晋の卿の昇進について

先日、『国語』(という名の歴史書)を見てた時に気になったのですが…

郤至が周に行って、エン陵の戦いでの自慢話を繰り広げて、「俺ってば優秀だから、今は第8位の新軍の佐だけど、もう執政になってもいいんじゃねー?」(←お前はホントにもう…笑)的なことを言ってる場面があるのです。左伝などを追ってると、上位の卿が欠けた場合、下位の卿がひとつずつ上にシフトするのが晋の普通のパターンのようなので、郤至が第8位のポジからいきなりトップになることは、よほどのことがない限りありえんのですが、「いや、そんな順番とか関係ないよ~」と言って、3人の例外を提示するのです。


その例外として挙げられているのが、

1.下軍の佐から執政になった「荀伯」

2.軍を率いたこともない(つまり将にも佐にもなったことがない)のにいきなり執政になった趙盾

3.下軍(の将)から執政になった欒書

なのです。2と3は左伝を見てもそう書いてあるから分かるとして、1の「荀伯」って誰なんだ…? 韋昭の注では、これを荀林父だと言ってるのですが、荀林父は中軍の佐(第二位)となっていることが左伝文公12年に明記してあって、下軍の佐から一気に執政に上った訳ではないんですよね…韋昭も時々左伝を引用する癖に、どうしてここで左伝の記事をまるっとスルーするんだ…。むしろ、荀林父は第一位の趙盾がいなくなった後は執政になるはずの位置なのに、趙盾がいなくなった後に執政になったのは第三位の上軍の将のポジだった郤缺なんですよね…。だから、荀林父を例に挙げるのはおかしいと思うのです。


では、この「荀伯」が荀林父でないとすれば誰なんだ、という話なのですが…うーむ、思い当らない(笑)。郤至より前の時代の人で、下軍からいきなり執政になった荀さんなんて見覚えが全くないよ…。

「荀伯」と呼ばれたことはないが、氏が「荀」で下軍(もしくはそれ以下)から特進した人といえば、荀林父の弟の荀首がいるんですよねー…ヒツの戦い(BC597)の頃は卿でもない下軍大夫だったのが、士会執政期(BC593)には第三位の上軍の将になっている(春秋左伝正義の成公2年の孔穎達の疏によると)。執政にはなっていないが、これは特別な昇進と言わざるを得ない。欒書様と較べると分かるよ…ヒツでは欒書様は第6位の下軍の佐、つまり下軍大夫の荀首の上官なのに、士会執政期の欒書様は、趙朔が死去しているなら第5位、趙朔が存命ならヒツのままの第6位なのですよ…いつの間にか荀首のほうが目上になっとるのですよ…。

自分は左伝の僖公年間(晋でいうと文公時代が僖公年間末期に当たる)やそれ以前のことにはすばらしく疎いので、僖公年間以前のことはよく分からんのですが(汗)、先且居も特進だったよなぁ…執政である父の先軫が箕の戦いで戦死した後、いきなり執政になっていたはず。

…あ、その先軫ってば下軍の佐からいきなり執政になってたはず…! しかし先軫が「荀伯」なんて呼ばれてたの見たことない。「霍伯」って呼ばれてたのは先軫じゃなくて先且居の方だったかなぁ…やばいこの時代に疎過ぎて頭がこんがらがってきた(笑)。


しかし、『国語』周語の郤至はバカっぽくてホントにかわいい…(笑)。



追記:『国語』(晋語)に、城ボクの戦いが終わって狐毛が没した後に、先且居が上軍の将になったって書いてあった…; 先軫が亡くなった時に初めて卿になった訳ではないんだな…。ってことは、先軫が中軍の将のとき同時に先且居は上軍の将で、親子で卿になってたってことかえ~。うちのメイン時代だと、親子が同時に卿ってありえんからびっくりした…; そいえば狐毛と狐偃も兄弟で上軍の将・佐になってたが、兄弟同時に卿というもうちのメイン時代では多分ありえんなぁ…荀林父&荀首兄弟については、その可能性を否定しきれないけれど。

(2011.09.11)

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