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『新鐫陳眉公先生批評 春秋列国志伝』

 明代に成立したという『春秋列国志伝』について調べてました。で、 『新鐫陳眉公先生批評 春秋列国志伝』 徳田武 編・解説  ゆまに書房  1983 なる本を見つけました。その解説に、『春秋列国志伝』について書いてあったので、それをまとめてみます。 解説で引用されている孫階第の『中国通俗小説書目』巻二清講史部によれば、『春秋列国志伝』は大別して二種類あるらしい。 1. 『新刊京本春秋五覇七雄全像 列国志伝』 八巻本 ▼明・万暦丙午(34年)、三台館の余象斗の重刊本 ▼各巻に「後学畏斎余邵魚編集」「書林文台余象斗評釈」と題す ▼名古屋の蓬左文庫が所蔵 2. 『新鐫陳眉公先生批評 春秋列国志伝』 十二巻本 (以下『春秋列国志伝』と表記します) ▼明・万暦年間の刊行 ▼各巻に「雲間陳継儒重校」「姑蘇キョウ[龍+共]紹山梓行」と題す ▼国立公文書館内閣文庫・北京図書館などが所蔵 ちなみに、内閣文庫の版本と北京図書館の版本は、同系統の版本であるが体裁が異なっており、朱篁なる人物の序文が北京図書館本の方にはついている。なお、北京図書館本は、万暦乙卯(43年)の刊行であるらしい。 双方、殷の紂王から秦の始皇帝までの約900年間を取り扱ったもののようです。内容がいろいろと異なっているらしい。 *   *   * ちなみに、ゆまに書房から刊行されている、私が参照したこの本自体については以下の通り。 底本にしているのは、内閣文庫所蔵の『春秋列国志伝』十二巻本。これを影印して掲載しています。 内閣文庫本について、解説にて孫階第の『日本東京所見中国小説書目』(巻三・明清部二)を引用しており、それによればこの内閣本は、 ・各巻の前に図五葉(10枚の挿絵。一葉は2ページ)がある ・最初には陳眉公の序と「列国源流総論」がある ・毎則(各章)の後には批評、毎巻の後には総批がついていて、これらの批評は行書で書かれている ・北京図書館本には万暦乙卯の朱篁の序があるが、内閣本にはない ・北京図書館本と同系統だが、北京図書館本が半葉(1ページ)11行であるのに対し、内閣本は半葉10行となっていて、版が異なる …と、そんなところになるかと思います。 内閣文庫所蔵本の影印とともに、早稲田大学出版部刊行の『通俗廿一史』(第一・二巻)の日本語訳を掲載しています。この『通俗廿一史』は、江戸時代に清地以立(きよちいりつ

『春秋名臣列伝』メモ・その3

 春秋名臣列伝メモ、ラスト5人です。だんだんメモが長くなっていく…;; ■晏嬰■ 管仲の後に出た斉の名宰相・晏子。諸葛亮が作ったといわれる「梁甫吟」が晏嬰を詠ったものなので、三国スキーさんは知ってらっしゃるかと。生前から吝嗇家として知られていて、父の晏弱を葬るにしても礼の規定以下の規模だった。故に、礼容を重んずる孔子からその点で批判を受けた。礼容を守るか、現実に即して倹約するかで、孔子と晏嬰の考えは逆だったかも。孔子が斉を訪れた際も晏嬰は、外の飾りを立派にする孔子は斉の政治には不要だと退けている。が、孔子の弟子・曾子は、「恭敬の心があった晏子は礼を知るといえよう」「国が奢っているときに君子は倹約を示すのだ」と言って肯定した。また福祉を奨励し、主の景公は晏嬰の考えを受けて、身寄りのない者を国で養った。晏嬰が死ぬと景公に直言する者はいなくなり、お追従ばかりを聞く景公は嘆いた。 ▼斉の景公 霊公の子。兄の荘公の後に君主となる。斉に来た孔子を召抱えようとしたが、晏嬰が反論したので登用しなかった。晏嬰の補佐を受け、社会福祉政策を行った。 ▼陳乞 陳無宇の子。景公の死後、後継者問題に乗じて斉の有力者を屠った人。強力だった国氏・高氏と他の大夫たちを反目させ、二氏を斉から追い出した。陳乞の子が陳恒(田常)で、彼が斉を簒奪する。 ■季札■ 呉の賢人。呉王・寿夢の末子。寿夢は君主に立てたがったが季札が頑なに断ったので、結局長男の諸樊が呉王を継いだ。兄たちは順に王となり、最終的に季札に位を譲ろうとしていたが、呉が外交関係を温める必要に迫られると、季札が使者となって中原諸国を訪問した。魯では、題名の分からぬ歌を聴いて的確な感想を述べ、晋では趙武・韓起・魏舒に会って「晋はこの三族のものとなりましょう」と予言した。徐という国に立ち寄ると、徐の君が季札の剣に目をとめた。後に徐に立ち寄ると、徐君はもう逝去していた。季札は徐君が剣を欲していたのを察しており、その墓の木に宝剣を掛けていった。ある人が不思議がると、「私はこれを徐君に差し上げようと思っていた、その我が心には背けない」と答えた。呉王夫差の代まで生き続けた。 ▼寿夢 呉王。呉の国力を伸ばした明君。 ▼諸樊 寿夢の長子。楚との戦いで戦死。季札にまで王位を伝えるよう言い残していた。 ▼餘祭 寿夢の次子。兄の遺言に従い、季札を延陵に封じた。越の捕虜

