君無道・2

では、前の左伝杜預注の「君無道」話の続きです! 半分自分用メモです。

ぶっちゃけ面白さはミジンコほどもありません…予めご了承ください。



さて、弑殺事件のうち君主が悪いという「称君」の例は、春秋左氏伝の中に七例あると『儒教と中国』に書いてあります。具体例は本文中で挙げてありませんが、そこを勝手に掘り下げます。


有難いことに、『春秋大事表』(春秋乱賊表/巻45)に弑逆事件のリストがございまして、ここにその七例が挙げてありました。『左氏会箋』にもその七例が挙げてありましたが。

では、その七例をここに杜預注(以下「杜注」)つきで挙げてみたいと思います。『大事表』は七例をさらに二つに分けてますので、『大事表』に従って経文をリストアップしてみまする。


【称国以弑者】

■文公18年:「莒弑其君庶其。」(紀公)

  杜注「称君、君無道也。」

■成公18年:「晋弑其君州蒲。」(厲公)

  杜注「不称臣、君無道。」

■昭公27年:「呉弑其君僚。」

  杜注「僚亟戦、民罷。(略)称国以弑、罪在僚。」

■定公13年:「薛弑其君比。」

  杜注「称君、君無道也。」


【称人以弑者】

■文公16年:「宋人弑其君杵臼。」(昭公)

  杜注「称君、君無道也。例在宣四年也。」

■文公18年:「斉人弑其君商人。」(懿公)

  杜注「不称盗、罪商人。」

■襄公31年:「莒人弑其君密州。」

  杜注「不称弑者主名、君無道也。」


以上が「君無道」の七例です。訓読は所々自信がないのでつけてませんが(コラ)杜預が「君無道」と注をつけまくってることがお分かりいただければよいです。杜預は必ずしも「君無道」の三字は使ってませんが、その場合でも「君主に罪がある」と一言添えてるんですなー。


ちなみにうちで扱ってる晋の厲公周辺をあらためて見てみると、杜預が無道を連呼してて微笑してしまう…。

成16の鄢陵の戦いの前に士燮が「諸侯が晋から背けばいいのに」と言ってるとこでは「晋厲公無道、三郤驕」と注し(どうして士燮がそんな主張をしてるのかの説明なのですが、ここでは厲公は士燮の言葉を聞いてるだけ)、成17で鄢陵の戦いの後に士燮が死を祈って卒したとこでは「伝言厲公無道、故賢臣憂懼、因祷自裁」と注し、同年に厲公が狩りに行ったときに獲物をまず婦人にふるまって大臣どもを後回しにしたとこでは「伝言厲公無道、先婦人而後卿佐」と注してます(今から見ればレディファーストなジェントルマンとも取れるけど、ここでは単に大臣を舐めてるだけです)。

自分が見つけたのはそんなとこですが、厲公は杜預からトータル4回「無道」と言われてます…そこまで厲公ってヒドイんかい杜預さんよ…。



ここでひとつ疑問が。じゃあ上記の七例以外の君主弑殺事件の場合、杜預は「無道」って言ってないのだろうか…? 「称臣」(君主じゃなくて臣の方が悪い)の例に入る晋の霊公や陳の霊公あたりはだいぶドイヒーなことで有名な気がするのだが、これらドイヒー君主に対して杜預は「無道」とは言ってないのか……?


…と思って中央研究院で検索をかけてみたところ、晋霊公・陳霊公のあたりは特に「無道」とは言われてませんでした。晋の霊公について杜預は「霊公は君主失格だけど、良き史官(董孤)の法を示し、執政たる趙盾を責めるため、臣たる趙盾の名を記したのだ(霊公不君、而称臣以弑者、以示良吏之法、深責執政之臣也)」と言い、陳の霊公については、「霊公は悪いけどその悪は民に及んでないからセーフ(霊公悪不加民、故称臣以弑也)」と言ってます。「不君」だの「悪」だのとは言ってますが、「無道」とは言ってないんですねー杜預は。


でも、七例以外で「無道」と杜預が注している例外が一人だけいた。楚の霊王は上記七例から外れる「称臣」のパターンなのに(経文:楚公子比自晋帰于楚、弑其君虔于乾谿/昭13)、杜預は「霊王無道」と注している。

しかし経文に臣の名がある件についてはくどくどと言い訳をしていて、「霊王無道而弑称臣。比非首謀、而反書弑、比雖脅立、猶以罪加也」などと続けてます。要は、君主が無道であって臣の名が明記されないはずなのに公子比の名が明記されてるのは、まあ公子比にもいろんな事情があるんだけど(霊王の後に王となった訳だし)罪があると言うに足る、という分かるような分からないような理屈を言ってます。ここでのみ杜預は己の定めた凡例を自分で破ってますね…どうしたのだろうか。なお、私は楚の霊王に関しては全くの守備範囲外なのでさっぱり分かりません;;

(2011.12.13)

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