趙武の生年について

趙武の生年っていつなん?…と、いろんな記事を見てて不思議になったのです。矛盾する記事があることに気づいた…(今更)。ということで、突っ込んだ春秋話。


春秋の人の生年や年齢ってあんまり分からん気がするですが(少なくとも晋を見てる限り…)、趙武は生年を知る手がかりが複数ある人物なのです。


一番手っ取り早いのが『史記』の趙世家。BC597に、趙武の父である趙朔がいいがかりをつけられて誅殺された時、趙武は母親の胎内におり、その後間もなく生まれたとあるので、『史記』趙世家に従えば、趙武の誕生はBC597と特定できる。


さらに、これを後押ししうる記述が『国語』晋語にあるのである…。

趙武が成人の挨拶回りのために卿たちを尋ねるエピがあるのですが、その卿のメンツを見ると、趙武が成人した年、つまり二十歳になった時期を絞れます。

趙武が挨拶に行ったのは、欒書・荀庚・士燮・郤錡・韓厥・荀罃・郤犨・郤至の8人。で、『左伝』の記事をさらに参照すると、この8人が卿であったと考え得るのは、BC578~BC575に絞れる。

http://hachi.watson.jp/cn/cn-intro2.html

↑『左伝』から作ったこの表が参考になるかと思いますが(自作資料ですみません;)、この8人が卿であったのは、BC578の麻隧の戦いの後に趙旃が死亡した後(→その空位に郤犨が入る→上記の8人が卿となる)から、荀庚が死去する(=子である荀偃が後を継ぐ:BC575以前のいつか)までの期間となります。趙旃死亡年・荀庚死亡年が不明なので、年号の特定はできないのですが、『国語』+『左伝』から想定できるのは、最大でBC578~BC575。その間に趙武が成人して、件の8人に挨拶回りをしたと思われるのです。


で、『国語』+『左伝』から導き出せる趙武が成年したと推定できる期間と、『史記』趙世家の、趙武BC597誕生説を重ねると、BC578年でちょうど重なるのです(当時は数え年で年齢を数えると思うので、数えだとBC578年でちょうど二十歳)。


つまり、『史記』趙世家と『国語』+『左伝』の八卿在位期を重ねると、BC597(あるいはその後2,3年の間)趙武誕生説が導き出せるのです。『史記』趙世家の話は、後に生まれた説話と思われるので、史実的な信憑性は薄め。ただし、『国語』から推定できる生誕時期と重複するので、嘘っぱちとも言い切れない。


『史記』趙世家と『国語』を見るとそんな感じになって、私もこれが脳内定説だったのですが、これと矛盾する記事が『左伝』の中にあったのです…これを見つけてうおおおおとなってました。長くなったので、『左伝』の方の記事は明日に…。



…ちなみに、わざわざ『史記』の後に「趙世家」と付け足すのは、これと矛盾する記事が、同じ『史記』の晋世家の方にあるからで…。趙世家だと、趙氏が滅ぼされたのはBC597になるんですが、晋世家の方だと『左伝』同様にBC583ってことになってるのです…; 司馬遷は、内容の整合性を至上として書いてるんじゃなくて、当時伝えられていた伝承を、矛盾があるものも含めてできる限り多く残そうとしたのかなぁ…なんて、これを見てると感じます。

(2009.09.04)


*   *   *


さて、その『左伝』の説をば。


『左伝』襄公31年(BC542)には、魯の叔孫豹が、前年に趙武と会った時の感想として「趙武は50にもならないのに話がじじくさい(大意)」と述べている。この「50にもならない」が、叔孫豹が趙武に会った(BC543)時点のことなのか、彼が喋っているBC542の時点なのかが曖昧なところですが…会った時点での趙武の話ですので、趙武はBC543の時点で50歳未満だということになるんでしょう。ということで、BC543で50歳未満、つまり最大で49歳だと仮定して話を進めます。



ちなみに、『左伝』のこの箇所には、杜預先生のコメント(注と言え;)がついてます。杜預曰く、

「成二年戦於鞍趙朔已死於是趙文子始生至襄三十年会澶淵蓋年四十七八故言未盈五十」だそうです…正しく読める自信がないので原文を挙げる;


おそらく、「成公2年(BC589)、鞍で戦った時には、趙朔は已に死去していた(卿ズの中に趙朔の名がないのでそう考えられる)。とすると、趙文子(趙武)がその頃生まれて、襄公三十年に澶淵で会盟し(て、魯の代表の叔孫豹と会っ)たときには、きっと47,8歳であったと思われる。だから(叔孫豹が)「まだ50にもならないのに…」と言っているのだ」的なことだと思います…。

つまり、鞍の戦い(BC589の6月)の前に趙朔が死んでることになるから、趙武が生まれたのも鞍の戦いのあたりかそれ以前で、そうすると襄公30年(BC543)の時点で47,8歳だったんじゃね?っていうことを杜預は言っている。ちなみに、48歳(<数え年で)の方を取ると、趙武誕生年はBC590てことになる。



…さて、杜預先生はとりあえずさておき(置いちゃうのかよ)、自分はBC543のときに趙武49歳で考えてみます。ここから趙武の生年を逆算すると、BC591年ちうことになります。趙武の年齢はこれ以上にはならないので、これ以前に生まれていないことになり、つまり趙武はBC591以降に生まれたことになります。父の趙朔が死んだのが、BC589年6月の鞍の戦い以前とすれば、趙武が生まれたのはBC591~BC589の間。(BC588という可能性もなきにしもあらずですが…)


ということで、『左伝』襄公31年の叔孫豹の台詞からすれば、趙武の生年はBC591~BC589の間ということになります(結論)。



ここで、4日の日記の、『史記』趙世家、『国語』晋語、『左伝』から導き出せた趙武誕生年と比較していただきたい…


『史記』趙世家 →BC597

『国語』晋語+『左伝』から推測される八卿在位年代 →BC597~BC594

『左伝』襄公31年の叔孫豹の台詞 →BC591~BC589


明らかに、一番下が他と矛盾してますでしょう…。

そして私見では、一番下である可能性がとても低い。


と言いますのは、趙武はBC573に卿(おそらく新軍の佐)になってます。仮に趙武がBC591に生まれたとすれば、彼はたったの19歳で大臣になったということになります。まだ成人もしてないのに卿というのは非常に考えづらいことだと思うのです…。これでは『国語』のような成人挨拶回りもできない…趙武が成人する頃には、『国語』で彼が挨拶した8人のうち、5人(か6人)が既にこの世にいないことになるのである…。それに何より、叔孫豹のこの発言以外に、この説を支える根拠が見当たらないのである…。


ということで、叔孫豹の発言の中の年齢のみが、他とは明らかに矛盾しておるということになるのです。なので、趙武BC591~BC589誕生説は、信憑性が薄いという感じです。『史記』『国語』『左伝』から導き出せる結論はそんな感じです…。

(2010.09.08)


*   *   *


…と、一時は思っていたのですが、今はちょっと考えが変わってます;

それについては、次回の記事をご覧ください…上記の考察では、趙武の成人を20歳だと断定してかかっていたのですが、どうも20歳で成人とも限らないようで…; そうなると、趙武が19歳で卿となる、という話もありうる話となり、叔孫豹の発言に矛盾がなくなるのですよね…。。。

(2010.07)

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