趙盾さんについてつらつら(2)

 『左伝』から見た趙盾の妄想いろいろの続きです。


●河曲の戦い

晋が三軍フル出陣したのに、秦にいた士会に好き放題やられたアレです。ちうか士会が晋の人たちの内情を知りすぎてて怖い…持久戦の提案者が臾駢とか、趙穿の性情とか、趙盾が(理由が謎だが)趙穿を気に入ってるとか、趙穿が臾駢を嫌ってるとか…どういう情報収集能力してるんです??

で、それらの情報を利用した士会の策にまんまと嵌った趙穿が突出し、趙穿を秦に捕らえられるわけにはいかないと考えた趙盾が全軍を出して、晋が望んでいた持久戦を捨てる羽目に。しかも無事帰還した趙穿はその後もやらかし、秦軍を追撃する機会を逸してしまう…疫病神すぎるやろ;

以上は『左伝』の河曲の趙盾の話ですが、『国語』では韓厥との話も載ってるんですよね…。趙盾がわざと自分の車に軍列を乱させたところ、趙盾の推薦で司馬となった韓厥がその車僕を刑に処す…で、その公平な処断に趙盾が満足し、「私が韓厥を司馬にしたのは正解だった!」などとめっさ褒めた話。この時の趙盾の韓厥の呼び方がなかなかにおもろい…「厥」と名で呼んでみたり、「女(なんじ)」という二人称で呼んでみたり…自分の子を呼ぶのと同じような呼び方なんすよ…(士会も士燮を「女」「爾」などと呼んでる)。趙盾は韓厥を我が子同然に養育してたのでは?などと思ってしまう。後々韓厥が趙氏に肩入れするような言動をするのも納得。趙氏と韓氏の強靭な紐帯を作ったのは趙盾ですな。

…で、翌年に諸浮で六卿で密会して「秦の随会と狄の賈季をどうすればよい?」と他の卿に諮り、郤缺の提案で士会を連れ戻すことに。このとき、みんな士会を「随会」と名呼びするのに賈季(狐射姑)を字呼びするのはなんなんや。あと、郤缺が士会の性格をめっさ的確に言い当ててるのはなんなんや…士会が秦に亡命する前に仲よかったんか??というレベルの深い理解。


●謎外交

魯文公14年以降は趙盾の外交話がそれなりに出てくるんですが…何をしたいのかよく分からないことが多い; 趙盾が、というよりは、晋が何をしたいのかよく分からん;

①(文14年)邾の文公の後継争いで、文公の子の一人である捷菑(生母が晋の人)が晋に逃げ込んでくる。彼を新君に立てようとした趙盾が諸侯の軍を率いて邾に乗り込むんだけど、邾の人が「年長の子である貜且を立てちゃったので…」というと「なるほど」と言ってそのまま帰っちゃう。捷菑「え…???」諸侯「え…??」というリアクションが目に浮かぶ。

②(同年)周王室内の揉め事(周公vs王孫蘇)をうまいこと調停したりもする

③(文15年)扈の盟。斉に攻め込まれた魯が晋に助けを求め、晋・宋・衛・蔡・陳・鄭・許・曹が、斉を攻めようとして集まったんだが、斉から賄賂を貰って斉を攻撃せず解散。魯は憤慨。文公16年に魯は斉と同盟することになる…。

④(文17年)文16年に宋の昭公が弑され、文公が擁立される。荀林父が衛・陳・鄭の兵も連れて「なぜ昭公を弑したんだ!?」と宋を咎めに行って、「うん、文公でいいよね」と文公の即位を認めて帰ってくる…何しに行ったんだ。宣公元年の記事によれば、この時宋から賄賂をもらったらしい…いよいよ何しに行ったんだ。『国語』(晋語五)だと趙盾が「天に代わって宋におしおきしないといけません!」的なけっこうかっこいい意気込みを見せてたのに、その結果がこれなのか;

⑤(同年)宋と講和しよう!と再び諸侯を招集。魯は斉に攻め込まれてそれどころではなく、同盟には不参加。この時晋は、「鄭が楚と通じているのでは…?」と疑い、鄭伯と顔を合せなかった。鄭の子家は、「今までこんなに尽くしてきたのに(確かに、何しに行ったかわからん晋の行動につきあってる…)こんな仕打ちヒドイです!」と趙盾に訴えたところ、同盟を結んで趙穿(問題児)なんかが人質になった。正直、鄭の気持ちは分かる…。

⑥(宣公元年)鄭が「もう晋にはついていけません!」と楚につく。気持ちは分かる。一方、楚に無礼をはたらかれた陳が、楚に叛いて晋につく。で、楚の荘王が陳・宋に侵攻した際に趙盾がそれを救援。そのまま棐林で宋・陳・衛・曹の軍と合流して鄭を討伐するものの、楚の蔿賈と遭遇して解揚(晋の大夫)をお持ち帰り(…)されたりする。


●趙盾弑其君

霊公は自分の御殿に彫刻を施しまくったり、他人(公羊や穀梁では大夫)に向かってパチンコ玉をかまして楽しんだり、熊の掌料理の煮込みが足りんと料理人を殺してみたり…と、とんでもない暗君に成長…。。。かなり強引に擁立した君主がこのありさまでは、趙盾も責任を感じていただろうと思われる…で、霊公に対して諫言をしまくるのだが、これが逆効果になっていく…。天邪鬼な中学生みたいな相手に大人が正論を押し通そうとしても、まあ、聞かないよなあ…。

