあるようで…。
…『水滸伝』をお読みの方ならば、尋陽と聞いてピンとくるでしょうか…。張順や李俊とゆかりのある潯陽江の付近に、この尋陽があるのです。『水滸伝』の好漢たちが活躍した場所と呂蒙殿に縁があるなんて、なんだか感慨深いです。
しかも、『水滸伝』(100回本)を見ると、呂蒙の名は『水滸伝』の中盤の二箇所に見えて、しかも諸葛亮とならぶ知将として表現されてます。『水滸伝』は、複数の人間が執筆にあたったと考えられるようなのですが、この中盤部分を書いた人は、(それほど積極的でないとはいえ)呂蒙殿に対して肯定的な考え方を持ってたんじゃないかと勝手に想像したり。この部分を書いた人は、尋陽に近い場所の出身だったのかも、などと、根拠も無いのに考えることもあります。潯陽江周辺の好漢の扱いも特別ですしね…神になった張順、シャムで王になった李俊…。
…これはマジで根拠の無い想像なので、鵜呑みにしないでくださいねーー!(笑)←いちおう主張…
(2006.08.03)
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