『春秋名臣列伝』メモ・その2

では、春秋名臣列伝の続きの5人を…10人分書こうとしたけどかなり長くなりそうなので分けます; ほんと、知らないことだらけでまとめるのに一苦労だ…苦笑。 ■巫臣■ 楚の人。屈巫ともいう。戦国時代の屈原と同じ屈氏。才覚があり、祭祀・呪術に明るかった。楚が陳に攻め込み、美貌の夏姫を捕らえると、巫臣は夏姫に一目惚れ(?)し、荘王や子反が夏姫を娶りたいと言うのを諦めさせた。荘王が没すると、巫臣は夏姫を伴い、晋の郤至を頼って亡命し、晋では大夫として厚遇された。夏姫に未練がある子反と、以前巫臣に口を挟まれて領地をもらえなかった子重とが、楚に残った巫臣の一族を根絶やしにして報復すると、巫臣は「お前たちを奔走して疲れさせてやる」と、楚の隣の呉に中原の戦法を教え、度々楚に攻め込ませた。その度子反と子重は駆り出された。なお、巫臣と夏姫の間に生まれた娘は、晋の賢人・叔向に嫁ぐ。 ▼子反(公子側) 楚の臣。夏姫を娶りたいと言ったが、巫臣に「不祥だ」と言われ諦めた。巫臣が夏姫と出奔すると、騙されたと怒り、同じく巫臣に恨みを持つ子重とともに巫臣の一族を絶やし、その財を分けた。後、巫臣は呉に楚を攻めさせ、子反と子重は戦場を駆けずり回ることになった。なお後に、エン陵での敗戦の責任を取って自害した。 ▼夏姫 鄭の穆公の娘(子駟や子国などとは兄弟)。嫁ぐ相手が皆死んだり亡命を余儀なくされる、不幸の美女。子の夏徴舒が陳の霊公を弑したのを咎めて楚が陳に攻め込んだ際、楚に捕われる。楚では連尹襄老に嫁ぐが、彼もまたヒツの戦いで戦死。かねて夏姫に心を寄せていた巫臣によって楚から抜け出し、ともに晋に赴く。 ■祁奚■ 晋の大夫。祁氏は、晋の献侯(←献公詭諸ではない)から出たとも、隰叔(←士イの項を参照)から出たとも言われる。晋の悼公が立つと中軍の尉となる。三年で引退を申し出ると、後任には仲は悪いがまっすぐな解狐を推挙した。着任前に解狐が死ぬと、今度は自分の子・祁午を推挙した。仇でも憎まず身内でも気兼ねしない人事である(『三国志』呂蒙伝・蒋欽伝に引かれているのがこの逸話)。また、士カイが欒氏を滅ぼした際、晋の賢人・叔向も嫌疑をかけられ捕らえられた。これを噂に聞いた祁奚は、引退の身ながらも士カイを説き伏せ、叔向を解放させた。この時祁奚は叔向に会わなかったし、また叔向も祁奚に謝辞を述べなかった。 ▼趙荘姫 晋の卿・趙朔の妻

『春秋名臣列伝』メモ・その1

 宮城谷さんの『春秋名臣列伝』の自分の備忘録的メモ。ほんと自分用で…す……自分がだいたい知ってることは書いてないし、知らないことは無駄にメモってます; そして間違ってたらすみません;; ■石サク■ 衛の臣。西周時代、衛の靖伯から石氏は出た。荘公が、嫡子たる公子完ではなく、庶子の公氏州吁を寵愛したので、石サクは、嫡子を立てるよう諫めた。荘公の死後、完が立ち(=桓公)、態度の大きい州吁を朝廷から追い出した。州吁は鄭に逃げ込み、鄭の荘公(寤生)の弟・京城大叔(段)を頼った。が、(具体的な時期は不明だが)州吁は衛に戻り、桓公16年に弑逆を行った。石サクは陳に向い、策を用いて州吁と、州吁に昵懇だったわが子の石厚を陳の都に誘い込んで捕え、処刑した。これが「大義親を滅す」と称される。 ▼衛の武公 名は和。荘公の父。「切磋琢磨」(『詩経』衛風・淇奥)する様を讃えられる。 ▼荘姜 荘公の正室。その美しさは詩経の「碩人」に詠われる。 ▼公子完 桓公。荘公の子。荘公の側室の厲ギ[女+為](の妹の戴ギ)が生み、正室の荘姜が育てた。 *姫姓の国の一覧あり ■祭足■ 鄭の臣。左伝によると、祭の人とある(これについて著者の推理がある)。荘公(寤生)の頃から執政で、荘公が弟の京城大叔(段)に大きな邑(京。のちのケイ陽)を与えているのを危険視して諫めた。結局段は乱を起こした(が、未然に動きがばれて失敗した)。また、宋に捕らえられた昭公を解放させた。 ▼鄭の荘公 名は寤生。母の武姜に憎まれて育つ。母と弟(段)に殺害を計画されるが、未然に防いだ。その後、それに加担した母を幽閉したが、会いたいという思いが強くなり、潁孝叔という人物の進言で、隧道の中で母に会った。『春秋』の冒頭、「夏五月、鄭伯、段にエン[焉+邑:邑はおおざとへんということで…;]に克つ」とは段との戦いを言う。 ▼武姜 武公の后。荘公・京城大叔の母。申の公女。 ▼鄭の昭公 名は忽。荘公の子。母は鄧曼。荘公の後位に就くが、宋の差し金で一時退位を余儀なくされ、衛に亡命。のち、厲公が亡命すると祭足に招かれ復位した。 ▼鄭の厲公 名は突。母は宋の人。宋人の手引きで、昭公の代わりに立つ。祭足を嫌い、祭足の女婿(雍糾)を使って暗殺させようとするが失敗し、蔡に亡命。のち鄭に戻った様子。 *姜姓の国の一覧あり ■管仲■ 言わずと知れた斉の名宰相。名は夷吾。「

『物語西遊記』

魚返善雄(訳) 『物語西遊記』 社会思想社 1967 古本屋で入手した文庫本。 魚返さんの『水滸伝』の訳が面白いと聞いていたので、『西遊記』の魚返訳を見つけて買ってみました。『西遊記』関連の本は持ってなかったので、ちょうどいいかな、と…。 前書きには、『西遊記』のごく簡単な成立史と、日本・欧米で出た『西遊記』の訳本についての簡単な説明などがある。魚返氏が『西遊記』を訳するに当たってのスタンスは、前書きの「ここに要約された原文は現代日本人の教養と娯楽のために必要または十分な分量であることを信ずる」という言葉に見える。簡略ではあるが、最低限の内容は盛り込んで訳してあると思う。 魚返訳のいいところは、まず本文を100回に分けているところ。 たぶん、原典に使った『西遊記』のテキストは『西遊真詮』というやつだと思われるのですが(これが一番メジャーな『西遊記』だと、随分前に平凡社の西遊記の解説か何かで読んだんだけど…超うろ覚えですすみません)、それが100回本なのです。その章回をそのまま残してあるのです。 この訳本自体は本当に簡略なのですが、原典『西遊記』の回分けと一致しているので、本書で気になった部分があれば、『西遊記』の全訳から比較的簡単に探し当てて、もっと詳しく知ることができるのです。たとえば本書の「六.二郎の化け方」の悟空と二郎神との化かし合いを詳しく知りたければ、全訳『西遊記』の第六回を見ればいい、という感じ。 簡略でありながら原典との対照もできるので、『西遊記』全体のあらすじが分かるとともに、備忘録的な使い方もできると思います。 もう一点いいところは、何といっても訳が面白い。あの軽妙な訳がたまらんです。古典の逐語訳なんかは、(訳す人にもよるのですが)物によってはものすごく読みづらくて…。この西遊記訳は逐語訳ではなく抄訳ですし、節回しがなんとも言えず面白くて…。サクッと読めます。 ただ…ちょっと訳しすぎかな、という印象もあって(笑)。分かりやすくするために、固有名詞的なものも訳してたり、別の分かりやすい言葉に置き換えてるところがあって…。赤脚大仙を「ハダシ仙人」とか、弼馬温をそのまま「馬屋番」、とか。原典に忠実に訳してある本と見比べるときにちょっと困惑しそうです。が、その点はもともと「現代日本人の教養と娯楽のために必要または十分な分量」を目指す本書が「必要または十分」

