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5月, 2022の投稿を表示しています

古代中国喪服まとめ(首服篇4)

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 喪冠の特徴の続きから、最後まで一気に行きますぜ~というか喪冠以降の冠の詳細が分からんので最後大雑把です…; 形状が特に分からんのですよね…いろいろ読んでると形自体は委貌と同じっぽいんですが、その委貌の形が論文だけではよく分からない。なので漢文大系『礼記』巻末の礼器図を参考にしてます。字が詰まってます。 冠の形に大きな違いがないので、最後は一気に片づけてしまった; 喪礼関連の言葉の説明(<十分にできる自信はないけども;)が最後あたりは不足気味ですみません; しかし小祥以降の儀式は具体的にどんな感じでやるのかよく分かってないのも事実…うおお; これで首服の変遷は終わり! ルーズリーフに論文の内容をまとめたんですが、首服だけでも15枚を要しています(図も描いてるので)。ここから先のメモはまだ取ってないので、絰帯とか喪の衣裳とかのまとめはだいぶ先になりそうです。

古代中国喪服まとめ(首服篇3)

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 ようやっと喪冠に到達~ 喪冠にも諸説ありまくりますが、おおむね鄭玄大先生の説に基づいてます。さすが三礼のメジャー注釈者や…。今日上げる部分は、喪冠の概要とその特徴①まで。 造りは極めて質素です。論文によれば、原初的な冠はこの喪冠に近かったのでは?とのこと。 特徴の②以降は明日上げられると思います。そしてこのあたりから諸説ありすぎてもう理解力が臨界点に達しており、次第に婉曲表現が増える予定です…(笑)。『儀礼』と『礼記』で書いてあること違う場合もそれなりにあるようで、もう訳がわかめになってくるんだよな…; ついったーへのリンクもブログから貼ってみました~(プロフのところ)。でもまだ使い方がよく分かってない…ホームに出るやつがTLってやつなんです??というレベル。いいねとフォローをちょこっと覚えました(笑)。ルールがよく分かってないので失礼があったら申し訳ないと思いつつもやらせてもらっています…。

古代中国喪服まとめ(首服篇2)

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 田んぼに水が入ってきれいな季節ですね…そしてトラクター渋滞の季節ですね…こんばんは(田舎あるある)。 さて、喪服の首服篇の続きです…が、前に上げたやつも少し手を入れたので上げなおし。 喪礼の中のどの状況の時にその状態なのかを分かりやすくしてみました。まだ喪冠に至ってないですが、喪冠の説明はけっこう大変かもしれない…。学者によって諸説ある様子だし。でも、なんやかんやで鄭玄先生が最強な印象がある(笑)。

古代中国喪服まとめ(首服篇1)

