近頃喪礼が旬な理由(2)
では、士匄くんが三年の喪に服することを、誰かの誘いを断る理由にすることもできるししないことにもできる、と考えた理由について。
三年の喪の流れについては以前簡単にまとめたことがあるので、まずはそちらをご覧ください…。そちらで使った言葉を割と説明なしに使いますのでご了承くらさい…。
士匄くんにあてはめてみると、弑逆に加担するよう欒書らに声をかけられたのはBC574年閏12月くらいのことだと思われます。で、父(士燮)が没したのは同年6月9日なので、6月を服喪1ヶ月目とすると、閏12月(=2回目の12月)は服喪が始まって8ヶ月目に当たるかと思われます。
三年の喪の段階でいえば8ヶ月目というのは、卒哭・祔祭(=卿大夫は死後5か月目に行う)を終えた後、小祥(練祭に同じ。死後13ヶ月目)の前になります。三郤が誅殺されたり欒書らが弑逆を考えたりしている時点で、士匄くんが置かれている状況がこんな感じ。
『中国古代喪服の基礎的研究』によれば、この時期はまだ斬衰(ざんさい:三年の喪に服する時に着る麻の喪服)を着ています。殯(ひん:死後3日目の仮埋葬)の後、葬(卿大夫は死後3か月後)を終えるまで着ている服よりは少し布の密度が高い(質がマシな)喪服(受服というっぽい)を着ていますが、服喪の真っ最中の時期ではあります。
では、この時期に出仕したりしていいものか? ということですが、それに関係ありげな『礼記』の記事を以下に挙げられるだけ挙げてみます…見落としとかがいっぱいありそうなんですが;
・三年の喪に服する者は、大祥(死後25ヶ月目の除喪の儀)が終われば政に従事する(『礼記』雑記下)
→基本的なルールは多分これ。が、『左伝』などを見るに父の死後1年程度で仕事をしてることが多いっぽいので、実際は2年以上も仕事をしないことはないと思われる。
・子夏が孔子に「卒哭が終わったら軍事を避けないのが礼でしょうか?」と尋ねると、孔子は「魯の伯禽は、卒哭を終えてから戦に出たと聞いている…」云々(『礼記』曾子問)
→卒哭の後は、軍事のようなやむを得ない事情があれば、それに従事してもいいっぽい
・大夫や士は、葬(死後3ヶ月目)の後に公命があれば、卒哭(卿大夫は死後5か月目、士は3ヶ月目)を終えれば絰(てつ:喪を示すもの)を身に着けて従事し、軍事も避けない(『礼記』喪大記)
→公の命令があれば、卒哭の後にそれに従事することがある
・小祥(死後13ヶ月目)を終えれば、まだ人と交わらないが、君主はその人に諮問してもよい(『礼記』喪大記)
→小祥の後は少しずつ政務に携わってもいい感じ?
…他にもあるかもなんですが、基本的には卒哭を終えるまでは服喪に専念し、卒哭が終われば、やむを得ない事情があれば政務に関わることができ、小祥が終われば喪が軽くなるので割と本格的に政務に関わっていい…という感じなんでしょうか。
なので士匄くん的には、欒書らの誘いを「やむを得ない事情」と認めれば、卒哭を終えているので受け入れてもいい。しかし、「やむを得ない事情」に当たらないと見做せば、小祥を終えていないのでそれを口実に断ってもいい。どちらの判断もありうるのではと思っています。
今度はししょーさん視点?で、もうちょっと続けます(まだ続くんかい;)。
コメント
コメントを投稿