『中国の城郭都市』

 愛宕元 『中国の城郭都市――殷周から明清まで』 ちくま学芸文庫


殷周のとこしかまだ読んでませんが(…)とりあえず気になったところをめも。最近いろんな本をちょこちょこ読んでいて、どの本で何が書いてあったのかすぐ忘れてしまうので、中途半端だけど忘れないうちに…。


・中国、特に華北の城壁は、無尽蔵にある黄土を突き固めて作るため、極めて強固な土壁ができる。黄土は水の浸食に弱いという弱点があるが、降雨量の少ない華北においては大きな懸念にはならない。また、城壁表面は黄土を練り固めて焼いた磚(レンガ)で覆って防水対策も施す。よって、相当古い城壁であっても、人為的に破壊しない限りは、相当長い時間残存する。地下の基礎部分などはほぼ完全な形で残る。(p7~)

・現代中国の都市図によく見られる「環状路」は、撤去した城壁跡に作られることが多い(p8)

・現在もほぼ完全な形で城壁を残す都市(西安、江陵、平遥など)は、いずれも明清期の城郭。明清期の城壁を残す都市は他にも多数ある(p8)

夯打法=一定の厚さごとに黄土を突き固めて層を形成する版築の技法。新石器時代前期の仰韶文化期(前4000~前2500頃)の集落内住居址で用いられている。城牆はこの時期にはまだ出現していないが、夯打法は後の城牆築城技術に発展していく(p21)

・「城郭」という熟語があるが、「城」と「郭」は元来別物。城=内城で、都市の主の居所や祭祀の場を囲繞した壁郭=外郭で、郭内には農民が住み、朝に郭門を出て郊外に広がる耕地で農耕に従事し、暮れには郭内に戻ってくる。春秋期、美田・良田を指して「負郭之田」「帯郭之田」という語が見られるが、これは外郭から近く移動に時間を要さない=農耕に従事できる時間が長い、よい耕地を言う。西周期~春秋期にはこの「内城外郭式」の二重の城壁構造を持つようになる。もともと「城主郭従式」で、内城が堅固だったが、次第に外郭が内城以上に強化された「城従郭主式」に移行していく。戦国時代になると内城は事実上無きに等しい状態となり、外郭だけが強化される一重構造に変わっていく(城郭一致式)(p37~)

・内城が消滅して城郭一致式に移行していった背景には、次の点が考えられる。

①春秋末から戦国期にかけて、宗教的権威に基づく君臣関係が崩壊するとともに、領土国家へと成長していく大邑による滅国絶祀が当然のように行われるようになる(それまでは、亡国の祖霊への祭祀はその子孫たちによって継続させていた)。このような宗教的権威の低下が、宗廟等の祭祀施設を囲繞する内城の重要性を低下させることとなった。

②都市国家間の戦車戦を中心とした野戦が主だった戦闘方法が、領土国家間の大規模な歩兵を主力とする攻城戦が主たる戦術へと変化。そのため、外郭の防御力を強化する必要性が上がる。

*p43、春秋期における最大動員例として、晋軍が戦車700乗を動員した城濮の戦いが挙げられてますが、鞍の戦いでは晋軍が800乗の戦車を動員してたと思います…(郤克が「城濮の戦いプラス100乗ください」って言ってた)

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