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 ちまちま読み進めていたちうごく古代の喪服関連の論文、主に冠に関する章をやっと読み終えた…冠(頭)のことだけでこんなにいろんな情報があるんすか…ってくらい情報が多くて整理が困難なことこの上ない; 前提として必要となる知識のレベルも高いし;; ちなみに、絰帯・衣裳・くつ・杖関連の各章がまだまだ残ってるじぇ!(バタ) でも、いろいろと面白い発見があるから頑張れる…亀の歩みだけど。 で、少しずつまとめていきたいと思ってます。とりあえず2ページ分描いてみた。 …まだ喪冠に至ってませんが、とりあえずできた分だけ小出し。小斂(しょうれん)とかの喪礼用語については、 以前上げたこちらのページ が参考にできると思います。冠関連の情報は一通りまとめてあるので、少しずつ更新できるかと思います。そこから先はいつ更新できるか分からない;; 『礼記』の喪礼めもは、こちらの論文で喪服の基礎を押さえておかないと手を出せない気がするので、後回しになると思います(少なくとも衣裳の章を読むまでは描けないと見ている)。 以下徒然。 なんとなくついったーのアカウントを作ってみた。閲覧が主目的ですが、少し発信もしていくかも。 そもそも今までついったーをやらなかったのは単に「恐ろしいツール」だと思ってたからです(それは今も変わってません)。どこが怖いかというと、1.自分のおバカがバレがち(笑) 2.発信した内容が元来の文脈を離れて(時に恣意的に)別の文脈に組み込まれ、自分の手が及ばないところで勝手に暴れ始める可能性がある というのが主な点。1についてはまあ今更なんですが(笑)、それが2と複合するのが怖いって感じです。 気が変わったのは、「発信した内容が根無し草にならないようにすればいいのでは?」と思い始めたから。載せる情報を独立させず、このブログやサイト、ぴくしぶの更新案内として使えばいいのでは?と思ったのです。自分で発信する情報に制限を設けておけば、それでいいんではないかと。今時、個人サイトをめぐってこられる方もあまりいらっしゃらないと思うので、そちらへの誘導として使うならアリかな?…と。いわゆるつぶやきはあまりやらないと思う。ついったーだけど(笑)。 …とはいえ、使い方が分からんのだよなー(笑)。基本的な用語もよく分かってない; ある程度体裁を整えられたら、こちらのブログとかぴくしぶの方についったーへのリ

わからん.html

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 …という名前のファイルを見つけましてね…だいぶ昔に作ったやつで、一体何かと思ったら、 欒盈の年齢が、平陰の戦い(欒盈が卿として左伝に登場する年)のときに弱冠20歳だとしたら、母の欒祁とか、祖父の士匄(欒祁の父)の年齢の見当がつくのでは?ってことを考えてみたやつ だった…。 詳細はリンクをご覧いただければと思うんですが、なかなかおもろい結論になったんですよね…士会が秦に亡命中に士匄(士会の孫)が既にいるとかね…(笑)。そんなことあるん?と思って、そんな謎のファイル名にしたんだと思う。 その中でも個人的に興味深かったのが、鄢陵の戦い(BC575)の頃は既に欒黶(欒書の子)と欒祁(士匄の娘)が結婚している可能性が高いこと。鄢陵の頃には既に欒氏と范氏が通婚してるってことですね。そうすると、『左伝』や『国語』の鄢陵の戦い前後の記事で、たびたび「欒范」と二氏が並称されるのも分かる気がする。二氏が通婚してるから、ワンセットのように扱ってるのかも。 そうなると、君主の厲公からするとかなり脅威だよな…人臣一位の中軍の将(欒書)と二位の中軍の佐(士燮)が強いつながりを持ってるんだから。欒書だけじゃなくて士燮もそら目の敵にするよね…。ししょーさんが自らの死を祈ったのも、厲公に敵意を向けられてるのが分かってて、でも既にできた欒氏とのつながりを無視することもできないから、そうする以外に范氏の安寧を保つ方法がない…ということなのかもしれない。 厲公が牙を剥いてきたら、欒書に与するほかなく、自分の手を、そして范氏の名を汚すことになる。万一姻戚関係を無視してでも道理を貫き、弑逆への加担を拒んだとしても、厲公はいずれにしろ邪魔な范氏を根絶やしにするはず。よしんば根絶やしにされる前に欒書が厲公を弑し、范氏が族殺を免れたとしても、欒氏との間に大きな禍根が残る。あの執念深い欒書に憎まれれば、場合によっては郤氏の二の舞になるかもしれんし。いずれにしても最悪なことになるのは想定できる。そうならないためには、厲公や欒書の手が及ばない場所、すなわち黄泉に赴く他なかったのかも。 まあ、息子の士匄は欒書や荀偃から「厲公弑殺に手を貸せ」と誘われるんですがね…。でも、士燮の死が、士匄がその誘いを断る理由になり得るのではないか…と、個人的に妄想しています。つまり、士燮が士匄(広くは范氏)を守ったんじゃないかっちうことです