『中国古代の民俗』

 白川静 『中国古代の民俗』 講談社学術文庫 1980 一冊は白川さんの本を読んでおかないと…と思い、古本屋で見つけて買いました。    …む、難しい!!!(笑) 白川さんといえば漢字学なんですが、もともとは『万葉集』も研究してらっしゃったんですよね…ずっと前にテレビで見た気がする。日本の古代歌謡である万葉と、中国の古代歌謡である『詩経』を比較しつつ論が展開します。引用してある『詩経』の文も難しいし、『万葉集』のことばも難しい。時々解釈を入れてくれますが、時々訳も解釈もなくて意味が取れず辟易しまくりです;; 内容は、本の裏表紙に説明してある通り。中国古代の民俗を明らかにするのが本書の目指すところで、その方法として、 ・古代文字の構造から古代人の生活や思惟を考察 ・古代歌謡としての詩篇(詩経など)の発想と表現手法から生活習俗を考察 ・以上から考察できたものを、日本の民俗的事実と対応させつつ比較 以上三つの手法を通し、中国古代の民俗に迫っています。 ちなみに、本書中では、白川さんの前著である『中国古代の文化』に触れて、「これについては『中国古代の文化』で言及したので繰り返さない」と言って説明をスルーすることが幾度となくありますので(涙)、『文化』を読んでから『民俗』を読むのがいいのかもしれません…。ちなみに自分は『文化』は読んでません…。 白川さんの漢字解釈でいちばん印象的なのは、やはり「口」の解釈かと(第三章「言霊の思想」)。「口」を口耳のクチとするのが『説文解字』以来の解釈なのですが、白川さんは多くの甲骨文・金文を渉猟した結果、「口」を「サイ」と読み、祝詞を入れる器である、と新しい解釈を提供しています。 この理解に基づいて、「口(サイ)」が含まれた文字(告・言・吉…)や、「口(サイ)」の中の書物を開けた象形の「曰(エツ)」を含んだ文字(書・旨…)について解釈を加えています。この部分は、謎解きを見ているようで、難しいながらも面白い箇所でした。 たとえば「告」は、祝詞の入った「口(サイ)」の上に神木の枝を表す形象を乗せてサイが樹にかかっている形を表し、神に祝詞の内容を「告」げるさまを表すのだ、とか。 他にも、「詩の六義」(風・雅・頌・比・賦・興)のうち表現技法を言う比・賦・興のうちの興についての解釈も新鮮だったでしょうか。一般に、比=直喩、賦=直叙、興=暗喩 と理解され

映画「運命の子」感想(めも)

先日(2012.01)見に行った、趙氏孤児が題材の映画の感想…というよりも、自分で後で思い出すためのめもです。自分は普段映画は全っっ然見ないので(…)映画的な感想は書けませぬ; 自分の知ってる趙氏孤児物語との比較が中心になりまする。 自分は『左伝』/『史記』趙世家/元曲「趙氏孤児」/『東周列国志』に目を通したことがあります。南曲や京劇にも趙氏孤児話を扱った劇があるそうなのですが、そっちは見たことがないので比較対象として引き合いに出せないとです…あしからず; あと、記憶違いもあると思いますので、あらかじめご了承ください…。 この映画は、前半は既存古典を踏まえた部分が多く(もちろん異なる部分もあり)、後半(特に程嬰・屠岸賈・程勃=趙武の関係)はオリジナル色が強いです。原典として『史記』を挙げてますが、むしろ 元曲 のあらすじにとても近かったです。 最初は趙朔の凱旋から…かな<エエッ;<背景とか衣装とかをガン見してて字幕見てなかったので曖昧;; 趙朔は元帥として出陣し、勝利を収めて凱旋帰国します。(ヒツの戦いなんてなかった…。)親父の趙盾とは普通に親子してるっぽいです。趙盾は当時最も有力な臣で、屠岸賈は趙盾がいるせいで権力の座から遠ざかった位置に居る武官ちう感じでしょうか。一人名無しの策士さんがいつも屠岸賈と一緒にいます。テライケメン将軍の韓厥もわりと一緒にいます。 ※これは、韓厥は屠岸賈の配下の将軍という元曲の設定に基づくと思われます。映画の韓厥は、趙さんちに恩があるとかそういう設定はなさげ。普通に屠岸賈の下で働いてます。 この時霊公の姉にして趙朔の嫁である荘姫は出産目前で、医者の程嬰が健康管理をしてます。40歳の程嬰も実は嫁が赤ちゃんを産んだばかり。嫁さんは程嬰が提案した子供の名前が気に入らんようです(笑)。 ※荘姫は、『史記』では成公の姉(=霊公のおば)、『左伝』では成公の娘(=霊公のいとこ)だった気がします。細かいことを気にしたらアカンとは思うのですが、荘姫の「荘」は趙朔の諡「趙荘子」に由来すると思われるので、趙朔が生きてる時点で「荘姫」と呼ばれるのには引っかかりがあったりする…「孟姫」ならいいんだけども…。 『左伝』は「荘姫」「孟姫」兼用、『国語』は「孟姫」、『史記』「趙世家」では「夫人」、元曲では確か「公主」、『東周~』では「荘姫」。荘姫の方が馴染みがあるのか