趙盾がうるさいと腹を立てた霊公は、いよいよ趙盾を除こうと画策し、刺客の鉏麑を送り込む。が、まともすぎる刺客である鉏麑は、未明に既に出仕の準備を終えて仮眠を取っていた(公羊だと、堂の下で質素極まりない朝食を取っていたらしい)趙盾の姿を見て暗殺することができず、進退窮まって自害。この話、いかも趙盾らしいというか…衷心から社稷の為に尽くしてる人なんだけど、まじめすぎるというか不器用なのか、それなりに裏目に出るんだよな…。この社稷の臣ぶりが、霊公をキレさせもすれば、自分を殺そうとした刺客の刃から自分を救ったりもする…

刺客を使った暗殺が失敗に終わったので、霊公はいよいよ手ずから趙盾に引導を渡そうと、兵を伏せた宴の席に趙盾さんをご招待(怖)。一度殺されそうになってるにもかかわらずのこのことご出席の趙盾(…)。…ちうか、趙盾は殺されそうになったのを知ってたのかどうなのか…知ってて足を運んでたらなかなかやでえ…。この後の提弥明(趙盾の車右)の反応からすると、提弥明も宴に臨席するまで危険性に気づいていなかった様子なので、鉏麑の暗殺未遂は知らなかったのかな…。

宴の途中で「どうもきなくさい」と気づいた提弥明が、趙盾を宴席から脱出させると、霊公は猛犬をけしかけて趙盾を殺そうとするが、提弥明がその犬を撲殺。この時の趙盾のセリフがまた、趙盾らしいというか…。「ここまで尽くした私を殺そうとするとは…」と霊公の人格を非難する言葉の一つでも出そうなものだが、趙盾が言ったのは「人を捨てて犬を用いても役に立ちません!」ですよ…なんかピントがずれてるというか、なんというか; 結局趙盾って、自分に殺意を向けた霊公に対して、「犬を用いた」という事実は非難するけど、霊公の人格を直接的に非難しないんですよね…。それだけ霊公のことを信じていたのか、それとも、霊公への非難がそのまま、霊公を立てた自分にも向かうように感じたのか…。

しかし、これだけ尽くしてきた霊公に殺されそうになるって、どんな心境だったのかと…。自分は善意の限りを尽くして仕えてるのに、それに対する霊公からのねぎらいは一切なく、却って悪意として跳ね返ってくるんだから、なかなかに精神がしんどくなりそう…。霊公視点で見れば、趙盾のその善意が腹立たしいものに見えるのかも、とも思うけど…。趙盾が厲公に尽くすのは擁立した責任を取ろうとしてるだけで、霊公自身のことを大事に思ってるとかそういうのではないとか感じてるのかもしれない。とにかく趙盾個人に対する純粋な憎悪が半端でない…。

で、霊公はさらに、伏せていた兵に趙盾を攻撃させ、提弥明は趙盾を守って命を落としてしまう。いよいよ大ピンチに陥るのだが、霊公が伏せた兵の中に、かつて趙盾に救われた霊輒がいて、彼が趙盾を守って危地から脱出させる。鉏麑といい霊輒といい、趙盾の普段の心掛けが趙盾の命を救うことになるんだよなあ…根は情け深いんだろうなーと思う。提弥明にしても、彼にとって趙盾は命を懸けるに足る主君だったということなんだろう…。結局趙盾は、霊公の人格を非難せず、霊公にも刃向かうことなく、亡命をはかろうとする。

…が、亡命する直前に、この事件を聞いてキレた趙穿が厲公を弑したという情報が趙盾に届くのですよね…やらかし王趙穿が、ついに弑君までやらかしてしまうことに; これで趙盾は亡命をとりやめて朝廷に戻ってくるんですが、趙盾を待ち受けていたのは「趙盾其の君を弑す」の公示。霊公に刃向かわなかったのにこう書かれては、趙盾としても心外だろうな…と思う。こう書いた史官の董狐を責めるのもなんかわかる。でも董狐に「下手人(趙穿)を罰しもしないあなたが弑君の責任者でなければ何なのか」と正論を返される。確かに董狐が言う通り、何故さんざんやらかしてる趙穿を罰しないのかは謎。董狐の言葉を返せば、趙穿を罰しさえすれば趙盾は弑君の汚名をかぶらずに済むのに、そうしない。自分が弑君の汚名を受けてでも趙穿を守ろうとするのは意味が分からん…。

これだけでも意味が分からないのに、新たな君主(成公)を迎えるために趙穿を使者に立てるのは最強に意味が分からない…。。。霊公を弑した張本人に、新たな君主を迎えに行かせる料簡が意味不明の極みすぎる…。趙盾て何考えてるかよく分からん時がままあるのですが、これは本当に意味が分からない。君主を殺すような奴に迎えられた成公も困惑しきりだったのでは…。

その後趙盾は公族に関する制度を整理し、自分は公族(各氏族の嫡子)から降り、その座を趙括に譲る。趙括は趙姫の子で趙盾の異母弟にあたり、趙姫が特に愛していたという子。趙姫への恩返しなんだろうな…趙姫がとりなしてくれなければ、趙盾は一生を狄の地で終えていたんだろうから…。…で、いかにも引退した雰囲気を醸し出している趙盾さんなのだが、その後の宣公6年にも名前が出てくるので、なんやかんやで執政を続けてたのかもしれん。

それに、趙盾は公族を趙括に譲ったものの、その後趙氏の嫡流として認められ、卿に取り立てられたのは、趙盾の子である趙朔なんですよね…趙朔を卿に取り立てたのは郤缺さんなんですけど(宣公8年)。郤缺は趙盾が執政になったばかりの頃、「あなたに褒められる徳は一つもないです!」なんて言ってましたが(笑)、なんやかんやで、郤缺も趙盾を認めてたらいいなーとか思ったりする。


…おそろしく長くなりましたが、趙盾語りは以上です! メモを兼ねてるとはいえ、自分でもこんなに長くなるとは思わなかった…。

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