君無道・1
さて、わたなべよしひろ先生の『儒教と中国』の左伝杜預注についてのまとめ的なものを。
この本で杜預の左伝注の特徴の一つとして挙げているのは、君主弑殺を正当化する「君無道」という凡例でございます。
そもそも「凡例」というのは、杜預が開発(?)したもので、左伝の文を三種類に分類したものの一つ。その三種類とは、周公が規範を示したという最も重要な「旧例」(「凡そ」で始まるので「凡例」とも)、二つ目は孔子が規範を改めた「変例」、あとは史官が記したとするただの記事「非例」、でございまする。
杜預が必ず従うべきであるとする「凡例」の一つに、「君無道」がありまする(宣公4年の伝文、鄭霊公弑殺のくだり)。その凡例は、経文に弑殺した臣の名がない場合(例:晋弑其君州蒲/成18)は君主が悪い(称君)、臣の名が経文にある場合(例:晋趙盾弑其君夷皐/宣2)は臣が悪い(称臣)、というもの(原文:凡弑君、称君、君無道也。称臣、臣之罪也)。この前者が「君無道」、つまり君主が悪いことしたから殺されたのであって臣は悪くないんですよ、という凡例で、これに当てはまる七例の記事について、杜預は「君無道」といちいち注をつけているらしい。
つまり杜預の言う通りに解釈するなら、趙盾は経文に名があるので有罪、欒書・荀偃は無罪放免ちうことになります!(上で君主に罪がある「称君」の例として挙げた「晋弑其君州蒲」は、欒書荀偃が厲公を弑した事件の経文なのです)
ちなみに杜預がこの凡例を生みだしたのは、司馬昭の曹ボウ(魏の皇帝)弑殺事件を正当化するためだというのが、この本の説。この凡例を利用すれば、不孝でチャラい(<と司馬さんちが主張する)無道君主の曹ボウを司馬昭が殺しても何も悪くないということになり、司馬氏にとってはとっても都合がいい説となるのです。
さて、自分はこの「君無道」の凡例について、自分なりに掘ってみたい訳なのです…!
ということで、長くなったしちょっと調べ物もしないといけないので、続きは次の記事へ~(おま;;) さらに無駄に持って回ってしまってすみません; 自分用メモも兼ねるので、次の記事は少し煩雑になると思われます。
(2011.12.12)
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