元曲「趙氏孤児」【第四折】

 第四折は、第三折の20年後…趙氏孤児が復讐を果たせるであろう年齢に達した時になります。今までの内容をなぞる点も多々ありますが、第四折のあらすじを…。 *   *   * 「趙氏孤児大報仇」紀君祥・作 【第四折】 登場人物:  程勃(=趙氏孤児)(正末)  程嬰  屠岸賈 趙氏孤児を巡る一連の事件が「趙氏孤児」の死をもって収束し、はや20年が経った。 その件で功のあった程嬰は屠岸賈の客となり、程嬰の子は屠岸賈の養子となって「屠成」と呼ばれた。「官名」(<?)は「程勃」という。程勃は、武については屠岸賈に学んで熟達し、文については程嬰に学んでいた。程勃は二人を父と思い、屠岸賈を「あちらの父」、程嬰を「こちらの父」と呼んで親しんでいた。 ある日、武術の稽古を終えた程勃は、「こちらの父」の程嬰に会いに行く。 が、見ると程嬰は、書斎で巻物を手にして思いつめた表情をしている。 実は程嬰は、程勃が二十歳になったので、そろそろ「真実」を教えて趙氏の仇を取らせねば…と思案を巡らせていたところだった。程勃が「趙氏孤児」であることを教える時期になったのである。程嬰が手にしている巻物は、今まで趙氏のために命を懸け、時に命を捧げた人々の姿を絵巻にまとめたものだった。 いつもならば、程勃が来ると嬉しそうにする程嬰なのに、今日に限っては程勃が話しかけても浮かぬ顔をしたまま。それどころか、程嬰は嘆息して目頭を押さえている。 いぶかしく思った程勃は、心配してその理由を尋ねるが、程嬰は答えない。程嬰は、「お前はここで書物を読んでおれ。私はしばらく奥に行く」と、手にした巻物をそっと置いて書斎を出る。 父が置いていった巻物に目を留めた程勃は、これは何だろう…と巻物を披いてみた。 そこには、赤い服の人物が紫の服の人物に向かって犬をけしかける絵、錘を持った人物がその犬を撃ち殺す絵、片方の車輪のない車を支える人物の絵、槐の樹に頭を打ちつけ自害している人物の絵…が綿々と描かれている。しかし、そこには名前が書かれておらず、それらの人物が一体どのような人か分からない。 さらに続きを見ると、弓の弦・毒酒・短刀を目の前にした人物が短刀で自害する絵、薬箱を捧げ持ち跪いた医者の前で自刎する将軍の絵、夫人が赤ちゃんを医者に預け、自縊する絵、白髪の老人が赤い服の男に殴られている絵が続いている。 赤い服の人物に対して怒りを燃やし

元曲「趙氏孤児」【第三折】

 引き続き元曲「趙氏孤児」第三折のあらすじを。 今までも、趙朔・公主・韓厥が次々自害して激しい展開でしたが、第三折がいちばん過激な気がします…。屠岸賈が鬼畜です。血も涙もないです。 そして、この劇一番のクライマックスの幕だと思います。殊に後半は…。 さて第二折では、趙氏孤児を救うため、命がけの策を考え出した程嬰と公孫杵臼。 第三折では、その策がついに実行に移されます。 *   *   * 「趙氏孤児大報仇」紀君祥・作 【第三折】 登場人物:  公孫杵臼(正末)  程嬰  屠岸賈 公孫杵臼に我が子を渡し、策の詳細を打ち合わせて帰ってきた程嬰。 その翌日、程嬰は屠岸賈の役所の門を敲き、「趙氏孤児の居場所を知っています」と告げる。 趙氏孤児が見つからず、国中の嬰児を殺すぞと息巻いていた屠岸賈は、その報告を聞いて早速程嬰と面会する。 屠岸賈に趙氏孤児の居場所を問われた程嬰は、「公孫杵臼が匿っております」と答える。 が、屠岸賈は「嘘を言え!! 貴様と杵臼には何の恨みもないのに、杵臼を密告する筈があるか!? 嘘ならば利剣で貴様を斬り捨てるぞ!」と食って掛かる(←案外読みが鋭い屠岸賈)。 程嬰の方は冷静に答える。 「私と杵臼には何の恨みもありません。が、私には生まれたばかりの子がおります。元帥(屠岸賈)は、趙氏孤児が見つからなければ国中の嬰児を殺すと命じられました。我が子と、晋の嬰児たちを守るため、孤児の居場所をお知らせしたのです」 その理由に納得し、かつ趙盾と昵懇だった杵臼ならば趙氏孤児を匿うこともありうる…と思った屠岸賈は、程嬰の言葉を信じ、部下を従え程嬰を引き連れて公孫杵臼のいる太平荘に急行する。 屠岸賈は、太平荘に着くと、早速公孫杵臼を捕らえて自白を迫る。しかし、公孫杵臼は「孤児とはどの孤児ですか?」としらばっくれて見せる。棒打ちにして拷問しても杵臼が口を割らないので、屠岸賈は程嬰に命じて杵臼を打たせる(非道だ屠岸賈っ…!)。 程嬰は「私は医者ですのでそんなことは…」と最初はためらうが、ここで屠岸賈に疑われる訳にはいかず、棒を執って公孫杵臼を打つ。杵臼は程嬰を罵りつつ、ついに自供を始める。しかし、程嬰がこの件にからんでいることだけは白状しない。 屠岸賈・程嬰・杵臼がごたごたしているうちに、屠岸賈の部下がついに趙氏孤児(=本当は程嬰の子。第二折参照)を見つけ出す。屠岸賈は笑

元曲「趙氏孤児」【第二折】

 引き続き、元曲「趙氏孤児」第二折。 公主から趙氏孤児を託された程嬰が、韓厥の助力を得て趙氏孤児を宮殿から逃して…の続きになりますね。 この幕には公孫杵臼が登場~! 杵臼がこの幕の主人公です。 程嬰と公孫杵臼が、趙氏孤児を救うため策を練る場面です。 *   *   * 「趙氏孤児大報仇」紀君祥・作 【第二折】 登場人物:  公孫杵臼(正末)  程嬰  屠岸賈 さて、屠岸賈はというと。 いつになっても趙氏孤児が送られてこないので、どうも安心できない。そこで部下に様子を見に行かせると、なんと宮殿では公主が首を吊り、門では韓厥が自刎して果てているという。 韓厥が趙氏孤児を見逃したな…と考えた屠岸賈は、すぐさま次の手を打つ。 すなわち、晋の国中の、生まれて6ヶ月以下・1ヶ月以上の赤ちゃんを全員逮捕して斬って捨てれば、その中に趙氏孤児がいるはずだから、孤児を殺すことができると考えたのだ(血も涙もありません屠岸賈)。 屠岸賈は、赤ちゃんを差し出せという命令を下し、これに逆らう者は一族皆殺しだ!と脅し文句を加えて国中に発布する。 さて、場面は太平荘という地に移る。 ここには公孫杵臼が住んでいる。 公孫杵臼は、趙盾とともに霊公に仕えて中大夫になった、かつての晋の重鎮だった(という設定です)。歳を取り、また屠岸賈が朝廷を牛耳っているのを憎んで、朝廷を去って野に下り、自適の生活を送っていた。そこに程嬰がやってくる。 屠岸賈が赤ちゃんを集めて皆殺しにしようとしていることを知った程嬰は困り果てていた。そこで思い当たったのが公孫杵臼だった。 公孫杵臼は趙盾と友誼があり、なおかつ忠直な人柄。彼ならば、趙盾の孫である趙氏孤児を匿ってくれると考えたのである。 早速程嬰は公孫杵臼に今までの経緯を説明し、趙氏孤児を彼に見せる。そして、自らが考えた趙氏孤児救出の策を公孫杵臼に説明する。 程嬰の策はこうだ。 実は、程嬰にも生まれて間もない赤ちゃんがいた。 そこで、自分の子を趙氏孤児だといつわって、公孫杵臼には「程嬰が趙氏孤児を匿っています」と屠岸賈に密告してもらう。そうして父子ともども殺されたなら、趙氏孤児を葬ったと思い込んだ屠岸賈は安心し、これ以上の追及はするまい。本物の趙氏孤児は公孫杵臼にかくまってもらい、密かに育て上げて欲しい――という策である。 趙朔への恩を返し、かつ晋の国中の赤ちゃんたちを救うた

