最近のついったでの春秋話まとめ
まず富山行ってきました! 高速で県外に出たのは初めてでドキドキ(笑)。美術展もいろんな作品があって楽しかったし、ヒスイ海岸の石拾いも面白かったし(見たことがない石がいっぱい)、宿の料理がめっさ豪華で(カニがまるまる一杯出てきて、貧乏人の自分は食べ方が分からず女将さんに教えてもらった…)充実でした…。
さて、最近ついったの方で、春秋がらみの有用な情報をいろいろ見聞きできたので、こちらに簡潔にまとめておきたいと思います。最近はマニアックすぎる注疏話ばかりしている気がするのですが(汗)、それが分かってしまうマニアなふぉろわさんがいらっしゃるから、ついつい深掘りしてしまう…ありがたや。
■戦車は三人乗りとは限らない
戦車は車左・車右・御者の三人乗りというイメージなのですが、四人乗りする場合もあるらしい! 四人目(駟乗というらしい)は車右と同じはたらきをするようで、『左伝』文公11年、魯の叔孫得臣が長狄を討伐した際、叔孫さんの車に四人目の富父終甥が同乗している。長狄僑如を捕えたあと、富父終甥が戈で僑如を討ち取っていることからも、戈を持ち車右と同様の役割をしていたことが窺える。
駟乗のはたらきが分かりやすいのが『左伝』襄公23年。斉が衛に侵攻した際、斉軍の最後尾の戦車が四人乗りになっている。おそらく、後方への攻撃力・防御力を上げる意味で、車右と同様の働きをする駟乗が同乗するんだろうなーと思う。
…しかし、畳一畳程度の床面積しかない車に男四人が乗り込むなんて…すごく狭そう…。しかも各々が御したり射たり戈を振り回したりするんですよね…身動きとるのも大変そう;
■魯の三桓とかの諡号呼びが謎すぎる問題
魯には仲孫・叔孫・季孫・臧孫さんなどがいらっさるのですが、その諡号呼びが謎。以下例示しますが、
・叔孫豹→叔孫穆子(わかる)
・季孫行父→季文子(「孫」はどこ行った…)
・臧孫許→臧宣叔(同上。臧孫さんちは最後に「子」じゃなくて伯仲叔季がつきがち)
・仲孫蔑→孟献子(孫どこ行った…というか仲孫が孟孫になるの何…)
という感じ。仲孫さんちの意味不明感がすごすぎる…。
まず、魯の〇孫さんたちは、諡号呼びになると「孫」が落ちがち。叔孫さんちだけ「孫」が残るのは、似た氏の叔仲氏との区別のためだとお聞きしてなるほど感。
仲孫が孟孫になるのは、仲孫氏の祖である慶父が原因っぽい。諸注をいろいろ見ると(詳しいのは『左伝』荘公2年の孔穎達疏かな…)、慶父は魯の荘公の庶兄で、字は「孟」とすべきなんだけれども、なんやかんやで(<疏を正確に読めない;)荘公の弟であるという立場を表明するために「仲」を字とした(なので慶父は「共仲」とも呼ばれる)らしい。
そこで慶父の子孫は、慶父がなんやかんやで用いた「仲」の字を用いて「仲孫」と称し、経文などの公的な文書にも「仲孫」と記されている。が、一般には「孟」と認識されているため、他者からは「孟孫」と呼ばれ、諡号で呼ばれる時も「孟〇子」になる…っぽい。
…魯の皆さんは氏が酷似しすぎてるので頭がごちゃっとしがち…(汗)。。。
■諸侯の冠礼は12歳???
『左伝』襄公9年に、晋の悼公が魯の襄公(と季孫宿)に向かって、「12年といえば、歳星(木星)が一周する周期なので、襄公も12歳になられたのであれば冠礼を行っては?」と提案している。その孔穎達疏に、「王や諸侯は12歳で、卿大夫は16歳で、士や庶人は20歳で冠礼を行う」とある。が、『大戴礼記』や『左伝』のこの場面からそう推測できる、というだけの話で、古典に明確にそう書いてあるわけではないらしい(孔穎達もこの疏の前のところで「諸侯の冠礼については失われていて、(『儀礼』の)士冠礼が残ってるだけ(=士の冠礼だけは分かる)」的なことを明言してるので、孔穎達の時代にはもう謎だったんだろうな…。
なので、諸侯は12歳で冠礼して成人になるという説は、明示的な資料はないのでよく分からない、『左伝』襄公9年の記事等からそう推測し得る…くらいの認識が妥当なのかなーという感じがします。
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