古代中国喪服まとめ(首服篇2) リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ - 5月 22, 2022 田んぼに水が入ってきれいな季節ですね…そしてトラクター渋滞の季節ですね…こんばんは(田舎あるある)。さて、喪服の首服篇の続きです…が、前に上げたやつも少し手を入れたので上げなおし。喪礼の中のどの状況の時にその状態なのかを分かりやすくしてみました。まだ喪冠に至ってないですが、喪冠の説明はけっこう大変かもしれない…。学者によって諸説ある様子だし。でも、なんやかんやで鄭玄先生が最強な印象がある(笑)。 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
欒書が下軍の将→執政に特進した件のmousou - 9月 04, 2022 鞍の戦いの頃、欒書様は第五位の下軍の将だったのに、郤克没後にいきなり執政に上がった件についていろいろ考えたことまとめ。 晋では六卿に空位が生じた場合、その下位の人が繰り上がるのが基本なので、郤克がいなくなった後に執政になるのは、順番でいえば荀首のはずなのです。なのに荀首が執政にならず、また欒書より上位にいた荀庚・士燮もまた執政にならずに、自分より下位だった欒書を執政に上せたのはどういうことなのかなーと考えたりしました。 ということで、荀首・荀庚・士燮各人についてその理由を考えてみますた。 ■荀首さん 荀首は邲の戦い(魯宣公12年)の際は下軍大夫で、欒書は下軍の佐だったのですよね。欒書は人臣第六位の卿、荀首は卿ではなく大夫にすぎない。よって、かつては欒書が上位、荀首の方が下位。 それが、鞍の戦いの頃(魯成公2年)には、荀首は中軍の佐(2位)、欒書は下軍の将(5位)。荀首が異様な昇進を遂げているんですが、『左伝』成公2年の巫臣の言によれば、荀首は晋の成公の寵臣で、かつ赤狄潞氏を滅ぼす功を立てた荀林父の弟なので、成公(魯宣公9年=BC600没)の子である景公が特進させたのかもしれない。 荀首は邲の戦いにおいて、楚の連尹襄老(当時の夏姫の旦那)を射殺し、公子穀臣を捕らえる功を立てているので、その褒賞の意味もあるのかもしれない。あの惨敗の中で上軍を無傷で撤退させた士会・郤克に次ぐ働きと言っていいように思う。それもあって異例の昇進をしているのかも。 郤克の死後、その時の順位でいえば荀首が執政になるのが順当だし、荀首はそれに堪える人物だとは思うのですが、かつては欒書が自分の上官だったこと、自分がこの地位にあることがそもそも異例であること、あるいは自分の子(荀罃)が楚で虜囚となっていることから、執政になることを辞退し、欒書を執政に推したのでは?と思います。 ■荀庚さん 荀庚についてはぶっちゃけよく分からない…とにかく影が薄い…。上軍の将(3位)だけど、戦があれば上軍を率いるのはたいがい上軍の佐の士燮だし…(成公2年の鞍の戦い、成公4年の許救援然り)。 荀庚は戦が嫌いなのかも。荀庚は邲の戦いの時、父の荀林父とともに中軍にいたのではと思う。晋の卿大夫は戦の際に息子を帯同することもけっこうある様子なので…邲の戦いの荀首・荀罃、同じく郤克・郤錡(文中の「駒伯」を郤錡とするならば成... 続きを読む
欒書の墓のはなし - 4月 01, 2011 『捜神記』 (巻15)に 欒書の墓 の話が載ってるらしいですよ! 漢の広川王(去疾)は墓荒らしが趣味(…)で、あるとき欒書の墓を掘り返した。棺や明器の類は全部腐ってたり壊れたりしていた。と、中から一匹の真っ白な狐が飛び出してきたので、取り巻きが追いかけてその左足に切りつけた。するとその晩、広川王の夢の中に、眉も髪も真っ白の男が現れて、「何故私の左足を傷つけたのだ!」と言って、王の左足を杖でぶった。目が覚めると、ぶたれた場所にはれものだか何かができて傷ができ、まもなく亡くなったらしい。あの狐が欒書だったのかな…? この話は 『西京雑記』 にもほぼ同じものがあるようです。『西京雑記』だと、広川王は他にもいくつもの墓を暴いているのですが(袁盎や晋霊公も被害者)、欒書の墓を暴いた後に欒書様に祟られて亡くなったもよう。らんしょさまつよい。 (2008.07.17) 続きを読む
構図が浮かんでしまった - 8月 08, 2024 前回「次は花京院を描きたい」と言っていたのは何だったのか… 構図が降りてきてしまったんや…。審判戦前に変装(できてない)アヴさんが飼ってたにわとりたちの行方がちょっと気になる。あのアヴさんのセリフだと美味しくいただく気満々な雰囲気なのですが、食べたのか、どうなのか…。 頭に構図がパッと浮かぶことはあまりないのですが、描きたいものとか構図が他にもできてる…自分にしては珍しい…。ジョジョ絵も描けるだけ描いておきたいのですが、今月は他にも描かなきゃいけないものがあるので、そちらの準備もそろそろしていかないと…資料集めから始めよう…。 先日買った古代エジプトの本を読了しました。面白かったです。 古代エジプトの人々は、人間の手が届かない空を自由に飛ぶ野鳥を神聖視→神格化する傾向があるようですね。確かに、ホルス神やトト神みたいな鳥頭人身の姿の神が多かったな…。頭部が鳥で身体が人って魔術師の赤やん…と思って、ほーん…と妙な納得感があったりしました。