元曲「趙氏孤児」【第一折】

 さて、楔子に引き続き「趙氏孤児」の第一折です。 てか、ネサフして調べてみたら、「趙氏孤児」って京劇に残ってて今でも上演されてるらしい。ストーリーは多少違うみたいですが、ほぼ元の頃と変わらないストーリーのようで…すごいなぁ。 それだけでなく、ヨーロッパにまで渡ってるらしい、この劇。す、すげー…(笑)。『元曲選校注』の注によると、ヴォルテール(伏爾泰)が手がけた劇だか本があるらしい。 では、以下に第一折のあらすじを。韓厥ファンの方はいささかショック受けるかも(笑)。 ちなみに登場人物のおさらいですが、 屠岸賈=趙盾の一族を皆殺しにした悪役大臣 趙盾=晋の大臣。屠岸賈に殺されかけてどこかに逃亡 趙朔=趙盾の子 趙氏孤児=趙朔の子 公主=趙朔の妻。 *   *   * 「趙氏孤児大報仇」紀君祥・作 【第一折】 登場人物:  韓厥(正末 :主役のこと)  程嬰(外)  屠岸賈  公主 趙朔の妻の公主は、宮殿で男の子を産み、趙朔の遺言どおり趙氏孤児と名づけた。しかし、偵察の手をゆるめていない屠岸賈にばれてしまう。屠岸賈は、「まあ一月後に趙氏孤児を殺しても遅くはあるまい」と言って(←突如ゆるゆるな屠岸賈/笑)、公主の宮殿を「下将軍」の韓厥に警備させ(ただの門番です韓厥…笑)、もし趙氏孤児を逃がす者がいたら九族皆殺しにする、という告知の張り紙をした。 公主は男子を産んだものの、このままでは屠岸賈の手にかかってしまう。そこで公主は程嬰を呼ぶ。程嬰は在野の医者で、趙朔の門下で優遇されていた。程嬰は趙朔の家族ではなかったため、屠岸賈による族殺からのがれて生きていた。 程嬰は、公主の産後の処方のために呼ばれたのだろうか、と思いつつ、公主に面会する。 程嬰が公主から頼まれたのは、「趙氏孤児を救い出して欲しい」ということだった。しかし、趙氏孤児を逃せば一族皆殺しである。程嬰は、無事に趙氏孤児を逃がす手立てが浮かばず迷うが、公主の必死の頼み込みを受けて、趙氏孤児を逃がすことを決意する。 しかし程嬰は、もし私が趙氏孤児を逃がしても、屠岸賈に詰問されたあなたは「程嬰が逃がしました」と言いはしませんか?と公主に確認する。公主は、決してそんなことはないと、その場で首を吊って死んでしまう。(結構唐突で過激な展開…) 程嬰は意を決し、薬箱の中に趙氏孤児を隠して外に向かう。 門口では、下将軍の韓厥が部下とと

元曲「趙氏孤児」【楔子】

  「趙氏孤児」 という戯曲のあらすじのご紹介を胡散臭くやってみたいと思います(…)。 …本当、元曲のテキストは尋常でなく読みづらい! 読めない部分に関しては、「多分こうだろう」という推測も交えてますので(おい)あしからず…あくまで参考までに。 本題に入る前に、「元曲」のご紹介を軽く。 元曲は、元代に隆盛した演劇のことです。 4幕で完結するのが基本形。幕数を数えるときは 「折」 という単位を使い、たとえば第一幕は「第一折」といいます。 4幕で収まらない場合は、 「楔子(せっし)」 という補助幕を挿入することが許されています。このスレッドでご紹介するのは、この「楔子」です。 私も今元曲について地道に調べてるところでたいした知識がなくて申し訳ないのですが、そんな感じだと思います。 ちなみに、テキストは『元曲選校注』(王学奇・主編/河北教育出版社)に入っている「趙氏孤児」を参照します。形式は、楔子1幕、折数は5、と、元曲の基本形からちょっと外れてます。 …と、前置きが長くなりました(汗)。 では、元曲「趙氏孤児」の楔子のあらすじを下に。 宮城谷さんの「月下の彦士」をお読みの方は「えぇ!?」と思う点多数かと…(笑)。   *   *   * 「趙氏孤児大報仇」紀君祥・作 題目:公孫杵臼恥堪問 正名:趙氏孤児大報仇 簡名:趙氏孤児 【楔子】 登場人物:  屠岸賈(浄)  趙朔(冲末)  公主(旦)←趙朔の妻。霊公の娘(ということになってます) (楔子は、屠岸賈のモノローグがほとんど。屠岸賈が趙朔に死を与えるまでのいきさつを、屠岸賈自身が延々と語ってます。) 屠岸賈は、晋の「大将」を務めている。 君主・霊公の下の文武の諸官の中で、武に関しては屠岸賈、文に関しては趙盾(ちょうとん)が、最も主の信頼を受けている。(←趙盾が霊公、すなわち夷皐に信頼されてる…という時点で「えぇ!?」な設定です…笑。今後もそんなのがいっぱい出てきます)。しかし、屠岸賈と趙盾は不仲で、屠岸賈は何度も趙盾を亡き者にしようとした。 ある時は、刺客のショ【金+且】ゲイ【鹿+兒】を差し向けて趙盾を殺させようとしたが、ショゲイは樹に頭を打ちつけて死んでしまった。 またある時は、霊公から賜った神ゴウ【敖+犬】という猛犬に、趙盾と同じ衣装をつけた人形に咬みつくよう100日間も訓練し、霊公の御前で「この犬は讒臣に咬みつき

