春秋時代の暦法
数ヶ月前に『天地明察』に嵌っていた時に、杜預が『左伝』に基づいて作った暦についての論文をみてメモを取っておいたのですが、それをアップし忘れていたので…。だいぶゆるいまとめです(>_<);
「杜預の春秋長暦について」という渡邉よしひろ先生の論文のまとめです。
杜預の長暦の概略と、杜預が認識していた暦法の基礎についてのまとめをば。
■『春秋長暦』のこと
長暦は、杜預が、『左伝』の「隠公元年より始まる各月の一日の干支を示し、『春秋』と左伝に記載された干支が何月何日に当たるかを計算したもの」。ご存じの方にとっては当り前の事なのですが…『春秋』や『左伝』では、日付(や年)を十干(甲乙丙丁…)と十二支(子丑寅卯…)の組み合わせで表してます。例えば、邲の戦いがあったのは「六月乙卯」の日、と『春秋』に記してあります。杜預は、この六月の一日の干支を示し、そして六月乙卯の日が何日だったのかを計算した、ということになるでしょうか。
『春秋長暦』は明の頃には既に散逸しており、現在見られるものは『永楽大典』などに基づいて作られた輯本『春秋釈例』に収められているらしいです。
■昔の暦について
戦国時代の四分暦に始まる中国の暦は、どれも「太陰太陽暦」。これは、地球が太陽の周りを一周する周期(一太陽年≒365.2422日)と、月が地球の周りを一周する周期(一朔望月≒29.5305日(平均))とを組み合わせたもの。1朔望月で1年の長さを計算すると、1年≒354.4308日にしかならず、一太陽年と較べると10.8114日短く、だいたい三年経つとそのズレが一朔望月分に達し、季節がズレていってしまうので、季節とのズレを解消するために閏月を入れて調節していたらしい。
※上記の数字は今の天文学が算出したもので、昔の中国ではそこまで正確な値は出てなくて、もすこしアバウトな数で計算してたと思われます。
■閏月のルール
戦国時代の頃から、「十九年七閏法」という閏月の置き方が確立していたらしい。19年を一章として、その間に7回の閏月を設けるのが「十九年七閏法」。
閏月を設けるタイミングは、太陽年に基づいて定められた「二十四節気」という季節の区分によって決まるらしいです。「二十四節気」は、一太陽年を24等分して設定したもので、冬至・夏至、春分・秋分…とかです。二十四節気には、「中気」と「節気」との別があり、これが交互にやって来ます。
ちなみに二十四節気というのは…(※★=中気、☆=節気)
★冬至/☆小寒/★大寒/☆立春/★雨水/☆啓蟄/
★春分/☆清明/★穀雨/☆立夏/★小満/☆芒種/
★夏至/☆小暑/★大暑/☆立秋/★処暑/☆白露/
★秋分/☆寒露/★霜降/☆立冬/★小雪/☆大雪/
(この論文の中の例では冬至を最初に持ってきてたのでそれに従いました。)
このうちの「中気」が、閏月のカギになるらしいです。
「中気」同士の間隔は、1朔望月より微妙~に長いので、そのうち1朔望月に「中気」を含まない月が生じます。そしたら閏月を置くらしいです。
……算数に弱いので、もう…まとめていて…辛い……<ダメな人。
高校生の頃はバカみたいに数学ができなかったので、数学の先生に「古典ばっかりじゃなくて数学もやってくれよな…ハア(溜息)」と嫌味を言われたことが…ある……(<古典はすごく好きだった)。しかし私が高校生の時に一番時間を費やしたのは間違いなく数学だったんだ…なのにできなかったんだ……ウッ。。。
ちなみに(その2)、十九年七閏法の詳細が、孔穎達の左伝疏(文公元年)に書いてあった…それによると、閏月を置くのは、①章に入って3年目の9月/②6年目の6月/③9年目の3月/④11年目の11月/⑤14年目の8月/⑥17年目の4月/⑦19年目の12月…の7回。だいたい32カ月に1回、閏月を置くらしい。
■大の月・小の月
1朔望月≒29.5305日、つまりだいたい29日半なので、30日の月と29日の月を交互に繰り返していると、暦と月の朔望がだいたい一致します。1ヵ月が30日の月を「大の月」、29日の月を「小の月」と言います。
だいたい大の月と小の月の繰り返しで行けますが、0.0305日のズレが毎月生じ、そのうちズレが大きくなってきます。それを調節するために、大の月の後に連続して大の月を置くことがあるようです。これを「連大」と言い、だいたい13カ月~15か月に一度置くらしいです。
細かな数値に違いはあると思いますが、杜預は上記のことをだいたい知っていたらしいです。
(2012.12.31)
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