楚材晋用
タイトルは、楚の人材が晋に亡命して、晋がその人材を利用してかえって楚をやっつけちゃうんだぜ!という四字熟語。
この四字熟語の典拠が、左伝と国語にあります。蔡の声子(公孫帰生)という人が楚の子木(屈建)に対して、楚から亡命して晋に貢献した四人の話をしてるのです。
ただ、左伝と国語とで、声子が挙げた四人というのが違ってるので、そいつをメモっておきたいのです。
左伝(襄公26年)だと、以下の四人。
①析公
・文公14(BC613)年、子儀の乱(カリスマ荘王様が即位早々拉致られたアレ)の際に晋に亡命
・成公6(BC585)年、繞角の戦いで献策し、楚を破る
(↑勢いに乗った晋軍が追撃しようとしたら荀首・士燮・韓厥に止められた、あの戦い)
②雍子
・父兄に讒言されて晋に亡命
・成公18(BC573)年、靡角で楚軍に遭遇した際に献策し、楚を退ける
③巫臣
・夏姫をめぐって子反とモメて晋に亡命
・呉と通交して射御の術を教え、呉に楚を攻めさせる
④苗賁皇(子越の子)
・宣公4(BC605)年、若敖の乱(子越の反乱)の際に晋に亡命
・成公16(BC575)年、鄢陵の戦いで献策し、楚を破る
国語(楚語上)だと、この四人。
①王孫啓(子元の子)
・荘公30(BC664)年、子元(当時の楚の令尹)の乱の際に晋に亡命
・僖公28(BC632)年、城濮の戦いで先軫に献策し、楚を破る
②析公
・子儀の乱に際し晋に亡命
・具体的な活躍は不明だが、楚を破ったらしい
(↑韋昭は、左伝と同じく繞角の戦いで活躍したと注している)
③雍子
・父兄が共王に対して彼を讒言したため、晋に亡命
・鄢陵の戦いで欒書に献策し、楚を破る
④巫臣
・夏姫をめぐって子反とモメて晋に亡命
・呉と通交して射御の術を教え、呉に楚を攻めさせる
だいたい同じですが、左伝と国語で違うのは、要は
・析公・雍子・巫臣の三人は共通だが、左伝は苗賁皇、国語は王孫啓を挙げる
・雍子が関与した戦いが、左伝では靡角の戦い、国語では鄢陵の戦いになっている
・析公の活躍が、国語では曖昧
…という三点ということになるでしょうか。
鄢陵の戦いの軍師というと苗賁皇!というイメージがあるのですが、国語だと、鄢陵の戦いの軍師は雍子!なんですね。国語の晋語の方にも鄢陵の戦いの描写はありますが、士燮さんが喋り倒してるのがメインで(エッ)、晋がどんな策で楚を破ったかは書いてないのです。苗賁皇の名も見えますが、不遜な我が子を追い掛け回すししょーさんを見てコメントしてるだけ…(笑)。
(2014.12.01)
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