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自分用めもを更新しました

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元曲(雑劇)に関する個人的めもを更新しました→ 一応こちら 。正直、書いた本人もよくわかってないところがありまする。万に一つというか百万に一つくらいなら役に立つことがあるかもしれないめもです。 …こんな感じのやつですよ…なんか気になるから作っためもで、どう役に立つかは作った本人にも分からんですよ…。 話は変わりますが、せんむそ5を買おうかどうかかなり悩んでます。紹介動画とか見てたらいいなーと思ってきた…。もともと好きな義トリオとか大谷さんも出ないし、キャラも一新されてるし、むそ8エンパもそろそろ出るならそっち優先だし、今回は様子見しようかと思ってたけど…もんもん。

梅雨入りかのような天気

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まだなんですけど、ぐずぐずした天気でうっとうしいです。通勤途中のウン百名山も雲に隠れて見えない…。田んぼに水が入り始めて、天気がよければ景色が水面に映りこんできれいな景色が見られそうです。 家に帰るとぐでーっとしてしまうんですが、10日くらいかけて絵を描いていました。平日は1~2時間くらいが上限だったけど…(描かない日もあったなあ;)。 魔道祖師絵をもう一枚~手前から金凌・藍景儀・藍思追。若者3人組がけっこう好きなので描いてみたかったのです。3人をひとつの画面に入れるとけっこう大変だった…(>_<)。割と直情径行で揉めがちの二人と制止役の苦労人…っていう関係性が好きなんだな…無双の甘寧凌統と呂蒙殿(もしくは陸遜)みたいな(笑)。 けっこう大変だったので簡単な経過も載せてみます。 1.ラフ(ラフだけどラフのラフも描いたので、ここまでに5時間くらいかかっている…;) シルエットを確認するために線画の後ろに色を塗ってみたりする。 2.線画(ここも5時間くらいかかったかもしれぬ) ラフを参考に線画(クリスタの鉛筆で)。キャラごとに線画は分けます。ちょっと位置も調整してみたり。手前のキャラで隠れるところも一応描いておく。 3.塗り(10時間未満かな) ベース塗りの後に乗算等で影つけしたもの。あとは全体的に調整をかけて完成。彩度とコントラストをゴリゴリ上げてしまう病で、仕上がりはいつもどぎつい感じになってしまうんですが; 仕上げた絵には上弦の月を足してあります…満月の半人前だけど伸びしろがある感じがこの3人に合う気がしたので。

こちらが新ブログです

サイトの日記をこちらに切り替えました~。今後はこちらを日記として更新していきます。 (日記のリンクの貼り替えついでに、過去の日記に上げた絵をサイトのギャラリーに収納しました~) 過去の記事もいくつか(といっても90個近い;)こちらに移しましたが、記事ごとに「ラベル」(左側にあります)で大雑把にジャンル分けしてあります。適宜ご利用ください。 イラストもいくつか載せましたが、創作春秋の絵などはまた増やすかもしれません。うちのメインの親世代の絵も載せたいので。 とりあえず今日はご報告だけ~

軍>師>旅>卒>両>伍

 時々忘れる軍団の呼称…  ※( )内は軍団長 軍=12500人(卿) 師×5 師=2500人(中大夫) 旅×5 旅=500人(下大夫) 卒×5 卒=100人(上士) 両×4 両=25人(中士) 伍×5 伍=5人(長はいるよ) ↑出典:『周礼』夏官司馬第四 「凡制軍萬有二千五百人為軍。王六軍、大國三軍、次國二軍、小國一軍、軍將皆命卿。二千有五百人為師、師帥皆中大夫。五百人為旅、旅帥皆下大夫。百人為卒、卒長皆上士。二十五人為兩、兩司馬皆中士。五人為伍、伍皆有長。」 出典その2:『周礼』地官司徒第二 「五人為伍、五伍為兩、四兩為卒、五卒為旅、五旅為師、五師為軍。」 (※句読は大変てきとうに切りましたすみません)

