晋厲公・秦康公めも

■厲公の名は「州蒲」じゃなくてもともと「州満」?

会箋を見てたらそんな説があったのでエエッと思ったのですが、自分が見られる範囲の諸説を見るに、「州満」推しの説を唱える人がかなりいる。左伝は厲公の名を「州蒲」と記し、一方史記では厲公の名が「寿曼」となっており、左伝と史記で厲公の名が全く異なっているのです。そこで昔の学者(例:唐の陸徳明)は、左伝の伝える厲公の名はもともと「州満」だが、、周の穆王の諱の「満」を忌んで「州蒲」としたのではないかと推理しておるようです。「州満」ならば「寿曼」とも音が近く相通じるようなのです。


■秦の康公について

…お恥ずかしい話ですが自分は左伝を最初から通して読んだことがなく、僖公33年から成公年間くらいしかまともに読んだことがありません…。。。僖公33年以前の記事には必要でない限り目を通していないのです…; 故に、僖公15年に、秦の康公(太子罃)が出てくることをつい先日まで知らなかったのです…。しかもオカンが穆姫、すなわち晋の献公の娘であることもその時知った始末です…。つまり秦の康公って晋の献公(重耳のオヤジですな)の孫に当たるんですね…。康公は晋の外孫だと杜預が注で言っていたのは見たことがあり気になってはいたのですが、根拠となる記事がどこにあるか分からんかったので放置してたんですよね…そうか、そういうことだったのか…。

(2012.02.03)

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