近頃喪礼が旬な理由(1)
喪服や喪礼についていろいろ調べてますが、そもそもの原因はししょーさんな気がします。話すと長くなりますが、ちょっとメモっておきたい…。
こちらにお越しの方には耳タコ(目タコ?)ですが(笑)、鄢陵の戦いの後、勝利が原因で国難が起こると予見した士燮は、その難を避けるために自らの死を祈り、鄢陵の戦いから約一年後に卒しています。
自らの死を祈ったのは士燮だけではなく、『左伝』にはもう一人、魯の叔孫シャク(叔孫昭子)がいます。彼については自分の守備範囲外で詳しいことは分からないのですが(コラ)、左氏会箋の注なんかによれば、季孫意如が魯の昭公を追っ払ったのに、執政としてそれをどうにかできなかったのを悔いて死を祈ったらしいです(『左伝』昭公25年)。ちなみに士燮も叔孫シャクも、ともに戊辰の日に亡くなるという謎の共通点があります…。
叔孫シャクは、祈ってから七日後に亡くなってるのですが、士燮の方は一年近く経過してるんですよね…(鄢陵の戦い:魯成公16年6月29日→卒:魯成公17年年6月9日)。叔孫さんと比べるとだいぶ遅くないか…? と思ったりしたのです。死を願ってる割には遅いんじゃないかと。
となると、遅いのには何か理由があるのでは? なんて考えたりする訳です。ししょーさん的には、自分自身は死によって難に巻き込まれずに済みますが、息子の士匄はそういう訳にはいかないんですよね…実際、厲公を弑するにあたって欒書・荀偃に誘われてますし。「范氏之福」(成公17年)のためには、士匄を巻き込んでもいけない…。遅い理由はそこにありそうな気がしたのです。
士匄を難に巻き込ませないようにするためには、誰に「手を貸せ」と誘われても、士匄が断れるように、その口実を与えておかなければならない。韓厥のように実績がいろいろあれば断れるんでしょうが(ちうか『国語』では韓厥すら荀偃がやっちまおうとしてるからな…;)、実績がない士匄が偉そうに断ることは難しい。何かしら、断るための理由が必要となるはず。
その理由として使えるのが「三年之喪」、即ち父の喪に服することなのでは。つまり士燮は自らの死を用いて士匄に三年の喪に服させ、それを理由に難を回避させようとしたんでは?とか考えてみたりしたのです。
…で、この考えが成立するのか???と疑問に思い、『礼記』を読んでみたり、いちまんえん超えの論文集を買ってみたりして、三年の喪について調べておるところなのです。
今のところの自分なりの結論を先に言うと、三年の喪に服することを断る理由にすることもできるし、しないこともできる。その判断は士匄次第、という感じです。
…まだまだ長くなりそうなので、とりあえずここでいったん切ります; 続きはまた後程。
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