晋の赤狄白狄キラーまとめ

『春秋大事表』巻39「春秋四裔表」より、狄(赤狄・白狄)のまとめ。ちうか、晋の赤狄白狄キラーの皆さんのまとめです。例によって自分用めも。 大事表曰く、狄には 赤狄・白狄・長狄 の三大部族がいるらしいのですが、その中で晋との関わりが深い赤狄・白狄の記述をまとめてみます。(なお、今回スルーした長狄は、魯の叔孫得臣に捕らえられた長狄僑如なんかの部族っす。) ■赤狄 左伝には荘公32年(BC662)に登場。狄の源流?で、単に「狄」という場合だいたい赤狄。閔公・僖公の頃(BC661~BC627)の間は赤狄・白狄の区別がなかったが、僖公32年(BC628)に狄に内乱が起きた際に分裂したらしい。6氏族に分けられる。成公3年(BC588)に滅亡。 ①東山皐落氏 閔公2年(BC660)、(献公に邪険にされた) 太子申生 が討伐した(させられた)。 ②ショウ咎如 成公3年(BC588)、 郤克と衛の孫良夫 が討伐。杜預注曰く、荀林父にやられた潞氏の残党がこちらと合流していたために郤克達が討伐した、とのこと。これで赤狄は全て滅ぼされた、と大事表さんは考えているようです。 ③潞氏 宣公15年(BC594)、 荀林父 が滅ぼす。杜預注(宣11)によれば、赤狄の中では最強の氏族。それゆえに白狄と間隙が生じたらしく、それを察知した郤缺が白狄と同盟を結ぶことで赤狄を弱体化させる(=BC598)。この郤缺の布石もあり、長年晋や他の国々を苦しめてきた赤狄潞氏を荀林父が討滅するに至る。邲の戦い(BC597)で敗戦の責任を負って自害まで考えた荀林父が、見事に赤狄最強の潞氏を滅ぼすという大功を立てた。 雪辱を果たして安堵したのか、その直後に荀林父は死去したようで、潞氏滅亡の翌年には士会が荀林父に代わって執政になってます。 ④甲氏 ⑤留吁 ⑥鐸辰 宣公16年(BC593)、まとめて 士会 が滅ぼす。荀林父さんの遺志を継いで赤狄を倒した感もある…。最強の潞氏がいなくなったとはいえ、三氏族を一掃する士会はすごいな…1年くらいしか執政やってないのに仕事しすぎや…。 (郤缺→)荀林父→士会→郤克の執政リレーで赤狄を滅ぼしたんですなー。郤缺→荀林父間が少し空いたのは、間に邲の戦い(BC597)があったせいで、士会→郤克間が少し空いたのは、間に鞍の戦い(BC589)があって郤克が斉を叩き潰す方にご執心だったからですかね。...

『中国姓氏考』めも

王泉根(著)、林雅子(訳)『中国姓氏考』(第一書房)のめも。気になったところを箇条書きで。主に春秋関連のこと。[ ]内は自分の勝手な補足~。例によって自分用めもです。 ●夏・殷・周の姓 『白虎通義』姓名篇・『論衡』怪奇篇に記載がある。 夏(禹)は「姒」姓、殷(契)は「子(好)」姓、周(后稷)は「姫」姓。禹の母は薏苡(よくい:ハトムギのこと)に、契(せつ)の母は燕の卵に、后稷の母は巨人の足跡に感じてそれぞれ子を身ごもった。 ●舜・神農の姓 『説文解字』(姚字)に記載あり。舜(虞舜)の姓は「姚」だが、これはその一族がいた土地である「姚虚」から取った。また、『説文解字』(姜字)によれば、神農(炎帝)は「姜水」の近くにいたことから「姜」を姓としたらしい。 ●「姓」と「氏」について 姓=血統を表し、女系を示す。 氏=勲功(周による分封)を表し、男系を示す。 …といえる様子。『説文解字』(氏字)の段.玉.裁注などにそう書いてあるっぽい。 ●「氏」の決め方 漢の応.劭の『風俗通義』姓氏篇によれば、周代の命氏のパターンは9種類。 ①号による氏 ②居による氏 ③事による氏 ④諡による氏 ⑤爵による氏 ⑥国による氏 ⑦官による氏 ⑧字による氏 ⑨職による氏 宋の鄭.樵の『通志』氏族略はさらに細かくて、32種類に分類している。 『通志』から主な例を挙げると以下の通り。 ①国名を氏とするパターン:周の文王の第三子で「管」国に封じられた「管」叔鮮など。晋に封じられた唐叔虞は「晋」氏の祖らしい。 ②採邑名を氏とするパターン:[この本では例に挙がってないけど、晋の卿によくあるパターンだよな…魏氏、韓氏、范氏とか。温邑をもらった郤至が「温」季と呼ばれるのもこれだよなー。] ③郷名を氏とするパターン、④亭名を氏とするパターン:③④は①に準ずるパターンかな…郷も亭も、与えられた爵位によって与えられる土地のことらしいので。(※「宗法封建制」なる周の制度に基づくと、郷=子爵の者に与えられる封土、亭=男爵の者に与えられる封土らしい。) ⑤地名(居住地の名)を氏とするパターン:封土を受ける資格がない人はこのパターンで氏を決めるらしい。傅岩という土地の人が「傅」氏を名乗り、橋山黄帝陵を守る人が「橋」氏を名乗るなど。 ⑥姓を氏とするパターン:姚、姜、姫、子とかとか。 ⑦字(あざな)を氏とするパターン:王父(祖父)...

