『中国文明論集』②
宮崎市定 『中国文明論集』 岩波文庫
個人的に特に面白いなーと思った部分を、箇条書きでいろいろ書いておきます…の続きです。近年の新しい研究の成果によって、既に古い情報になっているものもあるかもなのですが、そこのところ自分には判断できかねますすみません(汗)。あと単に自分が読み間違ってる箇所があったらすみません(常習犯)。
【中国火葬考】
・中国人の土葬の起源は『孟子』滕文公章句にある。この土葬の考えと並行して発達したのが「魂魄説」。「魄」=肉体と分離すべからざる精神であり、感覚と言うべきもので、肉体が滅びれば魄も滅ぶ。「魂」=肉体を離れて独立に存在し得るものであり、肉体の消滅後も永久に存続する。「生」は魂・魄の結合であり、「死」は両者の分離である。「死」により魂・魄が分離した後でも、魄(精神・感覚)は肉体に宿ったままなので、その遺体が自然と朽ちるまでは保存しようとする。その目的を達するには土葬が最も適当と考えられた。
・故に魄が宿った肉体を焼却する火葬は野蛮とされ、火葬は死者への懲罰、もしくは復讐を意味するものだった(=葬法ともいえない遺体の処置、と言った方が適切かも)。「火葬」は仏教伝来の影響を待たねばならない。
・唐末五代の頃に火葬の流行を見たため、宋初には火葬禁止令が出ている。『宋刑統』では一部例外(仏教徒や蕃人、遠方の旅先での死亡など)を除いて火葬を禁じている。韓琦が幷州を治めた際、火葬を戒め、葬地を買って貧民に用いさせていた。このような共同墓地は「漏沢園」と言われ、顧炎武『日知録』は蔡京に始まるというが、宋・徐度『却掃編』は神宗の頃の陳向の要請によって設けられたという。
・元代も焚屍の禁令を発している。例外も多いが、漢人官僚からの要請もあり、漢人に対しては基本的に漢俗に従って土葬を行わせ火葬は禁止していた。とはいえ政府もこの禁令を励行しようとはせず、民間に火葬は依然として盛行していたらしい。
・明代も太祖洪武帝が火葬の禁令を出したと、劉仕驥『中国葬俗捜奇』にある。『明太祖実録』巻53によれば、この禁令は例外を認めず、火葬の俗を改め義冢(※漏沢園とは異なる)を設けて貧民の遺体をも収容せよと命じたものだった。しかし実際はそこまで効果がなかった様子である。顧炎武『日知録』火葬の条によれば、火葬は宋代以降江南で特に盛んに行われ、国が漏沢園が設けても土地の狭さと人の多さのために全ての死者を土葬することができず、火葬にするのが通例となっていた…とある。(しかし土葬が忌まれる原因は、南宋の洪邁『容斎続筆』が指摘するように、遺体の腐乱に耐えがたいという衛生的な理由も大きいと思われる)
・清は『明律』を継承して『清律』を作ったため、火葬禁止の条も継承していた。しかし満州人は普通に火葬を行っていたため、漢人に禁令を強いている訳ではなかった。
・雍正帝まではそんな感じだったが、乾隆帝が即位すると一転、満州人に対しても火葬禁止の令が発布される。しかも、これまでの有名無実になりがちだった禁令とは異なり、破った場合は罰則を伴うなど、かなりの威力を持って地方長官、読書人階級に影響したようである。これにより、火葬法はかなり下火となる。火葬は悪いこと、という認識が強まった結果、嘉慶年間の不景気時代に入り土葬のための土地確保が困難になると、遺体を棺に入れたまま所かまわず放置する「停葬」が行われる事態となってしまった。
【周漢文化の基盤】
・漢の都長安には、槐の木が数百本並んでいるだけの広場「槐市」があった。1日と15日になると市が開かれ、全国から集まってきた太学生たちは、故郷の物産や不要となった書物を売買し、また槐の木の下で盛んに議論を行っていた。このように、漢までの市というと、売買の場であるのみならず、人々にとっての遊び場でもあり、盛大な社交の場でもあった。
・春秋の頃、周や各諸侯国は小さな都市国家だった。春秋末に都市国家が政治的独立性を失い、次第に領土国家が形成、戦国七雄の頃になると、強大な君主権に統一された純然たる領土国家となっていく。