エジプト出身のアヴさんっぽいスタンドすぎる…。 ファラオたちはホルス神の末裔(一部例外あり)とされ、ホルス名という名前も持ってるらしい、というのが面白かった…ホルス神すげい。ホルス神(ペトショ)を抱えてるDIO様ってまさに王やん…。 九栄神の元ネタと思われるヘリオポリス九柱神についてもなんとなく分かりました。ヘリオポリスってのが、下エジプト(ナイル川下流のデルタ地帯のあたり)の信仰の中心地で、その神話の中で原初にあたる九柱の神をそう総称するみたいですね。 三部の舞台は下エジプトだけではなく上エジプト(ナイル川のデルタ地帯より上流のあたり)も含むので、ヘリオポリスの九柱そのままを使う訳ではなく、その他の有名な神も入れて9人にしたのかな…などと勝手に妄想してにこにこしています。 ルクソールって昔のテーベのあたりなんやね(にこにこ)。遺跡の紹介を見て、「これジョジョで見たやつ!」がちょこちょこあって面白かったです。 続きを読む
邲の戦い雑感 - 4月 15, 2011 ちまちま春秋メモを取っていて、昨日今日は邲の戦いのあたりを見てましたが…士会かっこよすぎるやろ…。あと楚の荘王様がカリスマすぎて眩しい。左伝の宣公年間って、楚荘王年間って感じやー、荘王が中原をゆさぶりまくっている…。 今更気づいたことなのですが、邲の戦いの前の年(BC598)の秋まで郤缺が出てきてるので、BC598の秋から邲の戦いがあったBC597の夏の間に郤缺が亡くなってるということですよね。執政だった郤缺が亡くなったから、郤缺に代わって荀林父が執政になって邲の戦いを迎えた、と。郤缺の子である郤克は、父が亡くなってから1年も経たないうちに上軍の佐になって、士会と一緒に軍を率いてるってことなんですよね…。ちょっとけなげやん…と思って、郤克にきゅーんとなりました。鞍の戦いの前後は滅茶苦茶だけど(笑)、邲の郤克ってけっこう切れ者な発言をしてますよねー、やっぱりホントはできる子なんだよ~。 しっかし、もし郤缺がもう少し長生きしてて、執政が郤缺のままこの状況を迎えていたらどうなったんだろう…。郤缺なら先コクなんかのアホに勝手をさせることもなく、楚と戦わずにきれいに引いて、無様な敗北を喫しなかったんだろうか…。 でもなー、荀林父さんがここで大負けして、士渥濁のお蔭で命拾いして、その後狄と戦って、狄の中でも一番鬱陶しそうな潞氏を滅ぼして宰相の鄷舒をも死に至らしめて名誉挽回してるのも好きなんだよなぁ…。荀林父さんがすごい頑張ってる感じがして…。邲での苦過ぎる思い出と、狄相手に果たした雪辱がなければ、本当に押しの弱い地味ーな人で終わっていた気がする…。たぶん、荀林父の雪辱話がなければ、私はこの人を大いにスルーしてると思う。息子の荀庚と同じレベルでスルーしてると思う。荀庚はマジで地味だよなぁ…長らく士燮の上司をやってたのに(けっこう長い間上軍でコンビだった)、表に出てくるのは士燮ばっかりや…(涙)。…ちうか、そもそもこのサイトでもほとんど荀林父は出てこないんですけどね…(汗); その、周りが派手すぎるんですよ…! 趙盾や郤缺や士会に全部持って行かれてしまうのですよ…。 (2011.09.16) 続きを読む
スリリング通勤 - 1月 08, 2022 …この冬の雪が半端ないんですが(憤慨)! もーー何回車の雪下ろしをしてるんだ…出勤も早くしないといかんし切ない。いつもの倍の時間がかかるよ! 道路は下手したらテッカテカ(時々ガッタガタ)のアイスバーンだし…車に乗り始めたころにアイスバーンで止まれなくなった経験もあるので恐怖しかない。四駆とスタッドレスを過信してはいけない。ちうか、仕事場の玄関ですっ転んだのが切なすぎて思わず愚痴りたくなったのです…遅刻しそうで焦ってたら尻餅をついてしまった…正月でもその餅はいらん。まだ腕や足が痛い(涙)。 愚痴はさておき、先日の 『礼記』の名付けのルール の件の補足。『国語』をなんとなく見てたら、それに少し関連する記事を見つけたので。 士鞅が魯に行った時に名山の話をしたところ、その山の名が魯のだいぶ前の君主の名前と同じで、思いがけず魯の先君の諱を犯すことになってしまい、赤っ恥をかいた、という話が『国語』(晋語9)にあったのです。名付けの際には山や川の名を避けるべき、と『礼記』にもありましたが、こういう事態が起こると困るから、ということなんでしょうね。ってか、礼にうるさそうな魯の国の君主の名が『礼記』の説くルールから外れてるのか…名付けのルールは、当時からけっこう形骸化してたのかもしれない。 あと、名には傷や痣を用いてはいけない、というルールもあったけど、欒書の子の欒黶ってこれに該当する? 黶=ほくろ・黒い痣、の意味なので、同類になりそうな気もする。傷や痣は「隠れたもの」については名として使っちゃいけないという条件はあるんだけど、欒書様は何を思って我が子に「黶」なんて名をつけたんだ…生まれながらにして余程特徴的なホクロでもあったんだろうか。でもホクロなんて名前をつけられたらちょっと切ない気持ちになりそう。もし欒黶をデザインするならホクロは必須ですね。 続きを読む
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