楚材晋用

タイトルは、楚の人材が晋に亡命して、晋がその人材を利用してかえって楚をやっつけちゃうんだぜ!という四字熟語。 この四字熟語の典拠が、左伝と国語にあります。蔡の声子(公孫帰生)という人が楚の子木(屈建)に対して、楚から亡命して晋に貢献した四人の話をしてるのです。 ただ、左伝と国語とで、声子が挙げた四人というのが違ってるので、そいつをメモっておきたいのです。 左伝(襄公26年) だと、以下の四人。 ①析公 ・文公14(BC613)年、子儀の乱(カリスマ荘王様が即位早々拉致られたアレ)の際に晋に亡命 ・成公6(BC585)年、繞角の戦いで献策し、楚を破る (↑勢いに乗った晋軍が追撃しようとしたら荀首・士燮・韓厥に止められた、あの戦い) ②雍子 ・父兄に讒言されて晋に亡命 ・成公18(BC573)年、靡角で楚軍に遭遇した際に献策し、楚を退ける ③巫臣 ・夏姫をめぐって子反とモメて晋に亡命 ・呉と通交して射御の術を教え、呉に楚を攻めさせる ④苗賁皇 (子越の子) ・宣公4(BC605)年、若敖の乱(子越の反乱)の際に晋に亡命 ・成公16(BC575)年、鄢陵の戦いで献策し、楚を破る 国語(楚語上) だと、この四人。 ①王孫啓 (子元の子) ・荘公30(BC664)年、子元(当時の楚の令尹)の乱の際に晋に亡命 ・僖公28(BC632)年、城濮の戦いで先軫に献策し、楚を破る ②析公 ・子儀の乱に際し晋に亡命 ・具体的な活躍は不明だが、楚を破ったらしい (↑韋昭は、左伝と同じく繞角の戦いで活躍したと注している) ③雍子 ・父兄が共王に対して彼を讒言したため、晋に亡命 ・鄢陵の戦いで欒書に献策し、楚を破る ④巫臣 ・夏姫をめぐって子反とモメて晋に亡命 ・呉と通交して射御の術を教え、呉に楚を攻めさせる だいたい同じですが、左伝と国語で違うのは、要は ・析公・雍子・巫臣の三人は共通だが、左伝は苗賁皇、国語は王孫啓を挙げる ・雍子が関与した戦いが、左伝では靡角の戦い、国語では鄢陵の戦いになっている ・析公の活躍が、国語では曖昧 …という三点ということになるでしょうか。 鄢陵の戦いの軍師というと苗賁皇!というイメージがあるのですが、国語だと、鄢陵の戦いの軍師は雍子!なんですね。国語の晋語の方にも鄢陵の戦いの描写はありますが、士燮さんが喋り倒してるのがメインで(エッ)、晋がどんな策で楚を破った...