『史記』小事典・世家編

久米旺生・丹羽隼兵・竹内良雄編  『「史記」小事典』 徳間文庫 2006 なんとなく読み始めてしまいました。司馬遷の『史記』の超ダイジェスト版。 史記…読んでみたいとは思うのですが、どうも敷居が高くて読めないので(春秋戦国ってごちゃごちゃしてていまいち分からんのです)、この一冊を買って、史記の雰囲気だけでも味わいたいな…と。 「世家」というのは…手持ちの『漢語林』の説明では、「諸侯や王の事跡を述べた編」。 その中でも、春秋戦国の列国の起源が前々から気になっていたので、こちらにちょいちょいメモしときます。 では、この本に載ってる順に… (姓と爵位については、春秋戦国史さまの記載を参考にさせていただきました) ■呉≪姫姓/子爵≫ 周の古公亶父の長男・太伯と次男・仲雍が、末弟・季歴に位を譲るために出奔して建国(ちなみに、季歴の子が周の文王)。それから数えて19代目が寿夢。その孫が公子光、すなわち闔閭。夫差の代に、越によって滅ぶ。 ■斉(呂氏。斉太公世家)≪姜姓/侯爵≫ 斉は、周の建国に功あった太公望(呂尚)の流れの呂氏の時代と、呂氏を倒して立った田氏の時代に分かれるが、そのうち呂氏の時代の歴史を収める。(田氏の斉については別に「田敬仲完世家」項目がある。) 呂氏の斉は、太公望呂尚がここに封じられて始まる。最も盛んだった時期が、桓公の時代。その後は家臣の力に圧倒され、田常が簡公を弑殺、その孫の田和が康公を海辺の地に遷し、康公の死によって、斉は田氏のものとなる。 ■魯≪姫姓/侯爵≫ 開祖は周の武王の弟・周公旦。実質的に魯の地に赴任してきたのは、周公旦の子・伯禽で、実質上の初代魯君となる。 周辺の楚・斉・晋などの列強に脅かされ、さらに三桓(魯の桓公の流れを汲む孟孫氏・叔孫氏・季孫氏)が強力で、君主の権力は不安定だった。BC249年に楚に滅ぼされる。 ■燕≪キツ[女+吉]姓or姫姓/(公爵→)伯爵≫ 開祖は召公セキ【百+大+百】。姓は姫氏。43代続き、王喜のときに秦に滅ぼされた。 ■管≪姫姓/―≫・蔡≪姫姓/侯爵≫・曹≪姫姓/伯爵≫ どれも、武王の弟が封ぜられた国。管は周公旦に対して反乱を起こして一代で滅び、蔡・曹も小国だった。 ■陳≪キ[女+為]姓/侯爵≫ 舜の子孫の国。 厲公の子である敬仲完(陳完。のち田完と姓を変える)は、内紛を避けて斉に逃げた。この敬仲完の子孫が呂氏の斉を

小説十八史略メモ【戦国2】

 陳舜臣 『小説十八史略』(陳舜臣全集) 講談社 1986 戦国時代続き。 【戦国時代】(人名の後ろの<>内は所属する国の名) ■孟嘗君(田文)<斉> 多くの食客を養った「戦国四君」の一人。斉のビン【さんずいに民+日】王の叔父に当たる。「この日に生まれた子は、大きくなると父母を害する」といわれる5月5日に生まれ、父に捨てられそうになったが、母が密かに田文を養育していた。秦の昭王からの申し入れで、孟嘗君は秦に行って宰相になった。が、秦の朝廷では、やはり孟嘗君を用いるのをやめ、他国に行かれる前に殺そう、という話になった。これを密かに知った孟嘗君は、食客を使って秦の昭王の追っ手をかわし、秦から脱出した。秦の国境の函谷関を「鶏鳴狗盗」の徒によって脱出した話は有名。 孟嘗君は斉に帰ったが、ビン王との折り合いが悪く失脚。3000人いたと言われる食客は散り散りに去ったが、一人残った馮灌の尽力で斉の宰相に。再び多くの食客を養った。が、やはりビン王に憎まれて殺されかけたので、魏に奔ってそこで宰相となった。 ■秦の昭王<秦> 孟嘗君を秦の宰相に迎えたい、と、母(宣太后)の弟の涇陽君を人質として斉に差し出し、孟嘗君を迎えた。 ■幸姫 秦の昭王の寵姫。孟嘗君が殺されそうになった時、孟嘗君側から頼まれて、貴重な皮衣とひきかえに孟嘗君への追及の手を緩めるよう取り計らう。 ■孔路 孟嘗君の食客。弁舌が得意。幸姫と折衝する役目。 ■狗盗 孟嘗君の食客。盗みが得意。「狗盗」というのは、名前というよりは、特技から来たあだ名。幸姫に要求された皮衣を盗み出し、孔路がこれを幸姫に贈った。 ■馮灌(ふうかん) 「馮驩」とも。孟嘗君の食客。弁舌が得意。孟嘗君が失脚した際でも、孟嘗君に付き従って尽力する。孟嘗君からの待遇が悪かった時、「長鋏(ちょうきょう)帰らんか」(わが剣よ、さあ帰ろう)と言って「弾鋏」(剣のつかをたたく)して不満をもらした話でも知られる。 ■斉のビン【さんずいに民+日】王<斉> 斉王。孟嘗君と折り合いが悪く、何度も孟嘗君を失脚させる。ビン王の死後に即位した襄王は、孟嘗君と和解した。この本にはなかったけど、燕の楽毅に攻められて、斉の70余城を抜かれたのは、このビン王の時だったような。 ■戦国四君 いちおうメモ…。戦国時代、多数の食客を抱えていた人物たち。 <斉>孟嘗君  名は田文。 <趙>平原君

