『中国姓氏考』めも

王泉根(著)、林雅子(訳)『中国姓氏考』(第一書房)のめも。気になったところを箇条書きで。主に春秋関連のこと。[ ]内は自分の勝手な補足~。例によって自分用めもです。


●夏・殷・周の姓

『白虎通義』姓名篇・『論衡』怪奇篇に記載がある。

夏(禹)は「姒」姓、殷(契)は「子(好)」姓、周(后稷)は「姫」姓。禹の母は薏苡(よくい:ハトムギのこと)に、契(せつ)の母は燕の卵に、后稷の母は巨人の足跡に感じてそれぞれ子を身ごもった。


●舜・神農の姓

『説文解字』(姚字)に記載あり。舜(虞舜)の姓は「姚」だが、これはその一族がいた土地である「姚虚」から取った。また、『説文解字』(姜字)によれば、神農(炎帝)は「姜水」の近くにいたことから「姜」を姓としたらしい。


●「姓」と「氏」について

姓=血統を表し、女系を示す。

氏=勲功(周による分封)を表し、男系を示す。

…といえる様子。『説文解字』(氏字)の段.玉.裁注などにそう書いてあるっぽい。


●「氏」の決め方

漢の応.劭の『風俗通義』姓氏篇によれば、周代の命氏のパターンは9種類。

①号による氏 ②居による氏 ③事による氏 ④諡による氏 ⑤爵による氏 ⑥国による氏 ⑦官による氏 ⑧字による氏 ⑨職による氏


宋の鄭.樵の『通志』氏族略はさらに細かくて、32種類に分類している。

『通志』から主な例を挙げると以下の通り。


①国名を氏とするパターン:周の文王の第三子で「管」国に封じられた「管」叔鮮など。晋に封じられた唐叔虞は「晋」氏の祖らしい。


②採邑名を氏とするパターン:[この本では例に挙がってないけど、晋の卿によくあるパターンだよな…魏氏、韓氏、范氏とか。温邑をもらった郤至が「温」季と呼ばれるのもこれだよなー。]


③郷名を氏とするパターン、④亭名を氏とするパターン:③④は①に準ずるパターンかな…郷も亭も、与えられた爵位によって与えられる土地のことらしいので。(※「宗法封建制」なる周の制度に基づくと、郷=子爵の者に与えられる封土、亭=男爵の者に与えられる封土らしい。)


⑤地名(居住地の名)を氏とするパターン:封土を受ける資格がない人はこのパターンで氏を決めるらしい。傅岩という土地の人が「傅」氏を名乗り、橋山黄帝陵を守る人が「橋」氏を名乗るなど。


⑥姓を氏とするパターン:姚、姜、姫、子とかとか。


⑦字(あざな)を氏とするパターン:王父(祖父)の字を氏とする。父の字を氏とすることもある。[鄭なんかでよくあるやつ。鄭の子駟(名は騑)の子孫が「駟」氏とか、鄭の子国(名は発)の子が「国」僑(=公孫僑=子産)とか。]


⑧名を氏とするパターン:⑦の名バージョン。


⑨次(排行)・族(同族)を氏とするパターン:伯仲叔季がつくものなど。[魯の孟孫(仲孫)氏、叔孫氏、季孫氏とか?]


⑩官爵名を氏とするパターン:周の宣王のとき司馬職にあった程伯休父が「司馬」氏となるなど。[荀林父さんが中行の将だったから「中行」氏になったのもこれかなあ。]


⑪吉徳・凶徳を氏とするパターン:晋の趙衰が冬の太陽のようであったことから、その子孫が「冬日」氏を名乗ったとか(まじかー知らんかった…)、劉邦に仕えた英布が黥刑に遭ったことから「黥」布と名乗ったとか。


⑫技芸を氏とするパターン:龍を飼い馴らす「御龍」氏とか、俳優の「優」氏とか、シャーマンの「巫」氏とか。[巫臣はこれだなー。]


⑬事柄を氏とするパターン:漢の田千秋は、老いて体が弱く、車に乗って朝廷に出入りしたことから「車」丞相と呼ばれ、子孫も「車」氏を名乗ったなど。


⑭諡を氏とするパターン:楚の荘王の子孫が「荘」氏を名乗ったなど(そうなのかー)。


●庶民は氏を持たない

長沮・桀溺などは氏を持たない。それは彼らが貴族出身ではなく、氏を決めることがなかったためらしい(氏を持つのは貴族が多い)。


●姓についての記述

『国語』鄭語(祝融から出た八姓)、『国語』晋語(黄帝から出た十二姓)、顧炎武『日知録』(五帝から出た二十二姓)、史.游『急就篇』(漢代に130の姓があったという記述)、明の王.圻『続文献通考』(当時4657の姓があったという記述)など。


●姓氏制度の崩壊は秦のとき

秦の統一に伴い、各国の王子王孫は庶民となり、貴族出であることを示す(貴族だからこそ有する)氏は、その意味を失った。以降、姓と氏は区別を持たなくなり、人々は皆姓氏を得られるようになった(『通志』氏族略)。明の顧炎武は『日知録』で、「戦国以下の人より、氏を以って姓と為し、而して五帝以来の姓亡ぶ」と言っているらしい。


●子の命名は3か月後

上古、子供の命名は生後三か月または100日後に父親が行った。名づけは大切なことなので、それだけ時間をかけてじっくり考えたらしい。


●十干は太陽の名

言い伝えでは、古代には太陽が10個あり、それぞれ十干(甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸)の名で呼ばれていた。10個の太陽は毎日一つずつ順番に昇り、10日で一巡する(=旬)。よって、十干は「天干」ともいう。

夏・商(殷)の王族・貴族は太陽神を崇拝し、自らを太陽神の子孫とみなした。そこで、日名=十干を皇帝(王)の名に用いた。

(夏王朝)太康(=太庚)、仲康(=仲庚)、少康(=少庚)、孔甲、胤甲、履癸(桀王の名)など。

(商王朝)31人全ての王が日名を用いる。大乙(湯王の名)、帝辛(紂王の名)など。

(2018.04.29)

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