巫について

 ※妄想要素強めです


巫って何なんやーと思って、白川先生の『古代中国の文化』を引っ張り出して少し見てました。ざっと見ただけなので把握し切れてないのですが、要は鬼神・自然神を対象とする呪術者で、歌舞を以て祈るのが…らしい(一方、霊魂(特に祖霊?)を対象とし、言葉を以て祈るのが「」らしい)。「巫」という字も、袖を持って舞う形らしい。


あと、左伝の中の巫も少しチェックしてみたのですが、巫というのは人の死を予言してばかりいるなぁ…。桑田の巫(晋景公の死を予言した人)・梗陽の巫(荀偃の死を予言した人)もそうだし、楚に范の巫の矞似という人もいたんだけど(『左伝』文10)、彼も楚の成王・子玉・子西の横死を予言してた。


巫臣も、もしかして人の死が見える人だったのかなー…というか、そういう設定もアリかなーと思ってます。

夏姫が楚に来た後、荘王や子反に対しては夏姫を娶るのはおよしなさいと言ってるのに、夏姫が連尹襄老に嫁ぐ時には別段止めてないんですよね。そしてそれから一年も経たないうちに襄老は邲の戦いで戦死。楚が晋から歴史的大勝を得た戦いでまさかの戦死…。襄老がすぐ死ぬ(=夏姫の配偶者がいなくなる)のが分かってたから、夏姫が襄老に嫁ぐことには口を挟まなかったのかもー…とかなんとなく考えてます。夏姫を連尹襄老に嫁がせたのは荘王ですが、裏には巫臣の口添えがあったりして。


あと、巫臣が夏姫と駆け落ち(…)するために動き出したのも、たぶん荘王の死(宣18=BC591年7月)の一年前くらいからじゃないかなーと思います。

巫臣があれこれ工作して夏姫を鄭に寄こすよう鄭から楚に申し入れをさせた際、荘王の下問を受けた巫臣が答えた中に「荀首が新たに中軍の佐となった」という言葉があるのです。荀首が中軍の佐となったのは、郤克が中軍の将に昇格し中軍の佐の座が空いた後と考えるのが妥当なので、つまり中軍の将だった士会が引退して郤克がその座に座った後、すなわち宣17=BC592年8月以降と考えるべきだろうと思われます。つまり巫臣が荘王の質問に答えたのは、BC592年8月以降だと思われます。工作を行ったのはその少し前。自分の意見によく耳を傾けてくれた荘王が間もなく亡くなるのが分かっていたから、荘王への忠を尽くした後に楚を離れようとした…とmousouするのもアリかしら…。次の王の共王さまは幼くて、荘王没後に権力を握るのは共王の養育係でもある子重・子反の二人に間違いないので、それを嫌ったのかもー。


…と、そんな取りとめのないmousouをしております。


あと、上記の調べ物をしてた際に気付いたのですが…岩波訳の左伝だと連尹襄老が死んだ後に襄老の子である黒要が夏姫と「結ばれた」と書いてあったので、てっきり夏姫が黒要に下げ渡されたのかと思ってたのですが、左伝の原文では「烝」という字が使われてました。「烝」というのは、身分が上の女性に姦通することらしい。つまり黒要は、死んだ親父の嫁を略奪して自分のものにしたってことなのか…なんて奴や…。巫臣が夏姫に「俺の嫁になれ!」とハッキリと言ってるのがその後なので、巫臣は夏姫を黒要から引き離してやりたかったのかもしれん…。

(2012.06.28)

コメント

このブログの人気の投稿

ビギナーズ・クラシックス『水滸伝』

大晦日です

最近のはまりもの

更新しますた

ようやく終わった…