小説十八史略メモ【戦国1】

陳舜臣 『小説十八史略』(陳舜臣全集) 講談社 1986 春秋時代と戦国時代の境目は、晋が趙・魏・韓に三分された時期に置かれるようです。西暦で言えば、晋の三分は紀元前453年、呉王夫差が死んで呉が滅んでから20年経った時。ただし、趙・魏・韓が周から諸侯として認められたのが紀元前403年になるので、この時を戦国時代の始まりとみなすことも多いようで。私が持ってる世界史の資料集には、紀元前403年から、秦が天下を統一する紀元前221年までが戦国時代、と書いてあった。 ということで、以下は戦国時代のメモ。有名人が多いですな…。 【戦国時代】(人名の後ろの<>内は所属する国の名) ■知伯<晋> 晋の有力者「六卿」(知氏・趙氏・魏氏・韓氏・中行氏・范氏)の一人で、六卿の中で最も有力。まず范氏・中行氏を滅ぼし、韓氏・魏氏をおどしつけてともに趙氏を滅ぼそうとしたが、韓・魏両氏に裏切られて身を滅ぼす。この本には採用されていないけれど、趙の君主・趙襄子を狙った刺客・予譲は、この知伯の知遇を得ていたんですよね。予譲は「士は己を知るもののために死す」「塗炭の苦しみ」の語でも有名。 ■趙襄子・魏桓子・韓康子<晋> 各々「六卿」の一人。魏桓子・韓康子は知伯の力を恐れてやむなくこれに味方し、知伯に逆らった趙襄子を攻めたが、趙襄子の配下・張孟談の説得と奇策によって趙襄子の味方をし、知伯を破る。 知伯の死後、三氏は知伯の領土を三分した(これが晋の三分)。 ■張孟談 趙襄子に仕える。知伯の水攻めに遭って苦しんでいるとき、知伯を逆に水攻めにしてやろうという奇策を携え、魏桓子・韓康子を説いて味方につけた。 ■孫ピン【月+賓】<斉> 兵法書『孫子』を著した孫武の子孫。斉の人。同じ塾で学んだホウ【广+龍】涓に憎まれ、罠にはめられてヒン【月+賓】刑(足斬りの刑)にされる。後、斉に戻り、田忌のもとで軍師となった。魏・趙に攻められた韓が斉に援軍を求めたとき、田忌とともに出兵し、魏の将軍となっている因縁のホウ涓と戦う。孫ピンは、かまどの数を減らして(兵が逃げ去っていることを装い)ホウ涓を油断させ、馬陵に誘い込んでホウ涓を破った。 ■田忌<斉> 斉の将軍。威王の頃、政争に敗れて一時亡命したが、威王が死に、宣王が即位すると、再び斉で将軍となった。孫ピンと組んで出征することが多かった様子。鄒忌と仲が悪い。 ■鄒忌<斉> 斉

小説十八史略メモ【春秋2】

 陳舜臣 『小説十八史略』(陳舜臣全集) 講談社 1986 春秋時代のメモが長くなりすぎたので、春秋時代の呉越関連の人物をこちらに分けてメモします…。 【春秋・呉越関係人物】 ■伍子胥<呉> もとは楚の人。父の伍奢と兄の伍尚が楚の平王に殺される。平王の子の太子建、そして建の遺児・勝とともに各地を放浪した末に、呉の公子光(後の呉王闔閭:コウリョ)に仕える。後、呉軍を率いて楚の都・郢(えい)を攻略し、既に死んでいた楚の平王の死体を掘り出して鞭打ち、積年の恨みを晴らした。闔閭の死後に即位した夫差と馬が合わず、自殺を命じられた。「わが死体の目をくり抜いて呉の都城の東門に置け。越が呉を滅ぼすのを見てやるわ!」と言って自殺した。伍子胥の遺体は皮袋に入れられて長江に捨てられた。 ■申包胥<楚> 伍子胥の親友。伍子胥が楚を出るとき、「俺は楚をひっくり返してやる」と言うと、申包胥は「ならば俺は楚を再興させよう」と言った。後、伍子胥・孫武らの呉軍が楚の首都・郢を陥とした。申包胥は秦に援軍を請い、拒否されても7日間飲まず食わずで秦の宮殿前で哭き続けた。ついに折れた秦の哀公は楚に兵を与え、楚は呉を撃退した。 ■楚の平王<楚> 息子の建の嫁にしようと思っていた秦の王女が好みの美人だったので、家臣の費無忌にそそのかされて自分でもらってしまう。建もこれを知っていたので、平王はその逆襲を恐れ、建のお守役であった伍奢(伍子胥の父)と建を殺そうとした。建は亡命し、伍奢は殺害された。 ■費無忌<楚> もと、太子建の少傅(お守役の副担当)。太子建に取り入るよりは平王に付いた方がいい身分になれる、と考え、秦の王女を平王に薦めることでご機嫌を取った。加えて、太子建一派が権力を握れぬように…と、建と、その太傅だった伍奢を讒言した。平王の死後誅殺される。 ■太子建<楚> 楚の平王の子。父に疎まれ、宋に亡命。その後は伍子胥とともに晋・鄭を渡り歩く。晋の頃公に「鄭に入り内応してくれぬか」とそそのかされ、建は承諾するが、事を起こす前に露見した。鄭の宰相・公孫僑(子産)が鄭の定公に建の殺害を勧めた。建の死後、伍子胥は建の子・勝を連れて鄭を出た。 ■鄭の定公<鄭> 楚から逃げてきた太子建を手厚く保護する。後、建が恩義を裏切って晋に応じようとしたので、宰相の子産の勧めで建を殺した。 ■季札<呉> 呉の寿夢(じゅぼう)の末子で