・都市国家は人民を主体とし、国家は市民権を有する完全な自由民、すなわち「士」のものだった。春秋戦国時代、彼らによって自由な思索が行われ、活発に議論された場が市だった。都市国家が領土国家に移行してから漢に至る頃までは、こういった自由人としての強い自覚が残っており、諸学派の学説を発展させる推進力となっていた。
・都市国家の開放的な社交場が市であるならば、閉鎖的な社交場は祭祀の場である。周制では、完全な自由民は姓・氏・名の三つを持っていた。姓は血統を示してローマの「ゲンス」に、氏は地位・官職を表してローマの「ファミリア」、名は個々人に命ぜられるものでローマの「ペルソナ」に該当する。女子は姓のみを称し、男子は氏と名を称するが、この習慣はローマとも共通である。各家は祖先を祀る廟を有し、本家の廟が「宗廟」。宗廟の祭祀には子孫全員が参加すべきものとされる。君主の宗廟には異姓の臣も連なり、祭祀の場であるのみならず政治の場でもあった。
・周代の青銅器は、この宗廟の祭器であったと考えられる。当時の人々は地面にむしろを敷いて座っていたので、祭器も地面にじかに並べられていたらしく、地面に凹凸があっても安定するような脚(三脚の鼎など)や台(裾の開いた豆など)があり、高く造られている。この祭器はしばしば犠牲の血を塗られ、時には人の血が注がれたであろう。思い付きにすぎないが、青銅器の表面に煩瑣なまでの細紋が施されているのは、犠牲の血を長く表面に留めておく役目のものなのではないか(<なんか…ロマン?がありますな…)。
・戦国時代になると銅器の表面模様が簡素になってくる。これは、祭器の代わりに鏡や器具などの実用品に優れた意匠が現れるためであり、祭政が分離したためでもあると思われる。宗廟は単なる形式的な祭祀の場として片隅に押しやられ、政治は宮廷の朝堂で公に議せられるようになり、ここに宮廷を中心とした盛大な社交場が成立する。この宮廷社交場は次第に市の社交場を圧倒していく。人民は自由人としての自覚を失い、皇帝の臣民であるという意識を植え付けられ、ここに中世的な停滞が始まるのである。
【龍の爪は何本か】
・龍は空想上の動物なので爪の数は何本でも構わず、中国古代の壁画や器物の龍の爪は3本だったり4本だったりまちまちである。
・宋代以降近世的な独裁政治が始まると、龍の紋様は天子に独占されるようになり、それが龍の形状にも影響を及ぼすようになる。古来龍は人君の象徴であり、その顔を龍顔、車を龍馬といい、着物に袞龍の衣があるが、唐代までは天子だけが龍の紋様を独占することはなかったようである。
・人民が勝手に龍の紋様を用いてはならないという禁令が初めて発布されたのは、天子の独裁権力が確立された宋の時代、哲宗の時だという。大臣らには特別に龍の紋様の使用が許されていたが、必ず降り龍である。昇り龍は天子専用だった。また、天子の龍は二角五爪と定まったのもこの前後であるらしい。
・しかし、古来親しまれていた紋様を一切人民に用いさせない禁令を厳重に実施しようとするといらぬ摩擦も起こるので、実際は政府の方でも手心を加えて、二角五爪でなければ見逃していたのではと思われる。元代になると、民間では二角五爪の龍は禁止、と明文化している。
・清朝に至ると、龍の定義が狭くなり、五本爪を持つものだけが龍で、それ以外は龍の形をしていても龍ではなく蟒(ウワバミ)だ、とされるようになる。とすれば、日本の寺の天井や掛け軸の龍の爪はほぼ4本以下なのでウワバミだ、ということになる(…)。五爪の龍は天子専用なので、民間ではいきおい爪が4本以下で描くことになる。朝鮮では中国に遠慮して、国王の用いる龍の爪は4本、民間は3本以下とされていたようである。日本は特に禁令があった訳ではないのだが、爪の数はとかく少ない。
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