小説十八史略メモ【殷・周・春秋1】

 陳舜臣 『小説十八史略』(陳舜臣全集) 講談社 1986 中国史のふりかえりのために、図書館から借りてきました。 やはり登場人物多いなぁ…名前は聞いたことあってもどんなことをしたか知らない人もいるなぁ…ということで、以下読んだ端からメモします。なので、私の知らない人物についての記述が多くなります。 ホントに「備忘録」そのものになってしまってすみませぬ; このスレッドには、先史~殷~周~春秋までの登場人物をメモ。 なお、『「小説」十八史略』と言うからには、筆者の陳さんの創作も混じっているかと思いますので、その点も念頭に置いてメモをご覧くださいませ。 以下、登場人物の簡単なメモ。 【先史】 ■ゲイ【羽+廾】 尭の世と夏王朝にこの名の人物(いや、もともとは神らしい)がいたという。いずれも弓の名手。天に10個の太陽が昇り、地上が灼熱にさらされた時、天帝の命を受けて天界を降り、9個の太陽を射落としたという伝説がある。弓術の弟子の逢蒙に殺された。弓の弟子が師匠を殺そうとする…というのは、中島敦の「名人伝」にもありますね。 ■ジョウ【女+常】娥 ゲイの妻。元は同じく神だが、夫が天帝の怒りに触れため、夫ともども神籍を外されて人間になる。ある時、夫が崑崙山の西王母から薬をもらってきた。一粒飲めば不老不死、二粒飲めば神になれる、という薬を、ちょうど二粒。夫と一粒ずつ飲んで不老不死になろうという約束だったが、神に戻りたいジョウ娥は、一人で二粒飲んで天に昇った。天と地の間の月で一休みすると、体が蝦蟇蛙になってしまった。 【殷】 ■紂王・妲己 殷最後の皇帝と、紂王を狂わせた美女。周公が妲己を紂王好みの女にしたというけど…こ、これは陳さんの創作…? ■比干・箕子 紂王の叔父、かつ殷の賢臣。比干は惨殺され、箕子は投獄される。 【周】 ■文王 周の文王。古公亶父の孫、季歴の子。 ■武王・周公 ともに文王の子。 ■太公望 東海の人、姓は呂、名は尚。文王の祖父(太公)が望んだ賢者であるので「太公望」と呼ばれる。 ■周の幽王・褒ジ【女+似】 周の国祚を傾けた暗君と、笑わない絶世の美女。褒ジは龍の唾液の化身だとか…。ある時、間違ってのろしが上がり、すわ大事と諸侯が都に駆けつけた。普段笑わない褒ジが、あわてて駆けつけた諸侯を見て、初めて笑った。幽王は大喜びで、以後、褒ジを笑わせるためだけにのろしを上げた。

『巴黎本水滸全伝の研究』

 白木直也『巴黎本水滸全伝の研究』 1965 水滸伝の版本を、文簡本を中心に考察した論文…かな。 水滸伝の版本の話を読んでみたいな、と思い、図書館で借りました。 一口に水滸伝と言っても、その種類はいろいろ。 100回本、120回本、70回本という分類の方法をご存知の方もいらっしゃると思います。 100回本を基準にすれば、120回本は100回本に田虎・王慶討伐の段を加えたもの。70回本は、梁山泊に108人の好漢が集まったところで強制終了させて、朝廷との戦いや遼・方臘討伐を描かないもの…という違いがあります。 さらにまた、「文繁本」「文簡本」という区別の仕方もあります。 「文繁本」 は、記述が詳細なもの。 「文簡本」 は文繁本に比べて記述が簡潔で、あらすじだけを追ったもの。 岩波文庫で出ている吉川幸次郎・清水茂による100回本の訳や、講談社(今は別の出版社で出てたけど…どこだっけ、ちくま文庫?)で出ていた駒田信二による120回本の訳は、全て「文繁本」の翻訳です。水滸伝はその描写力が卓越して面白いので、それを切って捨てた文簡本は面白みに欠けるのです。文簡本の訳本はありません。 …と、前置きが長くなりましたが。 この『巴黎本水滸全伝の研究』は、「文簡本」についての論文です。 タイトルにある 「巴黎本(パリ本)」 というのが、パリ国立図書館が所蔵する水滸伝文簡本のテキストの通称なのです。たった1巻と数ページが残っているだけ…という、中途半端といえば中途半端なテキストです。 が、他の文簡本と比較することで、このパリ本がどのような特徴を備え、他の文簡本(あるいは文繁本)といかなる相互影響関係があるかを考えた論文…だったと思います(汗)。 …こんな曖昧な言い方なのは…この論文、読者に要求する前提知識のレベルがかなり高くて、水滸伝の版本に詳しくない私は四苦八苦だったのです…(へたれ)。 ではまず、この論文の中に出てくる文簡本のテキストにどのようなものがあるかをまとめてみる。 ■パリ本 パリ国立図書館所蔵の文簡本。鄭振鐸(ていしんたく)が発見し、その存在を紹介。 正式なタイトルは「新刻京本全像挿増田虎王慶忠義水滸全伝」。 巻20全てと、巻21の8ページ(4葉)しか残っていない。 ■京本 内閣文庫のものと、日光山慈眼堂のものの二つがあるらしい…。 正式なタイトルは「京本増補校正全像忠義水

刺青のはなし

 澤田瑞穂『中国史談集』を読んでます。 その中の「雕青史談」という章に、中国歴代の刺青史について触れてあります。この本を買おうと思ったのも、この章があったからで…(笑)。 刺青と水滸伝は切っても切れない間柄(なのか)ですからね! 刺青は、一種の魔除けや受刑者の印として施されたのが初めらしい。そういえば、漢の高祖劉邦の将・英布も、罪人の印の刺青があったから「黥布」(げいふ:黥はいれずみのこと)とも呼ばれていたんですよね…確か。 お洒落として刺青が彫られたのは唐~元 にかけてで、明の太祖洪武帝に至ってほぼ断絶したらしい。水滸伝の舞台となる北宋末は、お洒落刺青の最盛期に重なるということになります。 刺青をあらわすことばは複数あって、刺青・箚青・札青・点青・彫青・刺花・彫花・花繍などとも表現されるらしい。ちらっと水滸伝を見てみると、魯智深と燕青の刺青に関しては「花繍」が使われていました。 水滸には他にも刺青を持った好漢がいるので、どの好漢にどんな表現が使われているのかを見てみると、案外面白い発見があるかもしれません。 この章には、水滸伝に触れる節もありますが、その他刺青に関する記述のある文献を多数引用してあって、なかなか圧巻です。白居易の詩を連想させるような図柄を全身に彫った、などという風流じみたものから、男女のあれーな場面を彫って見せびらかして面白がってたというあほか!な話、科挙の試験のカンニングのために腹に解答を彫り込んだけど、未然にバレて落第した…なんていうどうにも痛々しい話までいろいろ。 水滸の刺青は荒くれ、または男伊達の象徴といった感じですが、刺青にもいろいろあるのね…(笑)。 そういえば、水滸伝に登場する呼延灼の先祖とされる呼延賛が、自分だけでなく家族の者にも「赤心殺賊」という刺青をさせていた、なんていう話もありました。子孫の呼延灼は刺青をしていなかったみたいですが。 …水滸伝が本として刊行されたのは、お洒落刺青が衰退した明代になりますが、明の人たちにとって、水滸伝の好漢たちの刺青はどう見えたんだろう。肯定的に受け入れられたのか、否定的に捉えられたのか。古い昔の無頼漢の象徴として、そういえばこんな時代もあったのだという懐古的な思いで見られていたのだろうか。 水滸伝の舞台の宋代は刺青に肯定的。水滸伝が著作された明代は刺青に否定的。その中に、刺青を持った水滸伝の好漢